ワイルドカード6巻 その31

       ウォルトン・サイモンズ
       1988年7月19日
           午後1時


タクシーに乗ってからすでに1時間以上たつが・・
空港からの渋滞は数珠繋ぎとなっていて・・・
バンパーをぶつけそうになった車同士がクラクションを
鳴らしあっているなか・・・
歩行者・・ほとんどジョーカーだが・・の姿が
路上に溢れはじめた・・・
マスクをつけたもの・・
プラカードを掲げたもの・・
一様に険悪な顔を突き合わせて・・
ひたひたと危なっかしい足取りで・・・
何度かぶつかりそうになりながらも車の間を進んでいく・・
ホテルまでのわずか数ブロックに、たらふくCノート(100ドル紙幣)を
はずんで助手席に滑り込んだスペクターはぼやかずにはいられなかった・・

それでも免許書の加工はうまくいったのだ・・
表面のシートをうまく剥がして、写真を削り取って、
その上に自分の写真を載せてから、空港に機械があって
ラミネートまでできたのだから上出来というものだろう・・・

そこにはハーバート・ベアードという名が記されていて、
身長も体重も年恰好すらもスペクターとさほど変わりは
しない・・・
これでIDに関しては、心配する必要がなくなったというものだ・・

あとは一刻も早くマリオットに忍び込めれば御の字というもの
だろうが・・


そこでピンクの肌を大きく弛ませたジョーカーが視界に
飛び込んできた・・・
フードを被り、プラカードを掲げていて・・
表には「ナットはラットと変わらない」と書いてあり、
裏には「だとしたら俺たちはそれ以下なのか?」と
書かれている・・・
彼らは朗々と何かを謳いあげているようだが・・
スペクターには何を言っているのかはわかりはしない・・

「これで精一杯ですよ」タクシー運転手が声をかけてきた・・
「百ドルが千ドルになったところでジョーカー駆除などできや
しませんからね・・」
「それでホテルまであとどれくらいで着くんだ?」
スペクターは後ろのシートに押し込んだ荷物に手を添えながら訊ねた・・
ダウンタウンの路地といえば、ジョーカーの吹き溜まりといえ、
正直そこに入っていくことはためらわれたが・・・
「2ブロックといったところでしょうか・・」
運転手が神経質そうに辺りを見回して吐き出した言葉で決心がついた・・
「私だったら歩きますよ」
「それもそうだな」
スペクターは用心深くドアを開けて、込み合った路地に入っていくと・・
ジョーカーが何人か拳を振り上げてきたが、それ以上に厄介なことには
ならず・・・用心しつつ進むことにした・・・
下ろしたてのスーツに手荷物持参とあっては狙われやすいということを
忌々しく弁えながら・・・

押し合いへしあいしつつも何とか10分でホテルに着くことができた・・
スペクターは汗にまみれており、群がった奇形達の匂いすら立ちのぼっているように
思えてならない・・・
爪を針のように伸ばしたジョーカーが、スペクターを引っかいてスーツケースに手を
かけたのだ・・
スペクターはその目を見つめ、そいつが崩れ落ちるまでに充分な死の痛みを叩き込んで
やったが・・・それ以上殺すことはしなかった・・・目立ちたくはなく・・・
熱くてたまらなかったが、同じ轍を踏もうとする他のうすのろには出会わずにすんだ
ということなのだろう・・・


群集は引き始めていた・・・
おそらく、別の場所で集まろうとしているのだろう・・・
そこでホテルのロビーに入ることができた・・
入口は開け放たれており、その建物はどことなく不吉なかたちをしていて、
死の王国に入っていくように思えたが・・・
スペクターは深呼吸をしてから守衛のところまで歩いていった・・・
ハーバート・ベアード、あんたの名はハーバート・ベアード、ハーバート・ベアードだ・・そう己に言い聞かせながら・・・


警備室には耳に何かをつけた警官とスーツを着た男が何人かいて・・・
「IDをみせてください」と一人が声をかけてきた・・・
スペクターはできるだけリラックスした風を装いながら財布から免許書を取り出し、
手渡した・・・
警官からコンピューター端末の前に座った男の手に渡ったところで・・・
男はキーで何かを打ち込んだのち、ようやく頷いてみせて声をかけてきた・・・
「ミスター・ベアードですね、手荷物をお預かりいたします」
上役と思しい男がひっかかれた跡に怪訝な顔をしつつ声をかけてきた。
「ひどい目におあいのようですね」
「なぁにいつものことです」
それにスペクターは微笑んで応じると・・・
関心を失った様子で奥に引っ込んでいった・・・
男はX線の機械にスーツケースを乗せて、金属反応を確認しているようだった・・
「ここに乗っていただけますか」
その声に応じたところで、金属探知機がブーブーいい始めた・・・
心臓が跳ね上がったように感じながらも、ポケットにゆっくりと手を差し入れて・・
少なくとも12人に視線を向けられているのを感じながら・・・
小銭を出して警官に手渡した・・・
ラミネートをしたときに出てきたものだ・・
「もう一度試しますか?」
警官がゆっくりと手を振って、行っていいと示すのにため息をついて応じると・・
上役の男が出てきて小銭を返してくれた・・・
ポケットに突っ込んで笑顔で応じると・・・
「バッグをどうぞ」
警官がスーツケースを示してから中に引っ込んでいった・・・
スーツケースを受け取ると、やけに重くて、汗で手がすべるように思いながら・・
ゆったりとロビーから入ってフロントに向かうと・・・
人影もまばらで・・・
とっとと部屋に入ってずっとひきこもっているべきだろうが・・・
受付には空気玉を思わせる肥えた男がいて・・・
現金で払うといったところでシークレットサービスのような冷たい目を
向けてきた・・・
間抜けな獲物を弄ぼうとするかのように・・・
そのおしつけがましい物言いには苛々させられたが・・・
いつかこいつの息の根を止めてやる、と己に言い聞かせてこらえ、
ようやく出してきた鍵をひったくって素早くエレベーターに乗り込もうと
したところで、突然声をかけられた・・・
「ジェームス、ジェームス・スペクターじゃないか・・やぁスペック」
親しげな声だった・・・それにしても間が悪すぎる・・・
ゆっくりと振り返ると・・・
男が駆け寄ってきて笑顔で握手を求めてきた・・・
薄墨色のスーツに、髪はきちんと整えられていて・・・
背丈はスペクターより幾分低いが筋肉質な男がそこにいた・・・
「トニー・Cか・・」息を吐いて緊張をほぐしてから続けた・・
「こんなことがあるなんてな・・」
スペクターとカルデロンティーネックでの幼馴染だったが、
ここ数年は疎遠になってどうしているかも知らずにいたのだ・・
トニーはスペクターの手をとってしっかりと握り振ってから続けた・・
「俺はボスの援護で来てるんだが・・どうしてここに?」
「まぁ政治運動といったところだ」スペクターは咳き込みながら何とか
答えて訊ね帰した・・・
「お前はどうなんだ?」
「ハートマン陣営だよ」
スペクターは口をあんぐり開けて応じそうになりながらも、
何とか口を閉じて平静を装った・・・
「信じがたいとは思うがね、スピーチコンサルタントの主任を
勤めているんだ・・」トニーはもみ手をして続けた・・・
「中々いい線いってると思うんだがね・・」
「女性がやってるものだと思っていたよ」
そうぞんざいに答えながらもどうにも居心地が悪くてならない。
幸いIDを確認した警官はトニーの話を聞いていなかったようだが、
いつばれてしまうかしれたものじゃない状況に変わりはないのだから・・
「会えてよかったよ、そういやこの近くにいい動物園があってね、女性同伴なら
しけこみたいところだがね」
「そんなところでどうしようというんだ」
トニーは茶目っ気たっぷりにスペクターの肩を叩いて応じた。
それはスペクターがこのかた感じたこのない暖かいものだった・・
「何号室にいるんだ?」
スペクターはキーを示して答えた。「1031号室だ」と・・・
「1031号室ね、今度晩飯でも一緒に食べようじゃないか、高校以来のつもる
話もあるからな・・」
「いいな、どう時間をつぶす(殺す:原語ではどちらもKill)か思案していたところだからな」
スペクターがそう答えたところで、エレベーターの止まる音がして、
「またな」と言ってトニーが道を空け、先を示した・・・
スペクターは背筋を寒いものが通り抜けるのを感じながらぼやいていた・・
これなら大晦日の<フリーカーズ>に行く方がましというものだ・・と。