ワイルドカード6巻 その20

         ウォルトン・サイモンズ
          1988年7月18日
            午後11時


スペクターは髪の束を持ち上げ、鋏の歯を当てると・・・
細く茶色い房が、薄汚れたシンクに落ちていく・・・
学生時代から、髪は片手間に自分で切ってきた・・・
これでいい
皹の入った鏡を取り上げて襟足を確認し・・・
「悪くないじゃねぇか」
そう一人ごち・・・
スキンローションを指にたっぷりつけて、
まだ赤い上唇の上に刷り込んだ・・・
口ひげを剃って、髪を短くしたことで
かなり若返ってみえるようになった・・・
これなら大学時代と比べてもさほど遜色も
あるまい・・
目に焼き付けられた永劫とも呼べる痛みは
どうしようもないとしても・・・
髪を洗って、茶髪に染め上げれば、ディマイズの
顔しか知らない連中にはもはや気づかれもしないだろう・・
タキオンのみ不確定要因といえ、それは用心するにこした
ことはあるまいが・・・
あのちびの異星人が
それ以前にあいつの顔を思い出すだに、いつも抱いている陰鬱な
感情すらも激しい怒りに飲み込まれてしまう・・・
にあの男に出くわしたら、ただですましはしないに違いあるまい・・
そんな思いを鏡に頷きかけ確認してからリビングに向かった・・・
内装はジョーカータウンのアパートよりましなものといえる・・・
壁はグレイがかったグリーンで、家具はマホガニーもしくは名も知らぬ
黒みがかった木製であり、それに触れながらまた別の方向の恨みが
思い起こされてきた・・・
スリーパーの野郎にひどいめにあわされもしたから、Teaneckティーネックに
戻ってやったらいい面当てにはなり胸がすくのではあるまいか・・
その考えに多少は気分をよくしながらも・・・
もう乗れる飛行便のある時間ではない、明日の十時までは時間を潰す他なく・・・
黒いFuton布団に身を沈めTVのリモコンを操作して・・・WABCにチャンネルを合わせると・・・
パチパチいう音とともにテッド・コッペルの姿が浮かび上がってきて・・
ニューヨーク市の中央にあるジョーカータウンにその王国を築いたこと以外
ほとんど知られていない透明な肌のこの女性についてですが・・・」
コッペルの眉は、普段よりきつく引き結ばれており、その表情を神妙なものとしている。
「現時点では警察から、まだ殺人であると発表されておらず・・
その無残な状態から・・常人では及ばない何らかの力を持ったエースの存在が囁かれており・・・
クリサリスという女性の、その背景を含めた周辺は依然として明らかにされていません・・
ジョーカータウン分署のアンジェラ・エリス署長からの何らかの発表が待たれるところ
です・・」
そこで映像が味気ないスタジオに移って・・・
マイクの前の暗い髪に緑の瞳をした女性が映し出され・・
咳払いをして間をおいてから演台に手をのせたまま話し始めた・・・
「クリサリスという名で広く知られているこの女性は今朝方勤め先にて死亡しているのが
発見され、検視の結果殺人であると判断されました、当局の捜査は進められていますが、
現時点においてそれ以上の情報は入ってきておりません・・・」
リポーター達の詰問する声に晒されながらエリスは片手を挙げて制する仕草をして・・・
「それだけです、また進展がありしだいお伝えします・・・」と続け言葉を切った・・・
スペクターは布団の上からウィスキーのボトルに手を伸ばして、
その蓋を捻って開け、何口か飲み下し・・・
Shitくそったれが」そう悪態を零していた・・・
本来売女がどうなろうと知ったことではないが・・・
この女の死には、何か落ち着かないものを感じてならず・・・
流血や死などというものはすでに空気のようなもので・・
もはや日常と呼んでさしつかえのないにも係わらず・・・
なぜか腹にもたれるように感じてならない・・・
さらに胸糞の悪いのは、シャドーフィストから巻き上げた
金も底をつき始めているのだ、何らかの金づるを見つけね
ばなるまい・・・
気鬱を振り払えはしないが・・
ウィスキーの酔いの名残とコッペルの馴染み深いモノトーンの
装いを眺めているうちに・・・
知らずに眠りに落ちて行った、アトランタは雨だろうか、
そんな想いにまどろみながら・・・



           メリンダ・M・スノッドグラス
 
バーで背中を丸め、足首を高いクロームのスツールの間に差し入れて・・
手に持ったワイングラスに移りこむ光の刺激が頭痛を強めるように思い
ながらも・・そこから視線を外せずにいる・・・
鏡か
あれはやつらがエンジェルフェイスを誘拐しようとして砕いたファンハウスの鏡の光だろうか・・・
そういえばパレスの上階にあるクリサリスの私室に入ると、様々なアングルの頭頂が映し出され・・・
透明な唇には微かな朱が差し、透けた頬にきらめきが映りこんで・・・
頭蓋の眼窩に収まった青い瞳が・・・異様に漂っているよう思えたものだった・・・
もはや何度あのバーで飲んだか憶えておらず・・・
ファンハウスに至ってはデズの死と共に店じまいして久しい・・
パレスはどうなるのだろうか?
失われたことのみが思われて・・・
自己憐憫と酔いで潤んだ目に涙を溢れさせていると・・・
「旦那」若いバーテンが声をかけてきた
「もう一杯いかがです」と・・・
「そうですね、断る理由もありませんから」
そう応えると、バーテンが新たなブランディを出してきた・・
タクはグラスを高く掲げ・・・
「失われたものと悼むべき死者に」の声の下、
タクはグラスの中身を飲み干して・・・
勘定書きの下にルームナンバーを書き殴り・・
スツールから抜け出した・・・
この時間にしては結構人影はあったが、知った顔はなく・・
ジャックでも呼んで飲みなおし、クリサリスの思い出について
語り明かそうと思いはしたが・・・
あのビッグなエースはあの人と面識はないか、と思いとどまった・・
そうして当てもなく彷徨っていると・・・
バーネットの会派が泊まっている一角に辿り着いた・・
ドアの前で、囁き声に耳をすまして・・・
フルールが現れるのではないかと願いはしたが・・
願いは叶えられず・・・
シークレットサーヴィスの目にとまったとみえて・・
エレベーターにまで引き摺っていかれることになった・・・
そうして部屋に戻り、ブレーズの寝癖のついた頭を見下ろして・・
たまらず崩れるようにブレーズを抱きしめていた・・・

皆私を一人にして逝ってしまう、私の愛してやまない者は皆、
誰も彼も・・・私をもはや・・・
・・・一人にしないでください・・・


迸る感情と・・・
止めえぬ嗚咽と共に・・・