その13

        ウォルトン・サイモンズ
            正午


スペクターはバスルームのシンクに跨って蛇口をひねって
水を出し、口一杯に頬張って、
ガラガラと音を立て乾いてこびりついた血を洗い落として
吐き出してから、
再び口いっぱいに水を含んで今度は飲み下した。
えらく喉が渇いて、身体もだるくてたまらない。
大怪我から回復した後はいつもこうなる。
つながった顎を上下に動かしてみると、特に問題なく動く
ようだが、横に動かすとまだ微かに痛むようではあるにしても
一応骨はきちんとつながっているようで、数か月も立てばそれも
良くなるというものだろう。
そんなことを考えていると、間の悪いことにドアに近づいてくる
音が聞こえてきて、どうやらベッドの下に戻るだけの時間はない
とみえ、
バスルームを見渡して、ともかくシャワールームに身を隠すこと
にすると、
部屋に入ってきて、ドアを閉める音が響いた後に、何やら寝室の
辺りで独り言を呟いているようで、スペクターはその声で誰が
入ってきたか悟り、バスルームに近づいてくるのを感じながら、
息をつめ、永遠とも思える時間に耐えながら、
常に己の中にある死の痛みに意識を集中し、待ち構えていると、
シャワー室を仕切っているカーテンに太った手がかけれらて、
カーテンを引き開けた男の顔が驚きに歪み、叫びかけたところで、
スペクターはその受付にいた男に視線を合わせると、
男が死の気配を察したかのように叫ぶのをやめ、そこで気を失った
男の襟を掴み、
バスルームの壁に押し付けるようにしてポケットをまさぐって、
鍵と財布だけを取り出して他はそのままにしておいた。
この男ならばホテルのあらゆることを周知しているに違いない。
もちろん本当のことを話すとするならば、という条件は付いて
くるにしたところで、それでも何か役にたつことも聞き出せると
いうものだろう。
スペクターは膝をついて屈み、片手で男を掴んだまま、もう
片手で男の頬をはたいてみせると、
意識が戻ったように思えたが、念のため数回強く揺すった
ところで、
目を開いた男の太った顎を手で掴んで、
「黙っていて、聞いたことだけ答えるんだ、もし答えないならば
あんたの命はない、わかるな?」
頷いたのを確認して手を放し、
「名前は?」と訊ねると、
目に見えて安堵した様子で、
「ヘースティングです」と応えた。
スペクターが財布の中を調べながら、
「それで、ここで何をしていたんだ?」
と訊ねると、
ヘースティングは室内を見回すようにしつつもスペクターからは
視線をそらしたままでいたが、
「何かの容疑者を探すよう上から通達があったんだ、正確なところは
わからない」
「それで?」免許書を取り出して「モーリスか……」
と口に出すと、
ヘースティングは気を大きくしたと見えて、
「あんたもベアードじゃないだろ、エースだというのは
わかるがね……」
スペクターはそれに頷いて、
「探偵みたいなくちをきくじゃないか……」と零すと、
ヘースティングは薄笑いを浮かべながら、恐怖を忘れようと
するかのような上ずった調子で、
「まぁな」と言ってから黙り込んだ。
スペクターはしばらく待ってから、
「探偵は嫌いなんだ」そう付け加えると、
太った男は目に見えて慌てた調子になって、
「頼む、殺さないでくれ、何でもするから」と
哀れっぽい声を出してきた。
「俺が望むことを話せば殺さないかもな」
スペクターはそう応えたものの、もちろん嘘だ、
実際には死体をどこに隠したらいいか考える
時間を稼いでいるにすぎない。
「この近くに空いてる部屋はあるか?」
「満室だよ、誓って間違いない……」
スペクターは低く響くよう心掛け、
「何かあったときのために予備の部屋が
あけてあるだろ?嘘をついたらだだじゃ
すまないと言っておいたはずだがな。
10階の非常階段から突き落としたって
いいんだぜ、わずか数秒で下に落ちて、
ぐちゃぐちゃになるだろうな」
そう凄んでみせると、
「やめてくれ、お願いだから……」
そう言ってヘースティングは両手を揉み
しだくようにして、
「1019号室だったら空いてるかも……
だから殺さないでくれ、なんだってやるよ、
私服警備員の連中に間違った情報を流して
混乱させてもいい、後生だから……」
スペクターはその言葉を聞きながら財布から
カードを取り出して、
「これがマスターキィだな?」
舌なめずりするようにそう訊ねると、
「そうです」
そう応えたヘースティングに身を寄せるように
して、その瞳に視線を合わせ、
「また嘘をついているんじゃないだろうな?」
「本当です、神に誓うこともできます……」
「そうかい、それじゃシャワー室に入るんだ」
スペクターはそう言ってカーテンを引き開け、
「さっさと入るんだ」そう声をかけると、
ヘースティングはその幾分重量過多な身体を押し込んで
「それでどうするんだ?」
そう訊ねてきたへースティングに、
スペクターは再び視線を合わせて、今度はしっかり
集中できたようだった。
ヘースティングの身体はタイルの床に崩れ落ちて、
捻じれた姿をさらしたままピクリともしないのを
確認して、
「これでいい」そう漏らしゆっくりとカーテンを
閉じて、
「ただじゃすまないと言っておいたじゃないか……」
死体を隠すのに最適とは言い難い場所ながら、
とっさにしては悪くない判断と言えるのでは
なかろうか。
そう内心一人ごちながら鏡を見つめて顎の状態を
見てみると、幾分傾いてはいるものの、一応は
笑顔と思しき表情を浮かべることが確認できた。
すべてが終わったらバハマに家を買ってもいい、
多少傾いていたところで構うものか……
とはいえハートマンを始末し終えないことには
気の休まらないバカンスになりかねないからな、
そう呟いて再び歪んだ笑みを浮かべてみせたのだ。