ワイルドカード7巻 7月20日 午後10時

   ジョージ・R・R・マーティン

       午後10時


今回は呼び鈴を鳴らさないことに決めた。
以前エジリィにひどいめにあわされたことを思いだし、
憂鬱な気分を持て余して用心することにしたのだ。
路地に転がっていた空のゴミ箱を立てて、その上に
立ち、上にぶら下がった鉄の避難梯子に手を伸ばし、
背伸びしてようやく片手で掴むことができ、身体を
引き上げた。
と思った瞬間に、バランスを失ったゴミ箱が倒れ、
片腕で梯子にぶらさがりながら、悪態をつきつつも、
何とか身体を持ち上げて、もう片方の手で梯子を
掴み、懸垂の要領で身体を持ち上げ、上り始めた。
自分を指差してテレポートすることができれば簡単に
潜入できるだろうが、そいつは叶わない。
地道なやり方でいくしかあるまい。
ともあれそんなことを考え、上ることに集中しようと
していると、胡乱な匂いが漂ってきて息を飲むことに
なった。
見たところサーシャのロフト内の灯りはすべて落ちて
いて、ジェイは音を立てないようにして梯子から窓の
ところにまで移動すると、生きた心地もないまま、
身に着いたなんとやらで、カメラがなければさほど
問題もあるまいと、寝室につながった窓から中を
確認し、誰もいないと判断してから、ガラス切りを
取り出して、窓枠の鍵に近い辺りを用心しつつ、
切り取って、手を差し入れ、鍵を開けると、匂いは
さらに強く感じられるようになっていて、窓を開け
放ったまま、胡乱な感じしかしない窓敷居に置かれた
ハーブやら花やらの植木を避けるように中に入ると、
部屋にはその妙な匂いが漂ってはいるものの、サーシャも
エジリィも帰っていないどころか、誰一人生きたものは
いないことを確認し、寝室のドアの傍まで行って、
静かに開けてみたが、中からは特に音も聞こえない
ようで、廊下に出てみると、ロフトは思ったよりも
広いようで、そこにはリビングがしつらえられていて、
それ以外にも贅沢な感じのキッチンに浴槽も二つあって、
寝室も6部屋あった。
奥に入っていくにつれ、匂いはさらにひどくなっていて、
奥の寝室につながるドアを開けると、さらに息が詰まり、
圧倒されつつも、寝室には化粧台があって、そこから
様々な香りの入り混じった匂いが立ち込めていて、
ジェイは引き出しを開け、中を探って、レースの
ハンカチを取り出し、鼻と口にあて、それから浴室に
入ると、そこには死体が転がっていた。
スリガラスの窓から差し込む微かな灯りに照らされて、
タイル張りの浴室を照らしていて、死体の周りに白い虫が
たかっているのも見て取れた。
ハンカチを通してでも、その匂いは耐えがたかったが、
なんとか灯りを点けると、その死体は子供のものである
ことがわかった。
少年といった歳に違いないと辺りをつけたものの、それも
かろうじてそう見えるに過ぎない。
ダイム・ミュージアムで出くわした猿の化け物より少し
大きいくらいなためそう考えたわけだが、それでも
サーシャやエジリィより小さいことは間違いない。
そういえば寝室でこんな小さく歪な姿を見たことが
なかっただろうか。
あのときはエジリィといるところにサーシャが入って
きてちゃんと見ることはできなかったわけだが。
だとしたらあれはあの二人の子供だろうか……
もしそうだとしても母親があんな風に自分の子供の
死体を浴室に転がしたままにしておけるものだろか。
見たところだいぶ腐敗は進んでいるようで、白い
虫が夢にでてきたコーンフェイスの白い姿を想い
起させて気分が悪くなりつつも、その身体をよく
見てみると、かろうじてジョーカーであることが
わかった。
服は着ておらず、初めに身体から伸びた手足が普通
より多いことがわかり、最終的に脚の間から伸びて
長いものは尻尾だとわかった。
身体は俯せになっていて、あまり状態はよくないため
特徴を捉えきれないものの、首の辺りに蛆に覆われた
大きな傷のようなものがあることは掴めた。
これだけ見れば充分だろう。
そこでジェイは灯りを消して、ドアを閉め、暗い
廊下に出ると、これからどうしたものかと考えていた。
警察を呼ぶべきだろうが。
まともに入ったわけではなく、不法侵入と呼べる状態で
あることは間違いない。
自分が通報する必要もあるまいと判断し、ハンカチを
ポケットに入れて、もう少しアパート内を探ることに
した。
今は誰もいないにしても、いつか誰かは来ないとも
限らない。
そこで誰だか知れたものじゃない死体の主を残して
急いででていったことが見て取れた。
開けっ放しになった引き出しから服を出して、慌てて
持ち出したようで、以前目にしたハイチ風の衣装も
見当たらず、家具だけを残してほとんど残っていない。
しかしまったく痕跡がないわけじゃない。
エジリィとサーシャ、そして死んだ子供が同じ部屋で
一緒に暮らしていたことは間違いない。
床に直にしかれたマットの上にはウェイトリフティングの
雑誌が積まれたままで、その近くに置かれたバーベルも
相当使い込まれたものであることが見て取れる。
だとしてもサーシャが鉄アレイで身体を鍛えていたという
のは考えにくいが、などと思いつつも、他の部屋に行くと、
そこは窓も閉められたままながら、まるで中世の拷問部屋を
思わせる内装となっていた。
防音の施された壁に手錠がぶら下がっていて、部屋の真ん中に
は血の跡が染みついた長い手術台を思わせるテーブルがかれて
いて、クローゼットの後ろにドアがあって、そこには車輪の
ついた回転式の道具置きがあって、ナイフやらペンチやら
ねじ回しやらおもちゃのような器具やらが収められていて、
そこにも乾いた血の跡が認められる。
3つ目の寝室には使用済みの注射器やら錠剤が散らばっていて
折り畳み式の椅子や枕のとっ散らかった様相は60年代に
流行ったhippie crash padヒッピー宿のようながら、リネン張の
クロゼットはワインセラーになっていて、ざっとみただけでも
手ごろなChateau Lafitte Rothschildシャトー・
ラフィット・ロートシルトもあれば、ラベルを見たとこころ他にも
高い銘柄のものもあるようで、冷蔵庫を開けてみるとDon Perignon
ドン・ペリニヨンもあれば、ベルーガ・キャヴィアのカン詰めやら
何やらうまそうな輸入品も揃えられていて、どれもうまそうながら、
さほど腹もすいていないから、次は玄関クローゼットを見ると
そこには冬物の衣服がかかっていて、それを見るによほど急いで
出たことがわかるというものだ。
ドア側には麻のジャケットがかけられていて、中のラックには
ミンクやクロテンやら、おさらく絶滅危惧種と思しき動物の毛皮の
コートがぎっしり詰め込まれていて、他には革のフライトジャケット
やら、カシミアやらスエード革やららくだの毛皮といったいかにも
高価なものもあれば、デニム生地やポリエステルの安手のものも
あるが、男物と女物の区別なく詰められているようで、大きさも
季節もまちまちなものが見て取れるが、残念ながら、肩に銃弾を
うけて穴の開いたジャケットは見たところ見当たらず、そこで
立ち尽くし、考えをまとめようとしていると、突然電話が鳴り始めて、
遺体安置所でクリサリスの声の電話を受けたときのことを思い出し、
背筋が冷たくなる感覚を覚えながらも、ともかくあのときときと
違う、ここに俺がいるのは誰も知らないはずだから、と己に言い聞かせ、
ハンカチを手に巻いて、受話器を取って耳に当てると、
「どれだけ電話したと思ってるんだ、いったいどこに行っていやがった?」
男の声でそう聞こえてきて、
「口づけが必要なんだ、おい、聞いてるのか?あれなしじゃどうなるか
わかっているだろうに」そう一気にまくしたてたところで、ようやく
何かおかしいと気づいた様子で、「エジリィ、あんたじゃないのか?」
と声をかけてきた。
そこでジェイは声色を変えつつ「ここにはいないよ」と応え、
「誰なんだ?」と訊き返すと、
すこしの沈黙の後に、「それじゃ俺と話しているのはどいつだ?」
と返されてきて、「サ−シャだよ」と声色をまねて応えたものの、
「あんた、サーシャじゃないな」そう断言されたところで、
ともあれ何を言ってくるか黙って聞くことにした。
すると「おい、誰なんだ?」男はそう言葉を被せてきて、
「俺を甘くみると、面倒なことになるぜ」そう言い放ったでは
ないか。
その言葉には聞き覚えがある。
そう思いながらも、警察に電話しなかったことを後悔しつつ、
受話器を落とすように電話台に置いて電話を切っていて、
ともかくさっさとここから離れなければ、と己に言い聞かせていた。
じきにカントはここにかけつけてくるに違いないのだから。
それから電話から少し離れたところで、電話台の横にメモ帳が
置かれていて、破りとられた形跡はあるが、筆圧が強かった
ようで、文字のかきとられた跡が、下のメモにも残っているのが
わかった。
おそらく時間に違いない。
ジェイはそのメモ帳をポケットに突っ込むと、避難梯子のところ
まで戻りながら、その数字のことを考えていた。
探偵学校で学んだことを持ち出すまでもなく、それはおそらく
航空便の時間に違いなく、だとすれば、当分戻ってこないと
考えていいだろう。
そこでさらに考えていた。
噂の背の盛り上がった御仁にかのバーテンダーがでくわしていない
ことを祈りながら。