ワイルドカード5巻「一縷の望み」その1

          The Hue of a mind
         一縷の望み

             スティーブン・リー
            水曜 午前9時15分


あれからもう七日になる、ニューヨークに辿り着いて、なぜかギムリや取り巻きのAbomination醜い
怪物(ジョーカーのこと)と夜毎顔をあわせるようになっている。

あれからもう七日になる、ここはFestering瘴気(膿)とSore痛みの吹き溜まった場所だ、ここジョーカー
タウンで暮らしている、
そうして待った。

あれからもう七日になる、その間ずっとヴィジョンを見ていない、おそらくそれ自体が重要な啓示なのだろう。

千里眼にしてカーヒナであったわたしにとってヴィジョンこそがすべてであったのだ。
そのヴィジョンたるアッラーの夢がハートマンを示した、その腕の鉤爪からの糸でPuppet傀儡たちを
躍らせるサタン、それがあの男だった。
ギムリとセイラ・モーゲンスターンの姿もまたその夢に現われた。
砂漠のモスクに、そして最も信頼する存在であったはずの己によって喉を切り裂かれた弟のヴィジョン
(イメージ)が思い起こされる、それをなさしめたThing怪物、すなわちハートマンには、アッラーGift
(裁き)たる復讐を下さねばならない。
今宵は新月だ、それはOmen前兆であるに違いない、おそらくヴィジョンが下されることだろう。
一刻余り今朝から祈りを捧げている、アッラーはそれに答え、その揺り籠たる腕(かいな)に
Gift(啓示)を賜れることだろう。
だが何も下されはしなかった、そこで腰を上げ、ぐらぐらのベッド脇に置いてある、ラッカー塗装の施された
衣装トランクを開き、そこに脱いだばかりのチャドルと外したばかりのヴェールを納め、長めのスカートとブラウスに
着替えた。
こんな明るい色の服を着て、素手と顔をさらして歩くのには裸でいるような抵抗と罪の意識を感じないでもなく、
極めて無防備に思われてならないが、
それでもアッラーGift(復讐を為す得物)は黒いコットンのチャドルにくるんで隠した、足音が耳に入ったのだ。
怒りと恐怖の入り混じった感情が広がり、息苦しくすらあるが、ともあれ衣装トランクをバタンと降ろし、それに手を
かけながら、すぐに取り出せるようにし、何とか立ち上がって声を発した。
「ここで何をしているのです」アラビア語であることも気づかず、あたりを見回しつつ、
「ただちに立ち去りなさい・・」と言葉を重ねていた。
ここジョーカータウンに来てから、気持ちの安らぐときがない、夫サィードも弟ヌールのみならず、使用人も
ボディガードももはやいないのだから・・・
身一つで不法入国したゆえ、ここのジョーカーにしか姿を見せていない、イーストリバー近くの、がたのきた
寝るだけの宿を借りたはいいものの、入って二晩目に、外の通りではジョーカーが撃ち殺されたのだ、ここには
暴力が満ちているのだろう。
だとしてもジョーカーが死んだところで、何の問題がある、と己に言い聞かせる、彼らはアッラーに呪われし者、
忌まわしきAbomination魔物なのだ。
薄汚れたドアを開けると外には一人のジョーカーがいて私を見つめていた。
「でておゆき」なまりのある片言の英語を搾り出した。「銃もあるのですよ」
「僕の部屋だよ」そのジョーカーはさらに言葉を重ねてきた。
「僕に部屋をかえしておくれよ、あんたはナット(普通人)だ、ここにいちゃいけないんだ」
線の細い痩せこけた影だけが見え、窓脇の暗闇から光のあたったところに進みでてようやくその姿がはっきりと
見て取れるようになった。
額には灰白色の破れたぼろきれ、それは古い血の固まった赤茶けた包帯であり、髪には血のようなしみが、
腕も同じさまで、そこには薄く赤い色が染み出していて、その包帯が伸びて床に垂れている。
そのやせ衰えた身体を覆う衣服の下には、おそらく他の傷があり、しみをつくっていることだろう・・・
そいつは毎日そこにいて、ドアの傍に立って見つめている、そうして安宿から外にでると、明白な恨みのこもった
目で見つめながら黙ってついてくる。

スティグマータ(聖痕)だ」最初の日に、ギムリがその恐ろしいジョーカーの名を教えてくれた。
「そう呼ばれている、いつも血を流してるんだぜ、哀れんでやりな、何の害もありゃしないのだからな」
そう言われても、その暗い顔で、陰気な目を向けられると充分に気がめいる。
その視線を感じると、渋い顔にならざるをえない、やつらはジョーカーだ、サタンの申し子である印を
ワイルドカードによって刻まれた存在なのだ。
「出て行って」そうもう一度告げはしたが
「僕の部屋なんだ」そう繰り返して、不機嫌な子供のように神経質に脚を踏み鳴らして返した。
「そんなことはありません、支払いはすんでいるのですから」そう言い返すと
「僕が先に借りて、ここに住んでいたんだ、あのときまでは・・」そこまで言って硬く唇を引き結び、右手を拳にして握り締め、
朱みをましたずくずくの包帯を振り回しながら、低い引っ掻くような声を絞り出した。
「あの夜までは僕の部屋だったんだ、ワイルドカードをひく前までは、あれは9年前だった、僕はここを蹴りだされた、一ヶ月
支払いが滞っただけなのに、払うっていったのに、待ってはくれなかった、きっと先にナットのお金を受け取っていたんだ・・」
「私が借りているのです」そう繰り返すと
「荷物が残っていた、あんたが盗ったんだ」そういいがかりをつけてきた。
「片付けたのは大家でしょう、私ではありません、このままの状態で鍵がかかっていましたよ」
顔を歪ませて叫び声を返してきた、それは舌に熱いものを含み、それを吐き出すかのような声だった。
「あいつはナット、あんたもナットだ、まったく忌々しいったらありゃしない、誰も望んじゃいないのに・・」
その言葉が内に潜むフラストレーションを沸き立たせ、それは冷たい怒りに変化し、舌鋒となって迸り・・
Outcast外道(ジョーカー)だからでしょ」そう叫び返していた、ジョーカーだけではない、ジョーカー
タウンにもうんざりしていたのだ。
シリアでも、ダマスカスに入れてくれと懇願するジョーカーに言い放った言葉を再び口にしていた。
「あなたがたの罪に対する神の報いです、悔い改むれば許されることもありましょうが、それをわたしに求めても
無駄な話です」
そう言い放ったとき、突然馴染みの回るような、現実の失われる感覚が蘇ってきた。
「今は駄目」そう叫び抵抗を試みたが、神のHikma英知たるヴィジョンには逆らいようのないことはわかっていた。
In Sha‘Allah(嗚呼)」
アッラーの刻、アッラーの望むままにそれはなされるのだから・・・
スティグマータも、部屋すらも揺れて、視界から消えた。
アッラーの手が触れしとき、わたしの目はアッラーの目となる、そして白昼夢が広がる、Grittyおぞましき(礫の)ジョーカータウンの現実に薄汚れた部屋、己を脅かすスティグマータといった現実が溶けあわされて消え、
わたしはBadiyat Ash-sham アシャーム渓谷の砂漠にいて、弟のモスクで立っていた。
前にはヌール・アル・アッラー、エメラルドの輝きも失せ、ジェラバからはありえないほど大量の血が
迸り続けており、その震える指が私を糾弾するように指し示している。
そしてその顎の下には、ぽっかりと穴が開き、折れた骨まで見てとれるではないか・・・
朗々と響き人々を従えさせた声ももはやない、それでもその瞳に宿る憎しみは感じ取ることができる。
その恨みがましい視線に耐えかねて沈黙を破るべく言葉を発していた。
「あれは私じゃない」啜り泣き許しを請うべく跪きさらに言葉を重ね・・
「サタンがわたしの手を用いたのです、わたしの憎悪と嫉妬につけいって、わたしは・・」
非のないことを弟に伝えようとし、顔を上げると、そこにはヌール・アル・アッラーではなく、
ハートマンが、そして彼は笑いながら答えた。
「我こそはそなたのこころのヴェールを剥ぎ取り、その下を顕わにした獣なり」
言葉とともに、彼の手がせまり、眼窩にTalon猛禽のそれを思わせるNail爪を差し込み、そのまま顔を切り裂いてのけたと思しき衝撃が遅れて襲ってきた。
そうして盲目となり、叫びを上げ、痛みに弧を描かせて頭をのけぞらせ、悶えつつもハートマンの指が己を切り裂き、何かが抉り出されるのになすすべもなく、逃れることもできない、そこで再び声が響いてきた。
「我らはヴェールを用いぬ、マスクすら用いはしない、覆われしものを顕わにせよ、その下の色彩を顕わにすれば真実が顕わになる、
そはジョーカーの色」
Claw爪をたて、強く掴み、契ってばらばらにし続け、ぐちゃぐちゃにされた己の残滓から、熱を持った血が迸り続けるのが感じられ、呻き、そして啜り泣いた。
彼の手は私を何度も何度も打ち据え続け、筋肉といった筋肉をあらかた骨から刈り取り、そこで再び言葉を重ねてきた。
「素顔が顕わになる」そしてハートマンの言葉はさらに続いた。
「人々は怖れを持ってそれを見るだろう、内なるものに目を凝らし、しかしてそれを咀嚼せよ、さすれば見えてこよう、
他と変わりはしない、同じなのだと・・」
血を迸らせながら顔をあげると、そこにはたしかにハートマンのappariation姿があったが、その顔はさらに幼いものだった。
その周りには怒りを訴え、泣き喚く蜂々の千もの羽音。
その苦痛に耐えていると、肩に手が置かれたのが感じられた、その心地よい感触に振り向くと、傍にセイラ・モーゲンスターンが立っていた。
「私を許して」そう訴えかけた、そして言葉を継いだ。
「わたしが目をそらしたばかりに、だからわたしが・・」
そこでアッラーのヴィジョンは消え失せ、私は息をつめ、汗びっしょりの状態で床につっぷしていた。
そこで己の顔におそるおそる触れてみる、幸い何の傷もついてはいない。
どうやらぼろぼろのパイン材の床ですすり泣いていたらしいわたしを見たスティグマータがようやく声を発した。
「他のナットとは違うんだね」どうやら同情心を搾り出したようだった。
「ぼくたちと同じなんだね」そういいながらも、彼の血はゆっくりと床に滴っていた。
「それでもここは僕の部屋で、それはかわりはしない」
そう念を押しはしたが、その言葉からは棘は消えうせ、柔らかいトーンに思えた。
「僕は待つ、いつまでも待つよ」
そう言ってゆっくりとドアに向かっていった。
「同じなんだ(いつかわかるに違いない)から」血まみれの包帯に包まれた頭を振りながらそう言い残して、
ようやく視界から消えたのだ・・・