その9

    メリンダ・M・スノッドグラス
         午後6時


タクは横向きに寝そべって、ひどい状態の手を枕に
添えてはいるが、
先程の尿の匂いが強く感じられて尻の下にも湿った
ものが感じられる。
勢いが強すぎてかなりの量が跳ね飛んでしまって
いたのだ。
それでもなんとかとりとめなくなりがちな思考を
まとめようとしつつも、
理想の名にかけて、ジェームズ・スペクターのことを
失念しているとは・・・
あの男なら一睨みで殺すことができるのですから、精神を捜査してでも止めておくべきだったというのに……恐怖に支配されていたということでしょうか。
そう考えていると、ふと父の言っていた言葉が思い返されてきた。
イルカザム家の男子たるもの、けして恐怖にとらわれてはならぬ。
そう言っていたのでなかったか。
もしジェームズ・スペクターがハートマンを殺しおおせて、
それが検死に回されたらどうなるだろうか、おそらく一巻の
終わりというものだろう。
トロールに烏賊神父、アラクネにスポット、ヴィデオにフィン、
エルモもひどい立場に追い込まれるのではあるまいか。
エルモはすでに殺人容疑をかけられて収監されているのだから、
かえって心配はないか、と考えながらも収監中のジョーカーの扱いを
考えるとそれも碌なものではあるまいと思えるが、
どちらにせよワイルドカード保菌者に対する暴動がおこればけして
無事ではいられまい。
もちろんそれに関してはタキオン自身もたいした立場の違いはないと
言えようが、
そういえばブレイズの姿が見当たらない。
ハートマンが検死されれば、あの子も収監されることにはなるまいか。
さすがにすぐにつるし上げて殺すということはないと思いたいところ
ながら、
幸いアメリカ国民になってからは、収監はまぬかれているが、
今後収監されるよりも先にスペクターに殺される方が先になるなら
その心配はないというものだろうが。
私服警備員達にスペクターのことを警告することはできるが、
そうするとハートマンはのうのうと大統領になりおおせてしまう
ではないか?
その方が状況は最悪と言えるのではあるまいか?
監視し、場合によっては操ることすらも。
そんな呑気なことを考えている場合ではあるまい。
あの男は殺し屋を差し向けてきたではないか。
成功するまで差し向け続けるに違いないのだ。
それでもワイルドカード保菌者が保護されるのならば・・・


真実を知っている人間が多すぎるというものだ。
ジェイにジャック、ハイラムにディガー、セイラにジョージ、
スペクターすらも知っているではないか。
おそらくハートマンは皆殺しにしようとしてくることだろう。
己を守るには真実を告発するしかあるまい。
そうなれば暴動がおこるだろうが、それでもあの男が大統領に
なるよりましというものだろうか?
もはやどうしていいのかわからない!
理想の名にかけて、どうすべきだというのでしょうか?
どうしようもないというものでしょう?
そう内心呟きつつも、いい加減考えるのにも疲れてきた、情けなさと
それを疎む気持ちが強すぎて、
眠ることを期待して目を閉じて、
痛み止めの麻酔が霞んだ霧のように己の精神に充満するに任せようと
したが、痛みが強い酸のように己を蝕んでいて思うに任せない・・・
そう考えていたところに、
「悪くはないのかもしれない、痛みのある内は、心配ないとも
言えようから・・・」
驚いたことに、タキオンの内心の声に応えるようにそう穏やかな声が
聞こえてきたではないか。
そこで思い切って目を開けると、そこにはジョッシュ・デヴッドソンの
貌があって、タキオンを見つめているではないか・・・
「やぁ、お加減はいかがですかな?」
「まだましというべきですか、もはや誰からも見捨てられたと思って
いたところでしたから……」
「ときに人は、友に対する義務というものを思い起こすこともあるものだ」
そう語るデヴィッドソンからも、やはり尿の匂いには辟易している様子が
見て取れて、
「濡らしてしまいました……」
タキオンがそう言って憐憫の思いを強くしていると、
「だったらベッドの方を変えればいいだろう、手を貸すよ……」
デヴィッドソンはそう言うと、腰を屈め、タキオンの脇に手を差し込んで
抱えて、点滴のつるされた台がひっかからないよう動かして椅子に腰かけ
させると、
「待っててくれ、すぐ戻る」そう言い添えて出て行って、
看護婦を連れて戻ってきた。
看護婦はシーツを取り換えて、ベッドを元の状態にしてくれた。
その間もデヴィッドソンは横に辛抱強く控えていて、
看護婦が出て行ってドアが閉められたところで、
ベッドとの間に小さなテーブルを用意して、コートのポケットから
携帯チェスセットを取り出した。
「すぐに勝負はつくだろうがね.......」そう言って両の掌の上に二色の
ポーンを載せて見せ、
掌を閉じて、それを背中に回してから、再び閉じたまま前に出して、
「左です」とタキオンが応えると……
左の指を開いて黒のポーンを見せて、
「こっちだな、待ってな、すぐに準備するから……」
タキオンがその甘い声に聞き入っているうちに、
準備は整っていて、
デヴィッドソンはポーンをキングの4に移動し、
そして無言のままに数手が差され、
タキオンが顔を上げると、
エヴァンズの戦法というやつだ、かなり古い手だがね……」
デヴィッドソンがそう言って、
微かに身体を動かした、椅子のヴィニールが気になるかのように。
「そういえばこの戦法を好む友人がいました……」
「そうかい?」
「誰も知らないはずですが……」
「そいつはどうなった?」
「存じません、行方知らずで随分立ちますか、それで音沙汰なしです」
「そいつはよした方がよくないか?」
タクが左の人差し指でナイトを掴みかけると、デヴィッドソンはそう言って、
「ビショップの方がいいぜ」
俳優のこの男はそう言ってにやにや笑っているではないか。
そこでタキオンはそうして手を替えられたことを思い出していた。
そうだ、それもあの男に乗せられてのことだったではないか、
そうだ、あの男はそういう能力をもちあわせていたではないか?
「デヴィッド!デヴィッド!デヴィッド!デヴィッド!デヴィッド!デヴィッド!デヴィッド!そうなのですね?」


指さしてそう叫び、手を振り回したことで点滴の針は抜けていて、
思わず立ちくらみがして倒れかけたところで、紛れもないデヴィッド・
ハーシャタインがそこにいて脇に手を回して抱えようとしてくれたが、
一緒に床に倒れこむことになって、
ツイードのコートを乱暴にはだけ頬に顎髭をたくわえたその顔を見て
いると……三歳の子供のように涙が溢れ、嗚咽がとまらないように
なっていると、
デヴィッドは優しくタキオンの頭をポンポンと叩いて、
「落ち着けよ、大丈夫だから」と言っている。
まさしくエンヴォイの能力が作動したに違いなくて、
「ああ、デヴィッド、本当に戻ってきてくれたのですね」と返すと、
「ほんのしばらくの間だがね……」
その言葉にタキオンが表情を曇らせていると、
「もうかなりの歳だからな、タキィ、じき召されるということさ」
そう応えたデヴィッドに無言のまま向き合っていると、
そこでデヴィッドが突然思いついたというように、
「おっと、それじゃベッドに戻ろうか」と言い出した。
「いえ、その必要はありません、大丈夫ですから、それより話して
くださいませんか、これまでに何があったかを、
あの綺麗な女の子達はあなたの子なのですね?」
「そうとも、俺の宝だよ……」
「あの子たちは知っているのですか?」
「知っているよ、その上で俺を支えてくれている、監獄を出てから
随分荒んでいたものだったがね。
政府が俺をまた潜入捜査に利用しようとしたもんだからな……」
そこでデヴィッドは悪戯っぽい表情をして、
「自主的に退役し、別の人間になることにしたんだ。
つまりデヴィッド・ハーシュタインという人間は死んで、
ジョッシュ・デヴィッドソンという人間に生まれ変わったという
わけだ・・・そしてレベッカに出会ったことで、
荒んだ気持ちからもおさらばできた、あの子たちはけして裏切る
ことはないからな……」
そこで遠いところを見るような昏い目をして表情を曇らせたデヴィッドに、
「ジャックのことですか?」と言葉をかけると、
「心配ないよ、タク、ブローンはもう知っているからな、あいつは
いっちょまえに義務なんて言葉を口にしやがったがな……」
そこでデヴィッドはしばらく考え込んでいたが、
「昨日の夜、あんたが死にかけていると知ったときに、
俺が生きていることを知らせてやれば、あんたをこの世につなぎとめて
おけるんじゃないかと思ってね、そう、レベッカが俺にそうしてくれて
いるようにね……」
「その通りですね」そう呟いて、デヴィッドの襟を掴んでいると、
「ここ30年の間、力を使う勇気のあるエースが羨ましくてたまらなかった
わけだが.......」ハーシュタインはそこで言葉を濁らせていたが、
「あなたはここに来たではありませんか?」
「まぁそうだが、正気の沙汰じゃなかったかもな……」
「それが常に問題だ、と言ったところですかね?」
「何を考えているんだ?」タキオンのげっそりとこけた顔に向けてそう
訊ねたエンヴォイに、
「最も重要なことはどれでしょうか?デヴィッド、愛、名誉、勇気、
使命」そう訊ね返すと、
「愛に決まっているだろ」まるで演じるかのように迷わずそう応えた
ではないか。
「お優しいことですね」とからかい交じりにそう応じると、
「あんたはどうなんだ?」と逆に返されてきて、
「名誉と使命です、私はオムニに行かなければなりませんが手を貸して
いただけますか?」そう言い募ると、
タキオン、自分の状態がわかっているのか?」そう念を押されつつ、
「わかっていますが、やらないわけにもいかないのですよ……」尚言い募り、
「理由は教えてくれないのかな?」そう返された穏やかな言葉に、
「話すことはできませんが、それでは手を貸していただけませんか?」
そう言い放ったが、
「それが問題だ、と応えるしかあるまいな。……」そうとぼけた言葉が返されてきた、
そう言って微笑んでいるのは紛れもなくあのデヴィッドであったのだ。