ワイルドカード7巻 7月20日 午前6時

     ジョージ・R・R・マーティン
       1988年7月20日
         午前6時


身じろぎもしない病んだ色合いの月明かりに照らされて、
通る端から飢えたように手を伸ばす木々の指の間を通り
抜け……
厳めしく星のない空に浮かぶ月からまるで生きている
ような波動を感じ顔を上げることができないでいて、
色の褪せた青白い光を強烈に浴びつつ、見なくとも
わかるというものだろうか、それとも鞭のごとくしなる
枝が笛のように秘密を囁いているということだろうか。
暗く不毛な大地を歩いていくと、灰色の草が脚を掴もうと
してきて、魂の奥を黒く蝕む恐怖が広がっていくのを感じて
いると、巨大な翼が乾いた音を響かせ、生命の感じられない
大気をかき混ぜながら、肌を割き……、
低い獰猛な唸りをあげる猟犬のごとく八本脚の狩人が、木々の
間を滑りぬけているが、視界から外れていて姿は見えず……
深く途切れることのない彷徨のみが追い縋ってきて……
終わりなき恐怖、永遠なる痛みを約すべく囁いているでは
ないか……
ここには覚えがある。
最悪な記憶に結びついているのではあるまいか……
そうしているといつもの地下道への入り口が見えてきた
ところで、歩を緩めつつ、大股に進んでいくと……
ようやく階段に辿り着いて、しっかり手摺を握りしめ、
下っていくと、
心をもたない列車の轟きを耳にしながら、それでも弧を
描くように永遠にも思われる間、下っていくと、他の
乗客もそこにいるのを目にし……
素足に冷気が纏わりついて、肌から血の温もりを拭い
さり……
そこでようやくまたそこに辿り着いていたのだ。
果つることのない地底の闇からぽつりと取り残された
プラットフォームに……
そこには男が一人いて……
前で振り返りもせず佇んでいる。
声に出さず願いはしたが……
内なる声は恐怖をまくしたて、振り向かないことを願って
いるが、男は振り向いて……
ジェイは見てしまったのだ。
とりえどころのないその顔を……
めくり上げるようにして赤く長い触手が伸びてきたでは
ないか......
そこでジェイは叫んでいた。
……そうしてベッドから落ちて、肘をしこたま固い床に
二度ぶつけてのたうちまわるようにして目を覚ました。
喉からは乾いたひゅーひゅーという音が漏れていて。
破瓜のような痛みを感じつつも、むしろ安堵に近い感情を
感じていた。
その痛みが現実であることを強く感じさせ、悪夢を
遠いところに連れ去ってくれるように感じていたのだ。
そうして5分ほど堪えると、ようやくずきずきする肘の
痛みも治まっていて、
そこでようやく子供のころにダイム・ミュージアム
見たものがこの悪夢の元凶であり、それがずっと癒えずに
残っていたということに思い至りはしたもののどうなる
ものでもない。
ベッドの上の身体はぐっしょり濡れていて、裸で寝て
いたような感触を感じ、ともあれバスタブに水を張り、
キッチンに行って、Taster‘sChoiceテイスターズ・
チョイス(インスタントコーヒー)の粉を何杯かいれ、
やかんのお湯が沸くのを待った。
そこでコーヒーができたところでそいつをもってベッドに
戻ったころには、バスタブはお湯で満たされていて、
ジェイはコーヒーを一端置いて、蛇口を捻ってお湯を止め、
そっとタブに入ると、コーヒー同様に温まっていて、
しばらくその心地よさに浸りつつ、湯船で手足を伸ばし、
コーヒーをくちにすると、大分気分もましになったと思い
はしたものの、両肘の痛みが蘇ってきて、思わず呻きを
漏らしてしまっていた。
片方はベッドから落ちたときにぶつけたものだが、もう
片方はあのヨーマンとかいういけすかない奴に捩じり上げ
られた痛みが残っていたのだ。
そういえば壁にしこたまぶつけられた鼻もまだじんじん
痛んでいるではないか。
それにあの怪威なジョーカー胎児を見せられてから、どうも
胃が悲鳴をあげてならないわけだが、
ともあれコーヒーを流し込んで気分だけでもましなものに
しようと努め、ともあれ4人のみとなったリストを眺める
ことにした。
ワーム、クオシマン、オーディティ、ダグ・モークルの
4人だ。
とはいってもこの中の一人で間違いないかといえば疑問も
残っている。
エスキモーやら暗殺者やら偽クリサリスなんてやつまで
浮上してきたではないか。
それからダイム・ミュージアムでも怪しい影がつきまとって
いたことも気になる。
そうして湯が冷めて、コーヒーをすすりながら、別のことを
考え始めていた。
少なくとも殺し屋は二組存在するのではなかろうか。
クリサリスを殺した怪力タイプとは別に、ディガーの隣人を
ずたぼろにしたチェーンソウをふりまわす猟奇的なタイプで、
だとしてもこいつらが共犯関係にあるとも限るまい。
あくまで可能性は捨てきれないといったところか。
もしかしたら犯人は一人で、いくつかの能力を使い分けて
いるとしたらどうだろうか。
そういえば今はこの世の者ではないが、かつてエーシィズ・
ハイで多くのエースの命を奪ったアストロノマーのような
奴が、実は生きていて、誰かが墓から掘り出して、再び
その凶行を再開したとしたらどうだろう。
あの男ならどちらの犯行も可能なのではあるまいか。
いやいや死者の可能性まで考慮し始めたら、ジェットボーイ
だって容疑者に含めねばならなくなる。
クリサリスがジョージ・カービィとかいう胡散臭い名の
暗殺者を雇ったとして、それをバーネットが知ったなら、
バーネットのために動く人間が殺したということもあり
うるだろう。
だとしたら別にそれはエースでないということすらありうる
というものだろう。
クオシマンは?あいつはバーネットに命を救われた恩義を
感じているという話も聞いている。
としてもあの男が人一人殺せるだけ知恵がまわっというのは
考えにくい。
チェーンソウの殺し屋、そしてエルモが片づけたという死体
がどうなったかというのも引っかかる。
クオシマンに共犯者がいればそれも説明はつくかもしれまいが。
そこで烏賊神父が司祭服の下からチェーンソウを取り出すイメージが
頭をよぎって苦笑しつつ、そんなことはあるまいが、と否定してから
別のことを考え始めた。
実際ディガー・ダウンズがその鍵を握っているのだろうが、
生憎行方不明ときたものだ。
生きているかどうかすら知れたものじゃない。
探しまわるにはこの街は実際大きすぎるというものだろうし、
この国から捜査範囲を広げなくてはならないとしたらなおさら
厄介だ。
どこにいたとしてもおかしくはないというものだろうから。
一つだけ確かなことがあるとしたら、この部屋の洗面所には
いないということだろうか。
そんなことを考えながら啜ったコーヒーは氷のように冷え切って
いて、嫌な気分になりながらも、カップを下に置き、浴槽を出て、
身体を拭きにいったのだ。