ワイルドカード7巻 その13

   ジョージ・R・R・マーティン

       午後10時
  

       「お眠り」
そう囁いたエジリィの声を聞きながら、
ジェイはすでに強い眠気に襲われていた。
なんとか抵抗しようと試みはしたが、
身体が柔らかいカーペットに沈み込んで
いくように感じる。
目は閉じようとし、
穏やかに漂っている。
ここに至り、どれだけ疲れていたかを
思い知らされることになった。
微笑みながら見下ろしているエジリィの
腹部の感触を手で感じながら。
灯りをつけようとすらしない。
それなのにカーテンの向こうに遮られている
筈の外にある街灯の明かりが感じられてならない。
エジリィの乳首は大きく暗くて、
ほろ苦く甘いチョコレートの味を思わせてならず、
手を伸ばし、脇腹に触れると、
エジリィの指が手首を掴んで、
「駄目よ」というが響いて、
「目を閉じて、お眠りなさい、坊や、
夢を見るの」という囁き声が重ねられ、
眉に口付けするのを感じ、
Ezili je rougeエジリィ・ジュ・ルージュの夢を」
という言葉を耳にしながら、
ジェイの一部はやばい状況だと騒ぎ、
一方で構わないとも思えている。
娼婦だとするなら、金が目当てだろうか。
またもやそれもどうでもよく思えてくる。
高くつこうとも、それだけの価値があるだろうと
思えている。
「一晩幾らだ?」
まどろみながらそう囁いていた。
エジリィが笑い声を立てている。
可笑しげでありながら、
明るくリズミカルに笑っている。
額をだらりと垂らし、
慰めるかのように指を動かしながら、
部屋は暖かくも暗く、
目を閉じると・・世界が流れていってしまうように思える。
ジェイに触れるエジリィの指は感極まったようで優しく、
それでいて小声で呟き続けている。
「一晩中、一晩中」と。
何かおかしいことを話しているかのように。
一方で開いたドアの向こうからも、
何か音が聞こえている。
さらさらいう衣擦れのような音が。
誰か他にいるのだろうが、
ジェイにはもはやどうでもよくなっている。
暖かい、眠りの海を、
漂って、沈みつつあるのだから、
おそらく今夜は、あの悪夢を見ることもないだろう。
そこで大きな音を立ててドアが開かれた。
「誰かいるのか?」と大声が響き渡った。
歩道からの灯りを顔に感じて、
意識が引き戻されてきて、
目の前に手をかざしながら、
ふらふらと起き上がると、
指越しに、ドアの傍に立っている男が目に入った。
Shitくそったれ」
そうこぼしながら、
自分がどこにいるかを思い出した。
エジリィは足元に崩折れながら、
フランス語で何かをがなりたてている。
ジェイにはフランス語はわからないが、
英語に近い言葉を拾い上げ、
その口調からだいたいの意味は掴み取った。
鈍い騒音に後ろを振り返ると、
今しも寝室のドアの陰から暗い人影が立ち去るところで、
(子供だろうか)そう思い。
(背骨の捩れた猫背の男かもしれない)
そうも考えもしたが、あの灯りではそこまではっきりとは見てとれず、
ドアはいきおいよく閉められてしまった。
「もう我慢できない」玄関口からも声が聞こえてきた。
それはかすれて震えた声だった。
エジリィが口角泡を飛ばし、フランス語でその声の主を詰っている。
「わからないんだ」そうして懇願しているではないか、
「もう待てない、キスしておくれ、必要なんだ、お願いだから」
聞き覚えのある声だった。
長いすに飛び乗って、
手探りでランプを探し、
ようやく明かりをつけることができた。
「結局わかっちゃいないんだよ」
それはサーシャの声だった。
「黙りな、うすのろ」
エジリィが英語でののしり返している。
サーシャがゆっくりと振り返り、ジェイの方を向いて、
「あんた」
その声を聞きながら、ようやく自分が裸であることを思い出した。
脱いだ服は部屋中に散乱しているではないか。
ズボンは長椅子の背にひっかかっていて、
トランクスはランプシェイドの上に掛けられたかかちになっており、
靴下と靴は見当たりはしない」
エジリィもまた全裸のようだ。
もちろんサーシャに目はないが、
それに問題のないことはジェイも弁えている。
「俺だよ」そう声をかけながら、
ランプシェイドのところのトランクスをひったくって履いたが、
何と声をかけたらいいか思いあぐねている。
(すまない、あんたと話があって来たんだが、彼女の尻があまりにも
魅力的だったもんでな)
いやそんなことが言えるはずもない。
ともあれサーシャはテレパスだから、
そんなことは先刻承知のはずだが。
「臆病者」エジリィはサーシャを罵り続けている。
「弱虫、なんであんたにキスしなけりゃならないんだい。
あんたにゃその価値すらない」
ジェイは幾分驚きをこめてエズリィを見ていた。
これもエズリィの一面なのだ、と思いながら。
おそらく娼婦が客に対してはけして見せない顔なのだろうが。
裸のまま、両拳を腰に当て怒りを顕わにして。
そこでジェイは、初めてエズリィの首に大きく無骨な茶色い瘡蓋の
ようなものがあるのに気付いた。
何か性病を患っているのではなかろうか。
例えばエイズのような。
そういえばエズリィはハイチ人だそうじゃないか?
どうにもバツの悪さを感じてならない。
「シャツはどこだったっけ?」
と搾り出した声には、思ったより怒りが滲んでしまったとみえて、
エズリィとサーシャが共にジェイに視線を向けてきた。
エズリィはまだフランス語でもごもご言っていたが、
裸足に気付いたのか、ベッドルームに入って、
バタンとドアを閉めたあとに、ガチャリと鍵をかける音が響いてきた。
サーシャは泣きそうな顔をしている。
(目はなくともそいつはわかるというものだ)
サーシャは沈むように椅子に掛け、
目がないながら、顔をジェイの方に向けて訊ねてきて、
「それで」苦々しさを滲ませて続けた。
「何が望みなんだ?」と。
ジェイはズボンと格闘しながらも、
どうにも居心地の悪さを拭いきれずにようやく言葉を
搾り出した。
「エルモを探している」
そう言いながら何とかズボンの間に脚を突っ込み、
チャックを閉めていると、
「皆エルモを探しているんだ」
そうサーシャがこぼしてきた。
サーシャがこんなに顔色を無くし、汗まみれで取り乱して
いるのをみたことがないほどだ。
「何か頼まれて出てったきり、戻っちゃこなかったぜ」
ヒステリー一歩手前といった甲高く感情的な声だった。
「戻ってこなくて幸いだった、そこにいたら吊るし上げを
くらっただろうからな」  
どうにも靴下が片方見当たらず、
見つかった方をポケットに放り込んで、
靴を履こうと長椅子に掛けた。
長椅子は新しく、ワイン色のビロードで革張りされており、
おそろしく高価に見える。
(そういえばこのアパートをじっくりと見たことはなかったな)
床は雪のように白いディープパイル地で覆われており、
見渡すとキッチンがあって、
銅板張りのポットに、青銅色の解凍機能付冷蔵庫と、
小さな部屋には不似合いな普通の二倍はありそうな大きな電子レンジが
あり、
リビングには手の込んだ図形が床から壁一面ぐるりを覆う高価そうな、
ジェイの知らない抽象画がかかっていて、
(おそらくハイチのものに違いあるまい)
左側にはロフトがあって細かく区切られた寝室が、
5つだか6つはあるようだ。
「ここは何なんだ?」困惑して訊ねていた。
「あんたにゃ関係ない」そしてサーシャは言葉をついだ。
「どうしてそっとしておいてくれないんだ?」
「質問に答えてくれたらそうするよ」
その言葉はサーシャの怒りに火を注いだようだった。
「いやだ・・もう待てないといったじゃないか。
出てってくれ、キスが必要なんだ……
いてほしくないと言ってるんだ、ほっといてくれないか?」
こんなサーシャを見るのは初めてだった。
「何があった?」そして訊ねた。
「何にかかわっちまったんだ?」
サーシャの怒りは落ち着いたのかくすくす笑いながら続けた・・
「そうとも、ワインより甘いキスだ」
ジェイは立ち上がってしかめっ面を返すと。
サーシャは激しい調子で繰り返した。
「エジリィはベッドだとたまらないものがあるだろうが、
付き合いが長い分、あんたじゃ俺の一晩には及ばない」
「サーシャ、あんたの夜の営みのことはどうでもいい。
エルモを探しださなきゃならないんだ。
俺の知らない情報がある。
そいつを聞き出すことで、
クリサリス殺しの犯人につながるかもしれないんだ」
サーシャはその細い鉛筆を思わせる口ひげを微かに振るわせて
応えた。
「誰が殺したかわかってるじゃないか?カードを残していったんだろ?
そうとも、あんたにもわかってるだろ、あいつだとも……」
サーシャの言葉に、何か違和感を感じながら応えた。
「たしかに死体の横にスペード、エースのカードはあったが、
だからといって、ヨーマンが犯人だという決め手もない、奴は……」
「奴だ」
サーシャが怒りで脚を振回しながら言葉を割り込ませてきた。
「ヨーマンさ、奴がやった、殺したのは奴だよ、ポピンジェイ。
そうとも、奴は戻ってきたんだ、あいつを見たんだ」
そこでジェイは聴き返していた。
「見ただって?」
サーシャは興奮を滲ませ頷いてから応えた。
「ブライトンビーチの、母さんの所だ。
奴は俺を探しに来たんだ、エルモも探していると言っていた」
「なぜだ?どうしてクリサリスを殺さなきゃならない」
サーシャは用心深く室内を見回してから、
誰も聞き耳を立てていないのを確信してから、
屈んで耳に口を寄せ囁いた。
「あの人は本名を知ってしまったんだ」
くすくす笑いながら続けた。
「聞きたいかい?知ってるんだよ。
それともこのまま帰っちまうか?」
「あんたも知ってるのか?」
サーシャは激しく頷いてから応えた。
「直接口にしはしなかったが思考が読めたんだ。
それと知ったら・・俺も殺されていただろうな。
どうだい?」
「教えてくれないか?」
「このまま俺から手を引いて、俺を煩わせないと約束
してくれないか、愛の営みを邪魔しないと……」
「約束しよう」
幾分いらだち紛れなジェイの言葉にサーシャはようやく
応えた。
「ダニエル・ブレナンだ、さぁ出てってくれ」
ジェイは一度振り向きはしたがドアのところに行き、
ドアを開け外に出ようとした。
その時サーシャは寝室のドアの前で膝をついて、
目のない頭を床にこすり付けて懇願し続けていた。
その魔性のキスを。