「一縷の望み」その10

木曜午前3時40分

クリスタルパレスの裏通りで、黒い外套を着た巨体が道化の仮面をつけた男に身体を寄せて囁いた。
外套の下の顔はフェンシングの仮面を着けているようだ。
「大丈夫です、上院議員、もはや誰も残っていません……」その幻影のような巨体がさらに言葉を続けた。
「最後の客もひきあげたようですから、、他は店の人間がいるだけで、あとはクリサリスとダウンズがオフィスにいる以外は無人と言えます」
その静かな声は女性のものだった、おそらく今夜はオーディティの主導権をパッティが握っているのだろう。
このジョーカーはかつて三人の人間であったが、三角関係にあった二人の男と一人の女を、ワイルドカードウィルスが一つに結び付けてしまったのだ、その結びつきが不完全なものであり、外套の下の身体が常に、隆起し変異し続けていることをグレッグは知っている。
オーディティの身体は安らぐことはないのだ、一度その下の姿を見たことがあったが、それ(本来複数形の<彼ら>とよぶべきであろうが)は他言を憚られるものだった、パッティにジョン、エヴァンが主導権を争って、変異しつつも、決してそれは安定することはないのだ。
骨は軋み、皮は捩れて膨れ上がり、出たり引っ込んだりを繰り返している。
それは終わりなき苦痛の連鎖であることをパペットマンは知り尽くしている、オーディティは存在それ自体が、パペットマンの求めて止まない感情の坩堝なのだ。
オーディティの世界は、痛みに覆われ、震え慄いていて、その精神は、根源たる、暗く鬱蒼とした憂鬱の中に常に落ちていく。
そんな状態でありながら、力そのものを安定して発揮できるのは驚くべきことながら、その力はカーニフェックスすら凌ぐものであり、モーデカイ・ジョーンズやブローンに並び立つものである。
そしてその忠誠心もまた人並み外れて強いものながら、それはハートマン上院議員にのみ捧げられている。
オーディティは知っている、グレッグが憐れみ深いことを。
グレッグがジョーカーを気遣っていることを。
グレッグこそがレオ・バーネットのような狂信者に対し、理性を訴える唯一の声であることを。
そして何よりも、グレッグだけがオーディティが何者であるかに関心を示し、その長く辛いあらましに耳を貸し、同情すら示してくれたことを。
グレッグはたしかにナットだが、ジョーカーの集団に分け入って、その手を握り締めてくれた、きっと政治公約をも守ってくれることだろう。
だからオーディティはハートマン上院議員の望むことならば何でもしてのけるのだ。
グレッグの中で、パペットマンが期待に浮き足立ちながら愉悦の声を上げている。
今宵はさぞかし芳醇な感情を味わえるだろうから。
パペットマン自体は安全にことを運ぶことにあきあきしているのだろうが、グレッグはそれが必要なことをわきまえている。
その隠された人格を、己の精神の奥底に慎重に沈め労わりの声をかけた。
「ありがとう、パッティ」その言葉に、オーディティの中の他の人格にも喜びが広がっていくのを、パペットマンを通じて感じることができる、彼らもまたその存在を認めて欲しがっているのだ。
「他には残っていないのだね」
オーディティが肯いて応じた。
「ずっと見張っていますが、あの二人の出入りは確認できていません、それで充分なのでしょ」
そこで言葉が聞き取りにくくなった、フェンシングマスクの下の唇がかたちを変えたのだろう。
「ああ、それで充分だとも、感謝するよ」
「感謝の必要すらございません、あなたはただ願い、それを口にするだけでいいのですから……」
グレッグは笑顔を浮かべ、オーディティの肩を叩いて応じると、その触れた手から、その下が蠢いているのが感じられ、おぞましさに身震いしそうになるのを抑えつつ、再び言葉をかけた。
「改めて礼を言うよ、二十分か、そこらで出てくるから」
その感謝の言葉に、オーディティに再び喜びと忠誠心の感情が立ち上るのを感じながら、己の内でパペットマンが笑い声をあげているのだ。
道化の仮面を正しながら、何か呻いているオーディティが脇に控えた、裏口のドアに手をかけると、鍵はかかっていないようながら、チェーンがぶら下がっていて、何とかそれをくぐって中に入ると、
「閉店しましたよ」それはクリサリスの声であり、そこから通じたオフィスに立って物騒な銃を構えているのと、その後ろにダウンズがいるのが見て取れた。
「来るのはわかっていたのでしょ、言伝をくださったのはあなたではないですか……」
努めて穏やかに話しながら、道化の仮面を外した。
パペットとしてのリンクを通じて、恐怖と反抗心の入り混じった、鉄の酸味を思わせる感情が立ち上っているのを感じパペットマンがいきりたっていて、その感情にグレッグは苦笑せずにはいられず、思わず内に向けて言葉を発していた。
何がそんなに不安なんだ
たしかにヴィデオから伝わってくる情報だけでは全てがわかったわけじゃない、
ギムリはヴィデオすら信用してはいなかったし、あの娘も、ギムリとカーヒナの
やりとりを、すべて見ていたわけじゃなかったのだから、
それでも私の頭脳を加えれば問題あるまい

そう常に細心の注意を払ってきたのだ、ヴィデオはたしかに近年稀にみない使い勝手の良い素晴らしいパペットであって、有益な情報源であっても、政府の諜報機関や他の情報源も用いて、直接係わらないようにしてきた、ここで迂闊なミスを冒せば、全てはご破算となるのだ。
グレッグは常に用心深く安全なやり方を模索してきていた、無謀なやりかたに身を浸すというのはどうにも居心地が悪くてならない。
これはあきらかに無茶の領域に属するやりかただ。
それなのに、シリアでもベルリンでも無謀ともいえる道を選ぶよう仕向けられてきたように思えてならない。
「申し訳ない、営業時間に間に合うようこれたらよかったんだがね」
謝罪を匂わせる口調でさらに続けた
「会うのを個人的なものにとどめておきたかったんだ」
これでいい、これで交渉の余地もあると思わせることができただろう、そうやってどこまで知っているか探り出すのだ。
そこでクリサリスが銃を下ろして、その透明な腕の筋肉が伸縮するのが見て取れた、身体を覆うドレスの布地は僅かで、ガラスのように透き通った皮膚の上で、紅く引き結ばれた唇のみが際立ち、浮かんでいるようにすら思える。
そこで「上院議員」と声をかけてきた、
かけひきの感じられるグレッグのあまり好まない口調だった。
「私とダウンズが、何を話そうとしているのかを、あなたはご存知なのではないかしら……」
そこで気持ちを静め、笑顔を浮かべて応じた。
「エースについてでしょう、私がどうでるか見定めているのではないですか、脅迫まがいのやりかたでね」
「いやな言い方をなさるのですね……」
そう言って一歩下がって唇を硬く閉じ、ホラー映画を思わせるその頭蓋に張り付いた瞼をまばたきさせてからようやく言葉を続けた。
「ともかくお入りください」
クリサリスのオフィスは豪奢だった、オークのデスカはピカピカに磨かれていて、椅子には革張りがされ、硬材の床の中央には高価な絨毯が敷かれていて、壁の本棚には、背に金の装飾のあしらわれた本がきちんと並べられている。
グレッグがそこに入っていくと、ダウンズがためらいがちな笑顔を向けてきた。
「やぁ上院議員、一体全体どういう按配なんだい」
グレッグはそれに対し、きつく睨みつけて何も言わないでいると、ダウンズは不平を漏らしつつ、椅子に沈み込むようにして黙っていった。
クリサリスはというと、香水の香りを漂わせながらも、デスクの奥のシートに腰を落ち着け、空いている椅子を示して続けた。
「おかけになって、上院議員、そんなに長くお引止めしないつもりですけれど」
「それは話の内容によるのじゃないのかね」
「あなたがエースであるという話を公表するかどうかを検討したいということです、そうなれば不愉快なことになるでしょうから……」
クリサリスがそうして脅してくるということは、直接実力行使に出る心配はないと見越してのことだろう・・・視界の片隅のダウンズを値踏みするように見やりながらも、ワイルドカードツアーにおける彼の神経質な様子を思い返していた、彼は己の好奇心を抑えきれずにいながらも、額に汗を滲ませて、手を揉みさすりながらもどかしげに身をよじらせている。
クリサリスは落ち着いて見えるが、ダウンズは、そうではないらしい。
パペットマンが舌打ちをして話しかけてきた。
こいつをパペットにしておけば、
今でも遅くあるまい。
いやまだだ、待つのだ、

「あなたはエースなのでしょ、上院議員
クリサリスが何でもないことのように努めて冷静に訊ねてきた。
もはやごまかすことも適わないと観念し、微笑んで応じた。
「答えは<イエス>だ」
「それでは血液検査を偽装したのですね」
「そういうこともあったかもしれないが、もはやその必要もないだろうがね」
「よほどその能力に自信をお持ちのようですね」
グレッグはダウンズからクリサリスに舐めるように視線を移して見定めた、クリサリスには
不確定要素が多すぎるが、ダウンズならば何を考えているかわかるというものだ。
イメージを投影するテレパスか?
タキオンのようなメンタルパワーだろうか?
それならなんとか利用できないものか?

そんなところだろう、グレッグは穏やかに微笑みつつ、そこに乗じることにした。
「ダウンズはまだ掴んでいないだろうけれど」
そこでクリサリスに視線を向けて、ダウンズにむけた効果を狙って話し始めた。
「ジョーカータウンの路地裏で、ギムリの空っぽの皮が見つかったのはそこの住民には周知の事実ながら、私もその関与から掴んでいるのだよ」
もちろんこれははったりと言える、グレッグもそのニュースを知って驚いた(喜びもしたが)くちなのだから。
それでもダウンズの顔色が青ざめるのは確認できた。
「なぜ手を組むようエース能力を振るいはしないのかと考えているのだろ……」
「できないのでしょう、ギムリに起こったこともあなたとは、直接にはですが、係わりのないことのはずです」クリサリスがそう押し切るように言ってさらに続けた。
「ダウンズがどう思っているかは知りませんが、あなたのマインドパワーは、限られた範囲でしか用いることができないのでしょう、だから私たちの意志は安全なままなのでしょうね」
知られてしまっていると?パペットマンの呻きが内に響いていく
殺そう、お願いだ、そうすれば味わうことができるだろ、オーディティを使えばいいじゃないか。
疑っているだけさ、それだけのことだよ

そう応えたが、パペットマンは引き下がらなかった。
何が違うというんだ?パペットに殺させれば、その快楽を味わうことができるじゃないか、そうすればもはや悩みの種も消えるのだよ
ここでやったら後が面倒というものだろう、ミーシャは抑えてあるから心配ないとして、クリサリスは誰に話しているかしれないだろう、ギムリは退場してくれたからいいとしても、ヴィデオの記憶ではもう一人知られている人間がいただろう、そうあのロシア人のことだが、
それにセイラもだろうパペットマンがやっかみの声を入れてきた。
黙れ、セイラは制御できているから問題ないとして、クリサリスはだが、どんな用心をしているかしれないだろうから、その危険を冒すわけにはいくまい
そうやってわずかな間、内の言い争いをしていたが、気を取り直して続けた。
「私は政治家なのですよ、そしてここはフランスのようにワイルドカードが粋といわれるような土地柄ではありませんから、レオ・バーネットのようなジョーカーに対する憎悪を利用しようとする輩とは闘わなければなりません、ゲーリィ・ハートのように風聞でキャリアを袖にするものもありますが、私はそういった事態を招くことを望んではいないのですよ、もしあなたがたのような疑いを微塵でも人々が抱いたならば、私は票を失い、血液検査の偽装を囁き、シリアやベルリンでのことにも疑いを抱くことになる、そうなったらすべては台無しになるというものです」
「でしたらここで手打ちということでよろしいですね」クリサリスはそういって微笑んだのだが、
「それはどうでしょう、まだ問題がありはしませんか」
上院議員、私にも報道の義務というものがあるのですよ」ダウンズはそう言いかけたが、ハートマンの強い視線に気おされ、再び視線をさ迷わせ黙ってしまった。
「エーシィズ誌は今はきちんと認可された雑誌かもしれませんが、私が手を回したらどうなることでしょう。
もちろんベルリンやシリアのことが偶然でなく、
ギムリの子分たちの証言というものを裏づけに、私を追い詰めるということになればどうなりますかな」
そういってドアの方向を見やって、そこに声をかけたのだ。
「やぁマッキー」
ドアが開き、笑みを張り付けたマッキーが入ってきた、全身をすっぽり覆った外套に身を包み、よろよろした足取りの女性を従えて、
そこでマッキーが外套を引くと、女性の肩が顕わになった、服は身に着けておらず、血の跡が滲んでいるではないか。
そして後ろに立って、軽く押しただけで、その女性はカーペットの上に倒れ伏してしまい、クリサリスはそのさまを恐怖とともに見つめている。
「私自身は分別のある人間なのですよ」
そして床に伏して呻いている女性を見つめているクリサリスとダウンズに言葉を重ねた。
「私がお願いしたいことはわずかなのですよ、
どんな物証がでてこようが争う覚悟はありはするし、血液検査の否定くらいはしてのけることは
簡単なことながらね、それでもどんな微かな噂といえども耳にしたくはないし、あなた方二人が有益な情報源である限り、生かしておきたいということです、それだけは信じていただきたい、そしてもし何らかの、そう何らかの噂を耳にしたとしたら、そして私を脅かし攻撃する風潮がかすめでもしたら、そうそれはエーシィズ誌からの火種とは限らないとしても、出所を知るのは容易だということは憶えておいていただきたいのですよ」ダウンズはぽかんとした顔をして、その倒れ伏した女性、ミーシャを見つめ、クリサリスは椅子に深く腰を沈めたまま沈黙を守りつつ、何とかグレッグの方を見据えようとしながらも、適わずにいるようだった。
「ご理解いただけましたかな、私が協力をお願いするのであって、逆はありえないということを……」グレッグはそこにさらに言葉を重ねた。
「あなたがたが沈黙を守る限り安全は保障いたしましょう、それが一番なのですよ、そして私の敵に目を据えて、彼らを止めるよう手を尽くしていただきたい、ギムリやミーシャが抱いていた危惧自体は正しいものでしたね、私は寛容にも危険にでもなれるのですから。
そしてもしそのことをわきまえず、私の大統領選に茶々を入れ、ヒーローになろうとするならば、それはあなた方の責任で行うということを覚悟した方がよろしいでしょうな、もちろん私自身は誰も傷つけも殺しもしませんよ、私自身ではね。
どこにいようとも、私は苦もなくあなたがたの居場所を掴むことができるでしょう、そうなったときは私の敵がどうなったかを思い出すことになるでしょうね」
内で予感に打ち震えながらにやついているパペットマンを感じながら、クリサリスと、そしてダウンズに笑顔を向け、こらえきれずにいる様子のマッキーをハグしてから囁いた。
「もう好きにして構わないよ、楽しみたまえ」と。
そこで冷静さを装いながらも、凍りついたようになっているクリサリスにグレッグは頷いてみせ、それからオフィスを出て、もたれかかるようにそのドアを閉めた。
そこでパペットマンを開放し、あの若者のまぶしい色をした狂気を味わうことにした。
その感情はもはや背中を押すまでもなく膨れあがっている。
ドアの向こうの様子は振動音とともに、パペットマンを通じて感じ取ることができる。
マッキーは跪き、両手でミーシャの頭を抱えた、
クリサリスもダウンズも動けないでいる中、「ミーシャ」と謡うように囁くと、ミーシャは目を開いたが、その瞳は痛みを湛えるのみ、マッキーはため息混じりに呟き始めた。
「すてきなMartyr(殉教者)だねぇ、でもそのかわいらしい口はもうこんな風にさえずれはしないのかな」二人にも聞かせるようにうっとりした口調で、その目は忙しく動いて輝きを増し、その手は傷だらけのその身体のうえをさまよわせながら、さらに続けた。
「聖人というものは、いつも苦痛に沈黙を守るのかなぁ、忌々しいまでな高貴さだねぇ」そうして優しいともいえる笑みをミーシャに向けながらさらに言葉を重ねていった。
「初めてのように扱うのもいいな、切り裂いちまうまえにゃよぉ、どうだい、ミーシャ」
そこでミーシャが、ようやく弱弱しく頭を左右に振るのを目にしたマッキーが笑顔を浮かべ、そわそわしながら、呼吸を荒く激しくしながら言葉をついでいった。
「これじゃジョーカーに悪態もつけないよなぁ」
そこで顔を見下ろしながら言葉を継いだ。
「もう聞けやしないのかな……」
不思議と悲しげにも聞こえる調子で、
Shahidシャヒード*です」
血を滲ませ膨れ上がった唇から放たれたその囁きを、マッキーは屈んで聞き取ってはいたのだが、
アラビア語だな……アラビア語はわからねぇんだぜ」そういい放つや、手を振動させ、叫びながら、その指で腹部をさするようにすると、血が溢れ。ミーシャの耳障りな金切り声が響き渡り、それを耳にしたダウンズが、気分を悪くして嘔吐した。
クリサリスはかろうじて感情を抑制したままでいたが、それもマッキーの手がミーシャの胃の辺りから滑り出すまでのことだった。
湿った音を立て、カーペットの上に腸が撒き散らされたのだ。
そうしてマッキーは、血だまりを前にして立ち上がり、語り始めた。
「汚物を片付けるのはお手の物と上院議員が言っていたっけ、まぁあんたたちは充分にわきまえているだろうがね」
マッキーはそこでかん高く、気違いじみた笑いを放ってから、ブレヒト三文オペラのメロディを口笛で吹き始め、こともなげに出て行った、壁をすりぬけて。



アラビア語で「(真実に対する)殉教」の意。