その8

  メリンダ・M・スノッドグラス
      午前10時


どうにもふらふらして、グラスを唇に
つけることすら覚束ない。
起きてから何杯飲んだことだろう。
二杯、いや三杯、といったところか。
大きく手を振り回すようにしてグラスを
落とさないよう置くことに成功してから
散らかったままの室内を見回すと、
朝食のトレイがそのままになっていて
トースターもやはり載ったままになって
いる。
その冷たくなった欠片を齧ると、
胃が激しく痛んで抵抗を示し、
苦しい呼気を吐き出しつつ髪に冷たい
汗が滴っているのを感じ、
洗面所に駆け込んで、流れる水で顔を
浸していると、
寝室の方からブレーズとアクロイドの
声が聞こえてきた。
どうやら笑いさざめいているようだ。
寝室に向かってドアを開けると、
会話が中断されて、
ジェイに不審げな視線を向けられること
になった。
一方ブレーズはというと、その黒い紫
がかった瞳をタキオンに据えている。
「ミスター・アクロイドに話がある、いいかな」
そう訊ねるとジェイは肩を竦めて見せてから、
足首にだらしなくひっかかったズボンをずりあげ、
タキオンについて居間まで来てくれて、
「それでハートマンは何と?」
ルームサービスのトレイを睨むようにしながらそう
訊いてきた。
「ミスター・アクロイド、一つお願いしたいことが
あるのです」
「構わんさ、言ってみな」
そこでタキオンは手を上げて示して見せて、
「早まった真似はしないでいただきたい。
つまるとこところ私を信じて全て任せておいて
欲しいということです」
Jesus Christ(おいおい)タキス流の婉曲な
言い回しというやつかな、タキオン
つまりそれはどういうことなんだ?」
オレンジのスライスを齧り、肉を食い散らかしながらそう応えたジェイに、
「ハートマンは私を脅してきたのです、もちろんきっぱり
断りましたから……とはいえまだ時間は必要でしょうね、
一日か、二日もすればすべては終わるのではないでしょうか、
これでハートマンは指名を失うことにはなるでしょうね」
そこでタキオンの声のトーンは落ちて、まるで永遠に失って
しまった希望を見るような遠い目をしながらも己を奮い立たせる
ようにして言葉を継いでいた。
「その時間を、あなたに作っていただきたいのです」と。
「それで?何をすればいいんだ?」と訊ねてきたジェイに、
「ある男をアトランタから遠ざけていただきたいのです、
あなたならば物理的にそれが可能でしょう」と応えると、
その言葉に探偵は疑いの視線を向けながら、
「それで?どいつを飛ばせばいいんだ?」と重ねて訊ねてきたが、
タキオンは手の平にグラスの冷たさを感じ、ブランディを大きく
呷ってから応えていた。
「遠い昔の話になりますが、私はその男に死にかけたところを
助けられたことがありましたがそれと引き換えに取引をももち
かけられたのですよ」
その言葉を持て余したというように
Shitなんてこった」と悪態をついたジェイに、
「簡単に断れる状態ではありませんでしたから……」
と応え、グラスを弄びつつ意を決して話し始めた。
「あれは1957年のことでした、私はKGBにスカウトされた
のです」
そこで息をのんだアクロイドに悲しげに微笑みかけてから言葉を
継いでいた。
「そう断れる状態ではなかったのです、酒のためなら何でもすると
いう状態でしたからね、それで何年か過ごしたわけですが……
彼らの期待には到底及ばない体たらくと判断されたのでしょうね、
私は放り出されて、再び自由の身となったわけですが……
その男が再び私の前に姿を現したのです、それであの男はアトランタ
いるのです」
「なんのために?」
「ハートマンですよ、ハートマンの正体に気づいて、それを暴きに
来たと言っていました、別の姿に身をやつしてはいますが・・」
「どんな姿をしているというんだ?」
「ブレーズの、家庭教師をしているのですよ」
Oh Hellなんてこった」
驚いて椅子からずりおちかけているアクロイドに、
「ハートマンはそれを知って脅しにつかってきましたから、
それが暴露されればただではすまないでしょうね。
だかれせめてあの男を遠ざけておく必用があるのです」
「そいつをどこかに飛ばせと……」
「そうです、FBIやアトランタ中の私服警官も動員してジョージを
探しているでしょうからね」
「あんたはまだ共産主義者なのか?」
タキオンは喉にその繊細な指をあて、細い眉を片方いたずらっぽく
つりあげて見せながら、
「どう思いますか?ミスター・アクロイド」と訊ね返すと、
孔雀を思わせる緑にオレンジ、金といったいおでたちの探偵は、
目を細めて、
「まぁ大体わかったよ」そう言って椅子から落ちないよう身体を
ずりあげながら、探偵は言葉を継いでいた。
「俺にはそんな昔の話なぞどうでもいいことだからな、さっさと
そいつはどっかにやっちまおうじゃないか」と。
そこでタキオンは寝室につながるドアを開けて、
「ブレーズ」と声をかけていた。
「その子を連れていくのか、それでいいのか?」
そう訊ねたジェイに、
「もちろんです」と応え、
それからブレーズに告げていた。
「おいで幼子よ、ジョージおじさんに別れを告げねば
なりませんから」と。