「一縷の望み」その9

              一縷の望み
                  スティーブン・リー


水曜午前12時45分

白昼夢に襲われたのは、倉庫のドアを開けようとしていたときだった・・・

文字が液体のように流れ、鉛の人影が火に投じられたかのようにたわみ・・・
闇に覆われた中、笑い声のみが耳に届く・・・
ハートマンの笑い声が響く中、紐に結わえられた操り人形たちが踊り興じている・・・
恐れおののいているミーシャの前で、一本の紐が引かれ、そこに垂れ下がっている背中の盛り上がった人形が顔を上げた・・・
少年のにきび面ながら、悪意が滲み、その息自体が毒を放つかのよう、正視に絶えないながらもその顔には覚えがあった、そう前にもヴィジョンで見た顔だ・・・
残忍にねじくれた微笑みを湛えた生き物が、痛みを約束すべく輝く瞳をミーシャに向けている・・・
静かに糸がたわみ、動きが伝えられていく・・・
ハートマンの哄笑とともに・・・

それは突然消えうせ、鍵を差し入れ、ひねったままドアに触れているのが感じられた・・・
「Allah(嗚呼)」思わず呻きながらも、首を振って気持ちを静めようとしはしたが、恐怖の感情を拭い去ることは適わず、夢のイメージにとらわれたまま、心臓の鼓動が脈打つのを感じている・・・
そこでカチャリと音を立て、鍵を開け、大きくドアを開け放ち、「ギムリ?・・いるの?」
と声をかけた。

倉庫の中は夢同様闇に覆われていて、誰もいないように思え、己の鼓動のみが感じられ、夢の中の獣が再び姿を現すかに思われた・・・

そうしていると、中から染みのような微かな灯りがともり、一瞬目がくらむように感じられながら、人影が浮かび上がって思わず叫びをあげてしまっていた・・・

「ごめんよ、ミーシャ、脅かすつもりはなかったんだ」それはピーナッツの声で、手が肩に触れるべく伸ばされてきたが、ミーシャは咄嗟に身を引いてそれをさけていた・・・
嫌悪を示しながらも平静を装い、「ミラーはどこ?」と言葉を投げかけていた・・・
ピーナッツは腕をだらりと降ろし、視線を薄汚れた床にすえたまま、ぎこちなく肩をすくめて応えた・・・
「知らないよ、ちょっと前に出ていったきりだよ、ファイルにヴィデオ、シュラウドならいるけれど、まだ戻ってきてないんじゃないかな・・」
「何かあったの、みな息をひそめているようだけれど・・」
「ポリアコフから連絡があったんだ、政府の情報筋が、マッキーの消息を掴んだって、どうやらアメリカに来ているようで、ギムリにそれを伝えて欲しい、という話だった・・・
ハートマンに全て、筒抜けになっているんじゃないか、とまで心配してたみたいだけれど・・」
ギムリに連絡はついたの?」
「まだついてないよ、早く伝えたいんだけどね、
ここで一緒に待とうよ」
「そんなゆとりはありません」そう激しく言い放ってから、語気を緩めて説明することにした・・
「あのジャケットがいるのよ、タキオンのところに持っていくとセイラに約束したのだから・・」
「あれはギムリが持っていったのじゃないかな、
待つしかないよ」
それに対しミーシャは激しい怒りを示すことはせず、ただ肩をすくめて穏やかに応じた。
「一端部屋に戻ってきます、またあとで会いましょう」
そういって出て行こうとしたところで、ピーナッツが思いがけない言葉をかけてきた・・・
「僕の方は君に悪意はないんだよ・・」
ピーナッツの声は子供じみたものだったが妙に気にかかるものだった・・・
ワイルドカードが君に優しくて、僕にそうじゃなかったとしても、君やヌールが僕たちの同胞にした仕打ちを知っているから憎む理由が十分にあるわけだけれど、それでも憎む気にはなれなかった、ウィルスで歪むのは身体だけで充分だと思ったからね・・・」
そこでミーシャは振り返ってぎこちなく応えた。
「ピーナッツ、私だってあなたを憎んでいませんよ」セイラのもとへのフライトに、そこでのやりきれない感情といったものに疲れを覚えていて、
口論する気にもなれなかったのだ・・・
「ヌールはジョーカーを嫌っていて、バーネットもそうで、ジョーカーですらジョーカーを嫌っているんだよ、君やギムリに、ロシア人までそんな僕らを気遣おうとしている人にまでどうして、悪意を向けるのか理解できないな」そこでため息をついてさらに続けた。
「彼がエースかもしれないからってそれが何なの、ジョーカーのために身を粉にして働いていることにかわりはないんだから、秘密にしておけばいいじゃないか、僕はね、君がエースで、何をしたか知っても、それが何でもないかのように振舞っているじゃないか・・」
「ピーナッツ、あなたは分かってないのよ」
ため息を漏らしながらも、腕を振って応えた。
「ハートマンは他人を操るの、その力を弄んで、
人を傷つけ、しまいには死をもたらすのよ」
「信じられないな、そんな力があっても、彼はそんなことはしないんじゃないかな、一方で君やヌールの教えは、実際に何百人ものジョーカーを死においやってきたよね、またそれを繰り返そうというの・・」
その言葉は穏やかに発せられたものだったが、充分にミーシャの胸をえぐるものだった・・・
私の手とて血塗られているではないか
そんな感慨に襲われ「ピーナッツ・・」と声をかけ、言葉を続けようとしたが一端そこで己をとどめた・・・
ヴェールで顔を覆い、その黒い布で、己の感情を隠したくなる衝動に襲われたのだ、もちろんそれは適わず、悲しみの感情に覆われたその素顔をさらしたまま、ようやく言葉を搾り出した。
「どうして憎まないでいられるの」
微笑みと思える表情をつくって彼は応えた。
「そうしたこともあったけれどね・・・
ミーシャに会って、君のところの文化が君を歪めただけで、ミーシャはそれに反抗しようとしたように思えたんだ・・・
ミーシャは充分に優しさを秘めていて、ヌールと同じように思えないってギムリでさえ言っていたんだよ・・」
そう言って、硬い皮膚に皺を寄せ、再びためらいがちな笑顔のようなものを向けてきた。
「だからミーシャをスティグマータから守ろうと決めたのかもね」
そこでミーシャが笑顔を返したそのときだった・・・
「やぁ、実に泣ける話だねぇ」
その突然、大気を震わせるように響いてきた声は、ドイツの訛りが強く感じられるものだった・・・
背中を丸くした、黒衣の貧弱な身体つきの少年が、そこが霧の中であるかのように、壁をすり抜けて
歩いてきたのだ・・・
そのやつれて病的なものを湛えた残忍なその顔は、充分に覚えがあるものだった、ハートマンの糸に
ぶらさがっていた獰猛なその姿に恐怖したではないか・・・
「カーヒナだね」その忙しない慇懃な言葉を聴くまでもなく、ミーシャにはわかっていた、終わったのだ、と・・・
サラブレッドがその唇を片側だけ歪めたような笑顔を浮かべるのを眺めながらも悟っていた・・・
ハートマンに知られている、見つかってしまったのだ、と・・・そのときが来てしまったのだ・・・
その想いを振り払おうと首を振ったそのときだった・・・
ピーナッツがミーシャとその侵入者の間に割って入ったのだ・・・
その少年は嘲けりに満ちた視線をジョーカーに向けて言い放った・・・
ギムリがマッキーの話をしていなかったかい?
誰もがその名をとても恐ろしいものとして口にするんだぜ・・・
Fraction(RAF:破片の意も)の女が切り裂かれたところをお目にかけたかったものだねぇ・・・僕には人並み外れたエースの力があるんだ・・・」
声に満足げな調子を滲ませて、ミーシャににじり寄ってきた、ピーナッツはその手を払いのけようとしたが、突然少年の手が震え始め、叩くような振動に変わっていったそのときだった・・・
ピーナッツの腕から多量の血が噴出した・・・
肘から先は、切り落とされて・・・
床に転がっているではないか・・・
何が起こったかわからないままピーナッツは立ち尽くしていたが、切断面から迸る鮮血を見つめていて、ようやく叫びを上げることを思い立って、それから倒れ付した・・・
叫びに入り混じるかのような振動音を残像から響かせながら、マッキーが再び手を振り上げるのを見てミーシャは叫んでいた・・・
「やめて!」
不思議なものでもみるかのようにミーシャをみやったマッキーの顔に病的な愉悦が浮かんでいる、その表情は、かつて弟の顔に貼り付けられたものであり、アッラーの夢に立ち現れたハートマンの表情にも浮かんでいたものだった・・・
「やめてください」懇願の色をこめて叫んでいた
「お願いです・・私はどこへでも行きますから」
高くかつ荒くなった息を吐き、やつれた顔に雷を秘めた雨雲のような激情を滲ませて、呻くピーナッツを見下ろして、言葉を搾り出した・・・
「くそったれなジョーカーじゃねぇか、皆殺しにしたがってたんじゃねぇのかい、替わりにやってやろうといってるんじゃないか、その方が手が汚れなくていいだろ?」
そこで表情がすぅっと消えうせ、真顔になると、よりその顔の病的な強欲さが際立つことになった。
「お願いですから・・」応えないマッキーに構わず、服の一部を破り、跪いて、それを巻きつけ、血が止まるまできつく縛り上げた・・・
「あなたを嫌ったりなどできるものですか、私にはそんな資格などないのですから・・・」
そこでマッキーの手がミーシャの手に触れたのを感じた・・・振動は収まっているが、その指が痛みで叫びをあげるまで硬く食い込んでいって、そこでようやく言葉を発した・・・ピーナッツを見下ろしながら・・・
「次にギムリに会ったら伝えておいてくれないか・・・Auf Wiedersenアウフ・ウィーダーゼン
(さらば)ってな」
そして再び顔面に笑顔を張り付け、ミーシャを掴んだまま立ちあがらせ、言い放った・・・
「怖がることはないんだぜ、楽しいことさ、愉しもうじゃないか・・」と、その笑いは
ミーシャを砕くに充分のものだった・・・物言わぬガラスの千もの欠片のように・・・