ワイルドカード6巻 その37

           メリンダ・M・スノッドグラス
           ジョージ・R・R・マーティン

             1988年7月19日
               午後9時



ブランデーが唇に沁みて・・・
ついうめき声を上げてしまった・・・
バーテンの女がにやにやしているのに悪態を浴びせそうになりながらも・・
自分がどんな顔をしているのかということに思い至り思い直すことにした。
なにしろ白い頬には昨晩セイラと揉みあったときにできた爪痕が赤く浮き上っていて・・
下唇にはフルールの爪で切り裂かれた痕がある・・・
何たる聖痕か・・
これではカウンターの後ろにいる若い女性が偲び笑いを浮かべるのも無理はない、と
いうものだろう・・・
女性というのは目ざといものなのだ・・・
「相席よろしいかな?」
いつのまにやらジョッシュ・デヴィッドソンが現れて隣の席で控えている・・
断る必要もない、大歓迎というものだ・・・
「どうぞ、べつに構いはしませんよ」
「バーに集って、一人がけのカウンターに腰掛けている男、なんていうものは
大概一人になりたくてそうしてるもんでしょうが、ときには例外もあります、
そこに賭けてみようと思いましてね・・・」
「気にかけてくれて嬉しいですね、何か飲みますか?」
「そうしましょう」
気まずい沈黙が流れて、デヴィッドソンの注文のみが響くなか・・・
どちらからともなく視線を向けて、合わせたように同時に口を開くことになった・・・
「ご高名は耳にして・・・」
「お噂はかねがね・・・」
そして互いに笑いあった後にタキオンが先に話すことにした・・・
「無聊をかこつというやつですかな?
まぁこうして話すのも悪くありませんね・・」
タキオンはそこで一端言葉を切ってブランディを一口呑んでから言葉を継いだ・・
「あなたはどうです?」
「好奇心がわきましてね」
「何に対しての?」
「政治の過程についての・・いわば違いを如何に乗り越えるかといったことです」
「なるほど、それならば身に覚えがあるというものです・・」
「あなたは個人の努力を重んじる文化圏の出身でしたか?」
デヴィッドソンは手の平の上でグラスを転がすような仕種をしてからそう訊ねてきた・・
「そうではないと?」
「私には知りえないことですからね・・
個人の理念や見解が実際政策に影響を及ばすなんてことは疑わしく思えますから・・」
「民主主義であったとしてもそれは難しいといえますね、私の星は独裁すらも幻想と
される貴族文化でしたから尚更難しく、個々人の利害衝突の内に消えてしまいます・・・」
「だとしたら何らかの考えによらなければなりませんね」
タキオンは不快感を顕にして応じていた・・・
「どちらかを選ばなくてはならないと?」
「難しいことではないでしょう、判断を代理に委ねるということです・・何といいましたかな?」
「人民の意志という考え方ですか・・」
「その通りです」
タキオンは唇の前で両手の指を組んで、首をもたせかけながらグラスを見つめていた・・
それが鍾乳石にぶらさがったつららであるかのように意識を先鋭化させながら応えた・・・
「代議制において人民というものは文明に属するものとしてのみではなく、その判断において
属するものであるが・・・ときにそうした委任は個人の見解を犠牲にすることもある・・・
Edmund Burkeエドマンド・バークですね・・」
そこでダヴィッドソンの明快な笑い声が響いて、タキオンにはそれが力づけるもののように感じられていた・・・
「ドクター、あなたという人は並外れた頭脳をお持ちですね・・」
タキオンはその言葉に応えず、考えていた・・・
出会った並外れた人々のことを・・・
1946年の8月23日にこの星に着いてからであった数多の人々のことを・・・
理想よ、あれからどれほどたったのだろうか?
42年だ、それだけのときをここで過ごしてきたのだ・・・
ここが、故郷であるかのように・・・
「どうしました?」暗く思案げな瞳に柔らかく気遣わしげな色を宿らせて訊ねている・・
「私にとってはあそこはもはや存在しないに等しい世界になってしまったのですね」
ホームシックが酔いの如く回ったかのように言葉が口から迸ってきた・・・


どれだけの刻が過ぎたことか?時間、日、週、月、年・・・
その概念が形作られて以来・・・
白髪が閑静な墓地にひきこまれるがごとくに・・・
なんたる人生だろうか!
何とささやかで!快いことだろう!
ささやかな暗がりに茨なく
羊飼いたちが、無邪気な羊を追うように・・・
繭に覆われたような豊かなときに・・・
なにゆえ王は民の裏切を恐れるだろうか・・・


視線をタキオンに据えたまま・・・
「それはタキスでの言い回しですかな?」
ダヴィッドソンが穏やかに訊ねてきた・・・
「地球流にいうならば、確かなもののない世界では、裏切りこそが唯一の確かな
ものとなる、という意味でしょうね」
そこでタキオンはだしぬけに立ち上がって言い放っていた・・・
「そろそろ失礼させていただきます、あなたのおっしゃった通りです・・・
私は一人になって考える必要があったのですね・・・」と・・・