ワイルドカード7巻 その15

                ジョン・J・ミラー
               1988年7月19日
                  午前2時


地下は淀んだ空気の吹き溜まりであり、
カビと腐臭で満ちている。
そこはクリサリスによって、パレスの秘密の入り口として造られたが、
使われなくなって久しく、
ブレナンの持つ懐中電灯の放つ光のみの暗闇と、
パレスに向かうブレナンの立てる稀な音のみの静寂。
それだけに支配されている。
一度通ったのみで、
そこで蠢く音をかつてブレナンは確かに聞いたように思えたが、
クリサリスが語りはしない以上それまでで、
今はその好奇心を満たしている余裕はない。
地下道は建設途中のトンネルにつながっていて、
そこから暗い地下貯蔵庫につながっている。
そこにはアルコールの入ったケースが積まれ、
大量のアルミニウム製ビール缶に、ポテトチップに
プレッツェル、ポークリングといったジャンクフードの
詰め込まれた段ボールで満たされており、
ブレナンはその間を縫って音も立てず進み、それから
上に上がるとパレスの一階に出て、
ブレナンはそこで待っていた。
見えも匂いもしないが、ともあれパレスに何者もいない
ことを確認してから、
通路に出て、クリサリスのオフィスを目指し、
そのドアの前に立ったが、
どうにも中に入るには気が進まない。
そこの壁にはクリサリスの血が飛び散ったのに違いなく、
クリサリスの死んだことは疑い無いとわかっているというのに、
クリサリスは多くの秘密を抱えてはいたが、
臥所を共にしたブレナンには共にする秘密が幾らかあった。
そのクールな外見の下には孤独な女性がいたということだ。
その孤独な魂を愛していたわけではないが、愛せたのではないか
という思いはある。
その思いが、
古傷を開き血が流れるような痛みを伴って蘇ってくる。
クリサリスのオフィスの暗く静寂に満ちて魅惑的なさまが
思い起こされてくる。
床には高名な東洋のカーペット、そして床から天井までを
占める壁にはクリサリスのいつも読んでいた
革張りの本で埋められた本棚が、
硬い樫と革に覆われた家具があって、
暗い紫のヴィクトリア調の壁紙も張られていて、
室内は、クリサリスの纏っていたエキゾチックなフランジパニと
よく飲んでいたアマレットの香で満ちていた。
平和そのものといった室内が、
死と破壊で塗りこめられてどう変わったか見たくはないが、
見なければなるまい。
息を深く吸って整え、
ドアの前に張られたテープを剥がし、
オフィスに入った。

そこに広がる光景は想像を越えていた。
大きな樫のデスクは部屋の真ん中まで移動していて、
黒い革張りの椅子は砕け散り、
壁を覆う本棚は壊れ、本が床に散らばっていて、
客用の椅子も叩きつけられたようにばらばらになり、
木製のファイルキャビネットはひっくり返され、ファイルが
床や壊れた家具の間にばらまかれている。
ことにひどいのは飛び散った血で、
壁紙のところにはかろうじて見える程度ながら、
普段座っているデスクや椅子のある場所の壁、
その低い場所にまで跳ね飛んでいるのだ。
その破壊されたさまを目にしたブレナンの内に
怒りが湧き起ったが、
その怒りを抑え、
胃の辺りにまで押し込め、
針のようになるまで努めた。
今は感情に溺れているときではないのだ。
それを搾り出すときが後でくるだろう。
今は冷静と冷徹な知性が必要なのだ。
まだ何が重要な証拠だかわかりはしないが、
後で組み合わせることができるようにと、
全てを可能な限り記憶することにした。
そうして室内を記憶に留め、
そこを後にすることにした。
街路の下を通るトンネルでといえど誰にも
見られるわけにはいかない。
新鮮で綺麗な空気が恋しくてならない。
町に出ればそれらが溢れているだろう。
地下の出口につながる階段に向かおうとした
ところで、何か物音を耳にした。
声、というか囁き声が前方の暗い吹き抜けから
響いてくるではないか。
「ヨーマン」そうはっきり聞き取れた。
背筋を這い伝うように声が響いてくる。
「待っていたのよ、私の部屋に来て、
そこで待っているわ、私の狩人を」
それはあの人の声だった。
クリサリスのほぼ英国風のアクセントそのものだ。
しばし立ち尽くしていたが、
もはや闇の中に何も動く音がせず、何者がいるのも感じられない。
ブレナンは幽霊などというものを信じてはいないが、
ワイルドカードならばあらゆることが可能となる。
もしくはクリサリスが殺されていないということもありうる。
全てが手の込んだ詐術であり、何か深い事情があって、
クリサリス自身によって仕組まれたということもありうるではないか。
何であれ、確かめねばなるまい。
腰のホルスターからブローニングハイパワーを抜き出して、
猫のようにしなやかに音を立てず、上階を目指した。
クリサリスの寝室のドアは開け放たれている。
jamb脇柱の陰から室内を伺うと、
中にはすでに先客の姿があった。
侵入者が何かを探しているようで、
室内がどうなろうが構わないとみえて、
天蓋付ベッドはひっくり返され、
マットレスはずたずたにされている。
ヴィクトリア朝の額も風雅に縁取られた鏡も
壁から剥がされて、
銀色の欠片が砕かれて床に散らばり、
いつもナイトスタンドの脇にあったデカンターも
割れて床に散らばっていて、
そこにはフェンシングの面をつけた姿が覆い被さる
ようにいて、ブレナンが不意をついて室内に入り、
そして損なわれたベッドにまで進むと、
クリサリスが衣装ダンスとして用いている
ウォークインクローゼットにその巨体を
突っ込んでいるところだった。
その顔は繊細で美しくありながら、
ひどい痛みが張り付いたようにも見える。
床にまで届く黒い外套の下の巨体は歪で
ずんぐりしており、
その下に何かが蠢き、
腹や胸のある辺りが捩れのたうち、
まるで蛇で満たされているように思える。
侵入者は少しの間動きを止めて、
銃を構え視線を向けているブレナンを
見つめ返した。
「オーディティだな」
そこでようやくブレナンが舌鋒を切った。
「誰だ貴様?」
「知らないとは思うが、ヨーマンと呼ぶがいい」
しばしの沈黙の後、オーディティは応えた。
「皆知っている、ここで何をしている?」
「俺もそいつを聞きたいのだがね」
「皆で探している」
そこでようやくブレナンは表情を歪め警告の言葉を
発していた。
「そのぐらいにしておけ」と。
「何だと?それは警告か?」
ブレナンは銃を向けたまま彫像の如く身じろぎもせず、
氷のような言葉を搾り出した。
「警告などではない、友人の寝室に押し入っている奴が
いて、そいつが友人の死にかかわりがあるかもしれないと
して、
そいつが口を割らないとしたら、
警察に引き渡しはせず、
殺すこともありうる。
それだけのことだ」
「やってみろ」
オーディティがそう応えたがブレナンは何も応えずにいると・・
女の声がため息を漏らした。
「クリサリスの死になど係わりはないし、知りもしない、
探し物があるだけだ、そいつでクリサリスが脅迫していた、
警察が見つける前にそいつを取りに来ただけだ……」
ブレナンは疑わしげに応えた。
「脅迫だと?金が目当てだというのか?」
オーディティは頷いて返したが、
突然の傷みに喘ぐように顔面を歪め、
膝をつき、腕で腹を押さえながら、
再び顔を上げた。
痛みに叫ぶような表情のままで、
「Christ何てことだ」
ブレナンはそう呟かずにはいられなかった。
オーディティは激しく抑えきれない痛みを抱えているが、
ブレナンにはどうすることもできはしない。
そこで憐れなジョーカーに手を延ばしたが、
その手は振り上げられたオーディティの手によって払われて
しまい、


そうして様子を見守っていた。
女の顔が喉の辺りにまで移動して、
背中から移動してきた他の、
黒ずんで筋張った顔に代わるのを、



そうして新たな顔が、
疑いの目を向けている。
まだ移動しきらないまま、
まだ呻き終えないままに、
ブレナンはジョーカーが立ち上がり,
ベッドの傍の脚を掴み投げつけるのを
予想して、
それを避けつつ弾丸を叩き込んでいた。
急所に当たったとは思っていなかったが、
やはりゴールを目指すフルバックのように猛烈な
勢いで突進してきた。
おそらく板を叩きつけたような衝撃のあろうタックルを
かわし、強力な相棒をその胴体に叩き込んだ。
そこでか細く思える腕に掴まれたが、
その腕は見た目よりも遥かに強く、
壁に叩きつけられることになった。
衝撃が歯に響き背中が痛んでならない、
銃を床に落とし、転がすことになったが、
装飾の施されたナイトスタンドを何とか掴み、
力の限りオーディティにぶつけていて、
スタンドは砕けたが、
手は震え、握ることもままならない始末だ。
オーディティはというと全くこたえていないとみえて、
ブレナンを再び掴みにかかってきた。
ブレナンはその手を掻い潜っていたが、
手が痺れ、感覚が戻らない。
そうしているうちに背中に壁を感じたところで、
オーディティが怒りに顔を歪ませて迫ってくる。
再び腕を振り上げたところで身を捩り、
壁にそって動いて、
その一撃をかわすと、
肩に近いところの壁に空洞を刻むことになった。
ブレナンは横に動きながら、
かつて天蓋の一部であった支柱を掴み、
大きすぎるが野球バットのイメージで振り下ろし、
丁度腎臓の上辺りを激しく打ち据えることができた。
痛みより強い怒りでオーディティは咆哮したが、
ブレナンは再び柱を投げつけ、砕けるに任せた。
「Christくそっ」
ブレナンはそう悪態をつかずにいられなかった。
オーディティが腕を掴み捻りにかかってきたのだ。
感覚のないことはわかっているが、
何とか身を捩ってかわし廊下に出た。
背に炙るような痛みを感じながら、
「逃がすものか、この野郎」「逃がさない!」
オーディティが叫んでいるが、
その声ははっきりと聞き取りづらいものだった。
おそらく二人だかが争っているのだろう。
ブレナンは深く息をして呼吸を整え、
その場を離れることにした。
(骨は折れていないが、背中は打撲しているだろうし、
直るのを待つというわけにもいくまい。
騒ぎに気づいた警察も駆けつけてくるだろうから)
階段を上り、屋根に出て、
そうしてオーディティの言葉を反芻しながら思わずには
いられなかった。
(クリサリスは情報の対価を戯れに要求することはしても、
金品のために他人を脅迫することなどけしてなかった。
それなら何故オーディティは嘘をついたのか?
それならばクリサリスのクローゼットで、
本当は何を探していたというのだろう?)と。