ワイルドカード6巻 その27

      ウォルトン・サイモンズ
       1988年7月19日
         午前10時


機内の狭苦しい洗面所に立って、顔面から雫を
滴らせていると・・・
胃はむかむかし、肌は凍えて・・・
風呂場にいって、飛び込みたい気持ちにかられたが、
そうもいくまい・・・
そのまま飛び散らかせちまうには神経が細かすぎるのだ・・
そこでせっかちなノックが響いて・・・
スペクターは「あと少しだ」そう応え・・・
コートの裾で顔を拭って乾かしていると・・
さらに強くドアをノックする音が響いてきた・・・
ため息を漏らしながらドアを開けると・・・
背中の盛り上がってトーキングヘッズのTシャツを着た
ジョーカーが立っていて・・・
スペクターを押しのけてドアを閉めた・・・
そのちんちくりんの瞳は濁って死人のようであり、
スペクターよりもひどい有様に思えた・・・
「えび野郎が」とそう悪態を投げ掛けるにとどめ・・
そのまま席に戻った・・・
空路を行くのは初めてで・・・
機体は思ったよりも小さく・・・
「当機は乱気流に突入しました」という機長のアナウンスの
度に機体は跳ね上がって・・・
ウィスキーのボトルを二本空にして、スチュワーデスに追加を
頼みはしたが・・・
いっこうに戻ってくる気配はなく・・・
ベトナム帰りのパイロットもかくやというごつい男とリポーター
風の男にはさまれて待つことになった・・・
リポーター風の男はノートパソコンで何かを打ち込んでおり・・・
パイロット風の男は絶えず隣に話しかけ続けているときたものだ・・
「みごとな赤毛だぜ」
男の指差した方に目をやると、唇とニットドレスも真紅の女が
そこにいて・・・
きついメイクが施された緑の瞳を潤ませ・・・
大げさに唇をなめて見せた・・・
「誘ってるぜ、間違いねぇ、機内でやったことは?」
「ないね」
スペクターはそう応えながら、空のボトル二本を示して
がちゃがちゃ鳴らして見せた・・・
パイロット風の男は椅子にふんぞりかえって・・・・
襟元の糸くずを払うような仕草をしてから腹を引っ込めてみせつつ・・
「もっとも相手にされやしないだろうが」と言い放った・・・
そうして視線を外に向けながらも、スペクターをからかい続けている・・
「翼の黒いボルトが見えるか、ちゃんとしまっているから安全なわけだが、
外に出て確かめる勇気はないだろう・・・
ワシントンの国防だって同じことさ・・・
弾き出されなくちゃわかりゃすまい、砲火も毒ガスに曝されてもいない・・
ベトナムじゃそいつは日常だった、そこから俺は帰ってきたんだぜ・・・」
そこでスペクターは抱えていた空ボトルを放して、スチュワーデスを目で探してみたが・・・
見える範囲には見当たらない。ファーストクラスの御用伺いに行ってるのだろう・・・
エコノミークラスであたふたしている中産階級は間抜けに思えているに違いないのだ・・・
「それじゃいけねぇ」
パイロット風の男がそう言い放って、赤毛の女に目配せをしてから、ゆったりと
歩み寄っていくと・・・
女は微笑んで頷き返し、一緒にくすくす笑いながら洗面所の中に消えていった・・・
莫迦にしやがって」
リポーター風の男が顔を上げずに悪態をついていた・・・
見ると男は30代後半であり、体格はスペクターと変わりないものの、
頭頂は禿げ上がっている・・・
「あの女も安全かどうかしれたもんじゃない」
「そうだな」
スペクターができるだけ無関心な風を装いながら応えると・・
「そうとも、あんたを臆病者よばわりしてからかってやがったんだぜ」
男はノートパソコンを閉じて辺りを見回しながらさらに続けた・・
「あの男もからかわれているといい気味なんだが・・」と・・・
そこでブロンドを短めにしたスチュワーデスが現れた・・・
制服の割には大柄に見える女だ・・・
その女がスペクターに、氷の浮かんだプラスチックのカップと・・
二・三本ジャック・ブラックスの瓶をスペクターに手渡した・・・
「ありがとう」そう返し、財布から幾ばくかのチップを差し出して・・
瓶を一本開けてそいつを注いだ・・・
アトランタには党大会で行くのかい?」
リポーター風の男が尋ねてきた・・・
「いや、そうじゃない」そう応えてから、ゆっくりとそいつを喉に
流し込んでから続けた・・・
「政治にゃ関係ない、ビジネスだよ」
「関わりないだって?」
リポーター風の男は首を振りながら続けた・・
「76年のニューヨークを別にすりゃ、最高に盛り上がってる
党大会だぜ、何しろ接戦だからな・・・
俺はハートマンに肩入れしてるんだがね・・・」
そう言った男の声は、競馬場で馬のことを語るような響きがあった・・
「何が起こるかしれたものじゃない、特に政治の世界じゃぁな」
スペクターはそう応えながら、残りを喉に流し込んで、さらに瓶を一本
開けた・・・
そして温く空っぽな心地よさが内に広がっていくように感じながら・・
「俺があんたなら、賭けになど手はださんがね」そう応えると・・

パイロット風の男が通路から現れた・・・
手を深くポケットに突っ込んで・・・
赤毛に視線を据えている・・・
そこで機体が傾いて、男の身体は背の盛り上がったジョーカーのところに
投げ出された・・・

ジョーカーの手が一瞬霞んだように思えた・・・
手摺からわずかな埃が舞い上がっただけのように見えたが、
スペクターは願っていた・・・
ジャック・ブラックスをひっかぶればいい、と・・
「そう何が起こるかしれたものじゃないからな」
そうほくそ笑みながら・・・