その3

       ウォルトン・サイモンズ
          午前11時


スペクターはくらくらする頭を抱えて目を覚ました。
口の中には金属を思わせる血の味が広がっていてずきずき
痛み、
荷物をモーテルに置いてきていたから、髭を剃っても
いなければ歯も磨いていないのだ。
トニーのところに顔を出す前にさっぱりさせたいと思い
ながら、ベッドの端に腰を掛け、目頭を擦りつつも、
調達した電話帳をめくってトニーの入院している病院の電話
番号を調べだし、しばらく迷っていたが、意を決して電話を
かけて、
「トニー・カルデロンの病室を頼む」と電話に出た受付の
人間に声をかけると、
数回コール音が鳴っただけで、
カルデロンですが」と返事が返されてきて、
「ジムだけど、そっちにいけなかった事情を説明しようと
思ってね……」そう言葉をかけると、
「コリンは部屋であんたと会ったと言っていたからな、
金でもせびろうと勿体ぶってるのかと思っていたところ
だよ……」
そうは言っているものの、その言葉はスペクターの声を
聞いて喜んでいるのが感じられるものだった。
「そんなつもりはなかった、別の用事ができていけなく
なっていた、それだけのことだよ……」と返すと、
「そうか、あまり困ってもいなかったからまぁいいさ、
実際演説は終わったからな、最高の原稿が上がったと
自負しているよ、あんたにもきかせたかったな……」
トニーはそこで一端言葉を切って、
「ところで何かあったのか?」と訊ねてきた。
「ジャージーに戻ればなんとかなるといったところかな……」
スペクターはそう応え、受話器のコードを指でもてあそびつつ、
「また会えるといいな……」
スペクターがそこで口ごもっていると、
「なぁにワシントンでじき会えるさ……」トニーは何の
躊躇もなくそう言い切っていて、
「かもな」とスペクターはそう応えはしたが、
おそらくこの唯一の友人と呼べる男にしたところで、これから
スペクターがやろうとしていることを知ったら永遠に顔を背ける
ことになるに違いないのだ。
「さてと、もういかなくちゃ、まだやらなきゃならないことが
残っているからな……」
「わかったよ、落ち着いたらそっちから連絡してくれ、無茶はするなよ」
「じゃまたな」スペクターはそう応じそっと受話器を下ろすと、
感傷に押しつぶされそうになりつつ、それを何とかおしとどめ
なければならなくなったが、何とかその感情を脇にやり、
コートのポケットにウィスキーのボトルを忍ばせて、じっとその部屋を
見つめていた。
もう戻れはしないのだ……
そうぼんやり感じながら……






        ウォルター・ジョン・ウィリアムズ
             12時正午


何度も探したがどうにもブレイズが見つからず、病院に行ってタキオン
いなくなった、と伝えようかと思案しながらも、
あの忌々しい餓鬼は祖父の部屋のベッド脇にでも何事もないかのように
戻っているかもしれないじゃないかと考えて廊下に出ると、
マリオットのロビィには酩酊しているか憔悴しきったハートマン陣営の
人間たちがたむろしていて、
床に開けられた穴の周りに黄色い立ち入り禁止のテープが揺らめいている
ではないか。
そこで目の合ったウェイトレスにウィンクしてみせると、苦笑いが返されて
きたが、
そこでハイラムがえらく大きい、ほとんどトランクとでも呼べるような
スーツケースを運んで姿を現してそちらに黄をとられることになった。
ハイラムはジャックと出くわしたことに驚いているようで、えらく警戒した
様子でジャックを見つめている、あのスーツケースの中にはえらく大事なもの
が入っているのだろう。
ハイラムは蜘蛛の巣状の肌に虚ろな眼窩のみがうかがえる微かな口髭を生やした
痩せぎすのジョーカーを連れているようだ。
「こりゃ失礼」ジャックはそう言って、スーツケースからハイラムに視線を
向けつつ、
「就任演説まで居るものと思ってたがな?」と声をかけると、
「まぁそのなんだ、どうもアトランタに長居しすぎたようだな……」
そう応えたハイラムの目は落ちくぼんていて、髪は乱れ、襟には染みのような
ものがみてとれてだらしなくすら思える。
スーツを着たまま寝ていたのではあるまいか。
ハイラムはそこでジャックの手を引くと、ジョーカーの男の聞こえないところに
まで導いてから、
「実は、あなたと話したいと思っていたのです……」
「俺もだよ」とそう応え笑顔を浮かべてみせて、
「あんたに礼を言っておきたかった、あんたが重力を操ってくれたおかげで
たいした怪我もせずにすんだからな……」と応えると、
「お役にたてて嬉しいですよ」ハイラムはそう言って笑顔を浮かべながらも、
ジョーカーの視線を気にしているようで、
そうしてジョーカーをみやりながらジャックに視線を移して、
「話しておきたいことというのは……」
ハイラムはそこで声を潜めていて、
ジャックは背筋の寒くなるような感覚を憶えながら聞いていた。
聞くべきではないのではないか、と思いながら……
「なんだ」とようやく声を絞り出すと、
「今ならあなたを理解できると申し上げておきたかったのです……」
そうしてハイラムの言葉は重々しく響いていった。
「あなたは何の弁解もなさらなかった、それは正しいことだったと理解
できたのです……」
「そうかい」そう応えながらも、これ以上この話をやはり聞きたくないと
考えていた。
罪の意識など己の内に銅鑼のごとく鳴り響いている、今更他の人間の口
からそれを掘り起こされることなど厄介以外の何ものでもありはしないと
いうのに。
「私があなたを責めていたこともありましたがそれは……」
ハイラムの言葉は遠慮なく続いていった。
「実際は私自身をあなたに見て責めていたのでしょうね、そうして自らの
卑劣な行いから目を背けてきたのでしょうな……」
「そうかい」
ジャックはハイラムの三文芝居がとっと終わることを望みながらも、卑劣な
行い、とはどういうことかを考えていた。
精々子牛の肉の質を落としてごまかしたとか、その程度のことではあるまいか?
ハイラムはじっとジャックを見つめていて、
瞳に不思議な光を宿し、ジャックから何かを学ぼうとしているようにも思える
ものだったが、
いづれにせよ何らかの悟りなどというものは自分で得なければ意味はない、人
から与えられるものではないのだ。
「いまさら過去を変えることなどできない相談だよ、ハイラム……」
ジャックがそう声をかけ、
「だからこそ未来のために少しでもましなことをしようとするんじゃないかな、
ここ数週間の俺たちの行いはそのましなものと言えるのじゃないかな?」
「ハイラム」そこで虚ろな眼窩のジョーカーが二人を見つめて口を挟んできて、
ジャックが断ち切られた会話に居心地の悪さを抱えていると、
「いかなくては」とハイラムに声がかけられて、
「そうだな、もちろんです」
そう応えたハイラムは、おそろしく疲れはてているように思えて、
「また会えるかな」ジャックは思わずそう声をかけていた。
ハイラムはそれには応えず視線をそらしてスーツケースを掴んでいた。
それには重さがないようにすら思えるが、ハイラムが重力を制御して軽くしているの
だろう……
ハイラムがスーツケースを軽々と持ち回転ドアに向かう姿を見ながらジャックはふと
禄でもないことを考えてしまった。
そういやブレーズはどこにいったのだろう……
あれだけ大きなスーツケースならば、十代の子供くらい入るのではなかろうかと……