その24

      ヴィクター・ミラン
         午後9時


肩に真新しい旅行鞄をかけ、いかにも旅行者然とした
スーツを着たその男が人混みから出てくると、
笑顔は自分でもぎこちないと思えるものであったが、
それでも驚いたことにセイラは男の首に手を回し、
自然に抱きしめていて、
「ジョージおじさん!」と黄色い声を上げると、
ポリアコフも抱き返した後、肩をポンポンと叩き返して、
「そんな大声はださなくてよろしい、この歳になると
鼓膜にこたえるからね、ところでどうしてゲートのところで
待っていなかったんだ?」そう訊ね返してセイラの手を引いて、
ベルトコンベヤーに向かうエスカレーターに導いていた。
「搭乗券がないと待合室までしかいけないもの、それはそうと
こんなに大っぴらに戻ってきて大丈夫なの?」
笑いさざめき、久しぶりに会った親類同士とでもいうかのように
頷きあってはいるが、実際は屠殺場に向かう牛のような心もちで
探知機の据えられた保安ゲートに向っていると、
がたいのよい若い男達が目くばせをしあいながらすれ違っていった
彼らは一様に黒い服を着ていて、耳には何かをつけているようで
光って見えるが何事も起こらず。
微笑んで、
「彼らが捜しているのはアトランタから出ようとしている危険な
ロシア人であって、入ろうとしている人間ではないということさ」
と平然と言ってのけたポリアコフに、
「でも空港だとどうなの?」と言葉を返すと、
「バスという手もあるだろ、なんせドクターのお友達は俺をニュー
ヨークのポート・オーソリティにまで送ってくれたからな……」
と返された言葉の、
突然仄めかされたタキオンの関与に、表情を曇らせながらも、
「それじゃ時間がかかりすぎるのじゃないかしら……
それにバス停にしたところで見張られてることに変わりはないはずよ、
私だったらそれは選ばないだろうけれど……」
そんなことを話していると、彼らもエスカレーターに乗ってきていた
ようだった。
「ところであの人に何があったか聞いてないの?」
そうセイラが話を向けると、
「ラガルティアで待ってる間にちょこっとテレビは見たな……

資本家の老後というのは寂しいものだね、周りにものが溢れはしても、
いつも企業に対して不平を並べているというじゃないか。
そういやエースの殺し屋が大統領候補を襲ったそうだな。
そのことか?」
まぁ報道されたところはそのぐらいのものだろう、実際に革ジャケットの
小男がジャクソンの命を狙ってタキオンを巻き添えにした、というのが
一般的な見解なのだから。
「もしかしてタキオンに何かあったのか?」
ソビエト人のこの男がようやくそう話を向けてくれはしたが、
エスカレーターの振動のせいばかりではなく身震いが禁じえなかった。
まだ昨日の晩にセイラに触れたあの手が、
なにせ皮はさけ、骨さえ突き出していたという話だったのだ。
とはいえ震えてばかりはいられまい。
もはや他の人生など選びようもない。
そう己に言い聞かせ、
アンディの敵をうつべく生きながらえてきたのではなかったか?
と己を奮い立てていると、
「ドクターだよ」ポリアコフはそう優しく声をかけてきて、
「あの人に何があったんだ?」と言葉を被せてきた。
「容態は安定したみたい、手は切断しなければならなかったようだけれど、
今は順調に恢復しているそうよ、マスコミは報道してない話だけれど、
あの人を襲ったのはリッキィを殺したあの男だわ。
木曜の夜にジャック・ブローンともやりあったそうで、聞いた話で壁を
通り抜けることができるそうよ、どうやってかHerlilyハリー警部補は
銃弾を撃ち込んで手負いの状態とも聞いているわね……」
政治家を狙う殺し屋で、党大会で脚光を浴びたというところかしら……」
そう話した声はセイラ自身にも苦く響くものだった。
もし警察が自分の話したことをちゃんと聞いていてくれたなら……
そう思わずにはいられらなかった。
こんな惨劇もまきおこらなかったのではあるまいかと……
恋人を失った錯乱した女の戯言としか思われはしなかったではないか。
だとしてもジョージ・スティールならばどうだろうか?
そんなことを考えながら全自動ドアを通り抜け、まだ蒸し暑い外に出て、
セイラは当然ながら偽名を使って車をレンタルすることにした。
アトランタでは名が知られているだけに、余計な関心を引かないにこしたこと
はないと判断した、実際あのメロディを口ずさむあの昏い目をした男がどこかから
聞きつけて再び襲いに現れたとしても何の不思議もないと思えてならなかったからだ。
用心するにこしたことはないのではあるまいか。
そんなことを考えていると、ポリアコフが聞いた現実を認めたくないとばかりに
首を振って、
「この国のワイルドカード感染者に対する風当たりは最悪なまでに高まっている
ということだな、もはやどこにいようとも関係なくなっているだろう。
実際恐ろしくてたまらんよ、ハートマンという狂人の野望を食い止めなければならない
のは当然としても、それだけではすまないところに事態は転がってしまっているのでは
あるまいかと思えてね……」
セイラはドアを通り抜けて、ドアが自然と閉まる音を聞きながら、
「そんな、それ以上どうできるというの?」と叫び返していると、
ポリアコフに手を掴まれて歩道まで引き戻されていた。
ディーゼル排気ガスとタクシーの行きかう路上に飛び出そうとしていたようだった。
それでも車の流れをものともせずに飛び出していこうとしたところに、
「必要ならやるしかないだろ、タキオンは動けないだろうからね……」
と被せられた言葉に、
「あなたがやればいいでしょ、あなたはエースなんだから、その能力を使えばいい
じゃない……」と返すと、
ポリアコフはようやくどこにいるか気づいたとでもいうように辺りを見回して・・・
「大統領候補がKGBのエースに殺されたとなったら第三次世界大戦になるだろ、それは
避けたいということだ」
あなたはそれでいいでしょうけれど……
セイラはそう思いつつも、幸運を期待しつつ大胆に道を横切っていこうとすると、
ポリアコフも幾分慎重な様子ながらその後についてきつつ、
「言ってることとやってることがちぐはぐじゃないか」おかしそうな顔をしてそう
零された言葉は、獰猛な獣を宥めるような調子だったが、セイラはそれに取り合わず、
「どうするか決めたときに連絡してきたらいいでしょ」と突き放し、借りたローズ・
グレイ色をしたカローラのドアを開け乗り込むと、
「俺には俺のやりかたがあるからな」と応えたポリアコフにドアを開けて示すと、
「プロのスパイにはそれなりの考えがあるものだよ」と返された言葉に、
「スパイになることと、ジャーナリストになることにそんなに違いはないのじゃ
ないかしら?」と訊ね返すと、
「だったらWestmorelandウェウストモーランド将軍(ベトナム戦争の指揮官で、
ジャーナリスト嫌いで知られている)にでも聞いてみるこった*」
と返された軽口に怒りを堪えつつ乱暴にキーを捻っていて、車を出していた、進む
しかないか、と己に言い聞かせながら……




*カントリー・ジョン・マクドナルドの「Feel Like I'm Fixing To Die」という
曲の替え歌「Feel Like I'm Fixing To Die Rag」の一節、
「Dn't Ask Me、Ask Genrel Westmoreland(俺に聞くなよ、ウェストモーランド
将軍にでも聞いとくれ」という一節を引用したもの、俺に聞くなよ、という言葉を
言外に仄めかしているかと……