ワイルドカード6巻第三章その6

          ウォルトン・サイモンズ
           1988年7月20日
             午後1時



ピードモント・パークは人いきれで溢れている・・・
スペクターが演壇に向かうには人ごみを突っ切っていかなければ
ならなかったが・・・
白黒のタイツに身を包んだ姿はかなり間抜けに見えるに違いない・・
ここには今しがた着いたばかりで・・・
さきほどまでいたコスチュームショップでもジョーカーたちに取り囲まれた
ものだった・・・
それでも幸運といえたのは彼らはそのままパークに向かったことで・・・
スペクターはロッカーに着ていた服を押し込んで、その鍵をレオタードの
下の手首にぶら下げたまま公園に来ることができた・・・
それでも演壇からはまだ100ヤードくらいは離れたままで・・・
演壇ではマイクテストが行われているが、ハートマンは姿を見せていない・・
そうしていると何かで覆いをしたような影がゆっくりと横切っていって・・・
スペクターが見上げると、タートルが音もなくステージの方に向かって飛んで
行くのが見て取れた・・・
おそらく上院議員のスピーチの警護に駆けつけたのだろう・・・
群がる人々、殆どはジョーカーだろうが、ナットも僅かながら
混じっているようだった・・・、
彼らの間にささやかな歓声が巻き起こったところで・・・
「ねぇママ、Funny man(変なやつ:ピエロ)がいる」
幼さの見て取れるジョーカーの女の子が・・・
スペクターを指差してそう囃しているではないか・・
よく見ると痛みの目立つベビーカーに乗せられて花を掴んでいるようで・・・
痛々しくがりがりに痩せた手足をぶらぶら振り回しているではないか・・・
スペクターはぎこちなく弱々しい笑みを作って向けて見た・・・
メイクが口を大きく見せていることを期待しながら・・・
乳母車の後ろには母親と思しい女性がいて微笑み返してきた・・・
その肌には赤い染みのような模様が浮き出ていて、血が噴出してできた小さな
ドyトの塊りが円を描くように広がっているように見えたが・・・
スペクターが近づくと、すぐに取り繕うようにそれは消えうせて・・・
娘の手から花をとってスペクターに差し出してきた。
スペクターは手を伸ばしその花を受け取った・・・
慎重にその手に触れないようにしながら・・・
ジョーカーの中に紛れるのに道化の格好などをするというのはナット並の発想
に思えて気まずさに沈み目をそむけていると・・・
「笑わせてよ」女の子がそう声をかけてきた・・・
「ねぇママ、あの人は笑わせてくれるんだよね」
その声をききつけたのか周りがざわざわし始めたように思える・・・
ゆっくりと視線を向けつつ思案を巡らせ始めた・・・
笑われる、というのは本来御免被りたい事態ながら、今はそれが求められているのだ・・
指一本にバランスをとりつつ花を載せてみた・・・
驚いたことに、うまくいったが・・・
それだけではどうにもなるまい・・・
気まずい沈黙は流れたままで・・・
汗がメイクの施された繭から目に滴るのが感じられて・・・
気を静めるべく大きく息をついたが・・・
辺りの沈黙が痛いように感じられてならなくなったところで・・・
手袋をはめた腕が差し出され・・・
スペクターから花を奪って・・・
気取った仕種でメイクされた唇に咥えて見せると・・・
笑いが巻き起こり・・・
それに対して別の道化がゆっくりとお辞儀してから顔を上げているではないか・・
スペクターは目立たないようそこから離れようとしたが・・・
その道化に肘で押さえ込まれ・・・
身動きがとれなくなったところで・・・
さらにくすくす笑われることになった・・・
うまくいったといえるのだろうが・・・
それでもターゲットから遠く隔てられていることに変わりはあるまい・・・
ハートマンが演説を始めようとしているのに、スペクターは近づくことすら
できてはいないのだ・・・
そこでもう一人の道化の男が視線を落として・・・
スペクターの足元をじっと見つめる仕種をしたが・・・
スペクターも視線を下ろしたが何も見えはしない・・・
と思ったところでからかうように顎を持ち上げられて・・・
今度は大きな笑いが巻き起こった・・・
道化の男もスペクターの横で、ご丁寧に声を立てず笑うような仕種をしているときたものだ・・
そうして顔を上げようとしたところで・・・
激しく舌を噛むことになった・・
道化の指が気づかないうちに頭に載せられていたのだ・・・
そうして痛みに目を白黒させていると・・・
指一本をスペクターの頭に載せたまま・・・
スペクターを中心にしてくるくると踊るように回りはじめたときたものだ・・・
さすがに我慢の限界というものだ・・・
指の下から身を離し・・・
ぐっと身を乗り出して道化の目に視線を合わせて・・・
痛みを直接叩き込んでから肩を掴むと・・・
道化はその瞳にガラス細工を砕いたような無機質な光を湛えたまままま倒れていった・・・
スペクターはそれからゆっくりと身を離し・・・
横たわる道化の男の手をとって、腹の上で手を組んだようにしてから・・・
スペクターが死体の手から花を奪い返して大袈裟に囃し立てるようにしてみせると・・・
笑いが巻き起こってようやく喝采を受けることになった・・・
肩を叩いて囃し立てるものもいれば、道化の方を見つけているものもいる・・・
おそらく立ち上がると思っているのだろうが・・・


My friendsみなさん!」と拡声器による大音声が演壇より響き渡って・・
おあつらえ向きに注目がそちらに移ったところで・・・
スペクターは人ごみをかきわけそちらに向かおうとしたが・・・
「今日の困難な政局を潜り抜ける意思をもって人々を導くであろう方を
この場に招くことができました・・・
悪意ではなく寛容を説く男・・・
不和ではなく融和を説く男・・・
押し込めるのではなく道を示す男・・・
明日のアメリカを担う大統領候補・・・
グレッグ・ハートマン上院議員です・・
さぁどうぞ・・・」
耳を聾さんばかりの喝采に、ジョーカー達の叫びと囃し立てる声が重なって・・
ジョーカーの振り回した肘を耳に食らわされて転びかけたが何とか
持ち直し・・・
スペクターは演壇を目指した・・・
「ありがとう」
そしてハートマンは喝采と賞賛が静まるのを待って言葉を継いだ・・・
「お集まりいただき感謝申し上げます」と・・・
こうしてハートマンが目の届くところに現れはしたが・・・
この距離ではまだ視線を合わせることはできない・・・
目の前であったところでうまくいくとは限らないわけだが・・・
演壇に押し寄せようとする人ごみに紛れ・・・
じりじりと偶然を装って距離を縮めていって・・・
数分で奴の前に立つことができた・・・
「私はジョーカー対策に特化した候補だと囁かれているようですが・・」
そこで手を上げて抑えるような仕草をしてから言葉を継いだ・・・
「厳密にはそれだけを重視しているわけではありません・・・
それは私の願いの一部にすぎないのです・・・
この国の建国から貫かれてきた理念によって・・・
すべての人々が生来与えられているはずの権利・・・
すなわち誰もが等しく扱われるという権利を・・・
法の下に例外なく及ぼしたい・・・
ただそう願っているにすぎません・・・」
そこでハートマンが言葉を切ると、再び歓呼が沸き起こった・・・
そこでスペクターは最も人ごみの密集した地点からは抜け出せた・・・
ハートマンはベージュのスーツを着て・・・
そのきちんと整えられた髪はほとんど揺るぐこともなく・・・
サングラスをかけて視線の伺えない私服の護衛たちは・・・
演壇の横に控えているようだ・・・
あとはハートマンと一瞬でも視線を合わせればいいのだがと
思案していたところで・・・
「あなたがたの協力なくして次の大統領になるのはおろか、党の新任
すらうることはできないでありましょう・・・」
ハートマンはその言葉とともに人々に向かって手を差し伸べるしぐさを
してみせてから言葉を継いだ・・・
「まずはここに集った人々が理性を働かせることです・・・
例え悪意をぶつけられ、暴力を振るわれたとしても・・・
それを仕返さないことで雄弁に物語ることができるでしょう・・・
ガンジーマーティン・ルーサー・キングJrが示した精神を・・・
我々も示そうではありませんか・・・
暴力は何も生み出しはしないということを示すのです・・・
その寛容の精神こそが、我々に求められているものなのですから・・・」
そこでハートマンは一人ひとりを見渡すようにゆっくりと視線を遷していって・・・
スペクターはゆっくりと息を継いで集中し・・・
あと少しで視線が合わさる・・・
そう思ったそのときだった・・・


音のみが響き渡って・・・
ハートマンが護衛の人間に上から覆いかぶされるようにして倒された・・・
銃声だ・・・
そう認識したときには辺りは混乱した人々の叫びで満たされてしまっている・・・
阿鼻叫喚の中壇上を見上げると・・・
銃を持ち制服を揃いの格好をした人間に囲まれてしまっている・・・
銃撃が一端止んで、煙が晴れたが・・・
ハートマンの姿はもはやない・・・
もはやこれまでということだろう・・・
別の機会を狙わねばなるまい・・・
どこに行ったとしても、今は安全に守られていることだろう・・・
タートルが上空を何回か回ったところで・・・
銃声は完全にしなくなった・・・
そこを離れようとスペクターが脚を前に出したところで・・・
ブチッという間抜けな音がして・・・
ジョーカー用の革ベルトが腰から落ちた・・・
拾い上げてみると金色で塗られてはいたがだらしなく伸びきってしまっている・・・
何だろうこの忌々しさは・・・
No shitおいおい」
そうぼやかずにはいられなかったのだ・・・