ワイルドカード7巻 7月21日 午前6時

        ジョージ・R・R・マーティン
         1988年7月21日
            午前6時


ジェイは一度目を開いたがすぐに閉じることになった。
灯りが目にきつく頭がずきずき疼き、瞼の奥の鼓動が
雷鳴のように感じられ、顔の左側に鈍い痛みが
張り付いているようにも感じていた。
口の中には血の味がして、後ろから誰かが両手を
ひっぱっていて、縛り上げようとしているのが
わかった。
そこで立ち上がろうとしたが、腹が重く感じられて
思うようにはならず、痛みも身を苛むように感じられ、
弱弱しい呻きを唇から漏らし、微かに身を捩りながらも、
このまま眠った方がいいのではないかと考えていた。
「聞こえたかね」遠くから呟きくらいの声が聞えてきた。、
「呻いている、意識が戻ったようだ」と返された言葉に、
「こっちに連れてきてくれないか、ジョン」と誰かの声がして、
その声の方は聞き覚えのあるものだった。
まるで子供を運ぶように大きな手で軽々と持ち上げられて、
連れていかれた先の椅子の上に下ろされた。
配慮の欠片も感じられない態度だっただけに、叫ぼうかと
考えていると、
「目を開けたまえ、ミスター・アクロイド」もう一人の声に
そう促され、しぶしぶ目が開こうとしたが、左の目は腫れぼったく
感じられてうまく開くことができなかったがともかく片目を開けると、
死神のような男がそこにいた。
古めかしい椅子に腰かけてこちらを見つめているではないか。
「ダットンだな」切れて血の滲んだ唇をかろうじて動かして
そう言葉を漏らすと、死神のような男は頷いて応じ、
影が覆いかぶさったように感じ、顔を上げようとしながらも、
近くにいながら、なんとオーディティは大きいのだろう、
などと呑気に考えていた。
そしてフェンシングマスクから漏れ出る呼吸音を聞き、
金属の格子の間から落ち着かなげに除く視線を感じつつも、
「あんた、オーディティと面識はないと言ったじゃないか?」
とダットンに抗議の声を上げたものの、
「あれは嘘だよ」とこともなげに応えたダットンの言葉を
聞きながら、ジェイは何か気の利いた言葉でも言い返せない
ものかと考えていたが何も浮かばず、再び目を閉じて、それから
目を開けただけなのに、頭が破裂するのじゃないかと思えるほど
じんじん痛んでならず、「……持ってないか?」そう中途半端に
言いかけて、「痛み止めか何かないかな?」とそう言い直すと、
「ジョン」ダットンはそう言って、
「洗面所に置いてあったアスピリンのボトルを持ってきてくれる
かな」
「放っておけばいいだろう」オーディティは唸るようにそう言い返して
きて、「こいつが痛がろうがしったこっちゃないだろ」とまで言い出した
ではないか。
「気持ちはわからないでもないがね」ダットンは宥めるようにそう言って、
「手を組んだ方がいいかもしれないからね、頼むよ」
その言葉に鼻息荒く応じつつ、事務所から通じた奥にある浴室のドアを
潜ったかと思うと、ガラス扉をバタンと開けた音が聞えた後で、何か
浴槽に水が飛び散るような音も聞こえてきて、
「申し訳ないですね」ダットンはそう言って、「どうもジョンの気性の
荒さが表にでているようでしてね。どうやら彼はあなたがお気に召さない
ようです」
そうダットンが言ったところで、オーディティが片方の手にアスピリン
錠剤を抱え、もう片方の手で水の入ったグラスをもって戻ってきた。
オーディティの持ってきたアスピリンは半ダース程で、それを口に
放り込まれてから、水をあてがわれ、ジェイはそれを飲み込んだものの
咳き込んでしまって、オーディティは露骨に嫌な顔をしながら立ち上がり、
ジェイのその姿をみつめていた。
このジョーカーの水を持った方の手、右手は大きくごつごつしていて、
手首辺りは毛で覆われている。
もう一方の左手はそれに比べると小柄で華奢な女性を思わせるもので、
爪先は長く尖っているようだ。
そして薄く暗い色の服の下には胸の膨らみを思わせる隆起もあるでは
ないか。
ジェイがそんなことを考えながら、「ありがとう」と口に出すと、
Fuck youくたばりやがれ」と悪態が返されてきたところで、
ジェイはダットンに視線を向けると、
「俺の来るのがわかっていたみたいじゃないか?」
そう言葉をぶつけていた。
勿論これはわかりきっていたことだから、言わずにはいられなかった、
というのが性格なところだが。
「あなたやその類の人間がという意味ではね」ダットンはそう応え、
「バーネットは裏切りの対価にいくら支払うと言ったのですか?」
ジェイはその言葉があまりにも予想外のものだったものだから、
「バーネットだって?」へどもどしつつそう訊き返しながら、
「どこのどいつのことを言い出すやら」とぼやいてすらいたのだ。
「私の忍耐とて限りはあるのですよ、ミスター・アクロイド」
ダットンは心底うんんざりした様子でそう言って、
「あなたがたエースというものは、ジョーカーにはまともな知能が
ないか幼いという風に考えているのではありませんかな?
私をみくびらないでいただきたい」
「俺の知る限り、あんたが最も頭の切れる御仁だと思っちゃいるがね」
ジェイはそう言いつつも、
「だがこの件に関しては間違っているよ」
「私がかね?」ダットンはそう応え、
「それではどうしてここにきたというのです?」
と言葉を被せてきたではないか。
ジェイは少し迷いはしたが、
「あのジャケットは本物なんだな?」と率直に口にだすと、
「そうです」ダットンは意外にも黄色い顔の落ち窪んだ眼を
暗くさせつつもそう応え、
「クリサリス自身がそうするよう仄めかしたものですからね」
「アイディアは拝借したというわけだな」ジェイはそう言って、
「確かに数多の観光客が毎日目にするところにあったら普通は
レプリカだと思うだろうな。隠すには悪くないやり方だ。
確かにクリサリスも隠し通せとは言ってなかっただろうから」
「まぁそんなところです」ダットンはそう言って認めつつも、
「私にも些かの矜持はありますからね。あの方はもうこの世の
ものではないのですから、そこは私の判断で行ったということ
にしといていただきたいもので」
「俺達の判断だ」オーディティがそう言って口を挟んできた。
「俺達がそうしようと言ったんだ。あの夜、あんたが帰った
後だった。お前達エースはジョーカーにはたいしたおつむは
ないと思っていたかもしれんが、うまく出し抜けたものだろ」
「あんたにハートマンの何がわかるんだ?」ジェイはオーディティの
言ったことを取りあわずダットンにそう言葉を向けると、
ワイルドカード持ちということでしょう?」ダットンはこともなげに
そう言って、
「だからなんだというんです?ジョーカーにとって最後の希望で
あることに変わりはないというものです。そうですね、確かにあの人は
我々を欺いていたかもしれない。だけど今の政治状況では他に選択の
余地などないというものです。もちろん世間の風向きはワイルドカード
持ちということになれば冷たくなるというものでしょうけれどね。
ウィルスがハートマンを我々の一人にしてくれたなら、むしろそれは
歓迎すべきことではないでしょうか。
レオ・バーネットはそれが面白くないからジャケットを使ってあの人を
引きずり降ろそうとしているのでしょうね」
「俺は、レオ・バーネットに雇われているわけじゃない」
ジェイがそう言いかけると、
「嘘だ」とオーディティが昂奮して言葉を被せてきて、
「グレッグは破滅させるための金をナットから受け取ったんだろ?」
とまで言い出してきた。
「嘘は言っていないよ」ジェイはそう応え、
「ハートマンはエースで人殺しなんだ。あの男は……」
オーディティの反応は思ったより早く、ジェイは髪を
掴まれて椅子に叩きつけられ、歯がぐらつくような衝撃を感じていると、
「黙れ!ジョーカーの味方はグレッグしかいないんだ」
ジェイは切れた唇から血の滲むのを感じながら、それを
フェンシングマスクに向けてごぼごぼ飛びちらかしつつ、
ともあれダットンに矛先を向けることにした。
「そこに座って我関せずを貫くつもりか?俺は人間で
牛肉の塊じゃないんだぜ」と声をかけると。
「私が相手しますよ、ジョン」ダットンはそう言って、
「どう言い逃れするか気になっていますからね」と言い添えると、
オーディティは髪から手を離して、椅子からも離れていった。
そこでどうもオーディティの身体が震えているようだと感じて
いると、左手の指が薄くなっていったかと思うと、胸も見るからに
縮んでいったようだった。
「俺はレオ・バーネットのことなど知りもしないがね」
ジェイがそう言葉を切りだすと、
「金で雇われているエースなのではありませんか?バーネットに
個人的に雇われているのではないかと疑っているのです。
あの男の個人的意向で動いていると。
そうでなければどうしてあのジャケットを欲しがるでしょうか」
「あのジャケットがあったからクリサリスは殺されたのじゃ
ないだろうか?」ジェイはそう応え、
「言いたかないが、どうもクリスマスの七面鳥になった気分だな。
ジョーカーの英雄と祀り上げられている御仁は真綿で首でも絞めて
いるつもりかな」
「そんなつもりはありませんよ」それはオーディティの声だった。
以前より穏やかで、紛れもない女性の声だ。
それに今では左腕は丸みを帯びたかたちに落ち着いていて、右腕の
指は長くなって滑々になりながら、肌の色自体はチョコレートを
思わせる茶色に変わりつつあるようだ。
「私達にはクリサリスに危害を加える理由などありはしませんよ」
「グレッグ・ハートマンがそれを望んだらどうだろう?グレッグ・
ハートマンを特別に感じているなら、何でもするというものだろう?」
ジェイがそう言い放つと、
「グレッグは善人ですよ」そう応えたオーディティの声をジェイが
些か弁解じみたものだと思っていると、
「だとしてもオーディティにはクリサリスに手をかけることなど
不可能でしたよ」ダットンはいかにも平静を装いながらそう応え、
「美術に対する造詣をお持ちならば、エヴァンの彫刻に対する力量と
いうものがおわかりいただけるでしょうね。ひとたびこの男が手を
かけたならば、粘土であろうと青銅であろうと大理石であろうと、
そして蝋であろうとも違いはなく素晴らしいものに仕上げることが
できるのですからね。
確かにパッティとジョンにはそういった素養はありませんから、
エヴァンの精神が安定して、少なくとも手だけでも使える短い間に
限られてはいますがね。
そうなったときには、昼であろうと夜であろうとここに来て、作業に
打ち込んでいるのです」ダットンはさらに悲し気な顔をしたかと思うと、
「あの殺しがあったまさにその時間も、ここにいて新しい美女の姿を
作りあげていたというのを、あなたはどう解釈いたしますか?」
ジェイは突然目の奥の痛みが深くなったように感じながら、さっさと
家に帰って落ち着きたいと願いながらも、
Shitなんてこった」と呻きつつ、
「それじゃハートマンは誰か別の奴を使ったんだろうな。カーニフェックスだか
ブローンだか、ダグ・モークルだか知らんが、誰か他の奴を」
「どうやらおわかりいただけたようですね。アクロイド」
ダットンはそう言って、オーディティに視線を向けると、
「どうして最初からそのことを話さなかったのですか?パッティ」
そこでオーディティはジェイに視線を向けてきた。
その動きから女性的なところが薄れてきたと思っていると、
「ジョーカーがクリサリスに手をかけることなどありえない。
あの方は俺達の仲間だ。殺した奴はバーネットがさし向けたに
違いない。ジャケットを探していて、クリサリスから何か秘密を
訊きだそうとして、誤って殺したのじゃないだろうか?」
「だとすると」ジェイもそう返し、
「そいつは誰だと思うね?」と言葉を向けると、
「確かなことはわからない」そう応えたオーディティの声は甲高い
ものになっていて、かたちを変えた身体から絞り出された叫びの
ようだ、と感じていると、
「クオシマンかもしれん。単純な思考の持ち主ながら、バーネット師父に
命を助けられたと思い込んでいるようだから……」そこでオーディレィは
宙をかきむしるような仕草をしたかと思うと、それは男性を思わせる腕に
変わっていて、爪もするすると短くなっていた。
「さもなくば金で雇われたエースだな、つまりあんたのような」
「それじゃあくまでクリサリスはハートマンを庇って殺されたと
言い張るのか?あの男がジョーカーの味方だから殺されたとでも?」
ジェイはそう言い返して最初にダットンを、それからオーディティに
視線を向けて、
「だったら教えてもらおうじゃないか。もしあの方がそこまで
ハートマンの秘密を隠し通そうとしていたなら、そもそも何で
あのジャケットを処分しないでいたんだ?」そこでダットンは
その黄色い顔に張り付いていた冷笑めいた表情から露骨に嫌な
感情をこめた表情をしつつ、
「そこは私も気にかかっていたところです」そう応えると、
「とはいえ我が提携者どのの意図というものは汲み取り難く、
その動機ともなるとさらに掴みがたいものでしたが……
おそらくあの方なりの思惑はあったのではないでしょうか?」
「アノジャケットは命綱といったところかな」ジェイはそう応え、
「殺された以上、うまくいかなかったということになるだろうが」
と言葉を添えると、
アトランタで何が起こっているというのでしょうね?」
ダットンは思案しながらそう言葉を被せつつ、
「数多のジョーかーがハートマン支持を表明して平和的なデモと
でも言うべき行動にでていると聞きますがね。
街のごろつきやら、人種差別主義者や警官達の格好の標的に
されているとか。
昨日などは制服を着た集団による発砲沙汰にまで発展したようですから、
バーネットが選ばれでもした暁には、あの男は善意だと言ってジョーカー
取り締まりを法制化して、喜んで我々を収容所に叩き込むことでしょうね。
だからこそこの国にはジョーカーの虐殺を防ぐ最後の希望がグレッグ・
ハートマンだと考えている人間は少ないということですよ」
ヒトラーさえ民主的に選ばれたというからな」ジェイがそう応えると、
ダットンはため息をつきつつも、
「どうやら話しても無駄なようですね。残念ですが、あなたが誰に
雇われているにしても、もはや手遅れというものですよ、ミスター・
アクロイド。歴史の証人ともいうべきものを無くしたくはなかったの
ですがね。残しておいたリスクの方が大きいというものでしょうから。
戻って依頼主に伝えるといいでしょう。
全て終わった。ジャケットは焼き捨てられたとね。」
「灰は灰に、というわけだ」オーディティはそう言って、
「これでグレッグの弱点はなくなったということだ」
「もはや血の呪縛は解かれたのですから……」
そこでダットンは一端言葉を区切って、さらに
厳かに言葉を続けていたのだ。
「神の情けあらばこそ、グレッグ・ハートマンは
アメリカの次期大統領になるということです」と。