「一縷の望み」その4

月曜午後2時30分
弟の声を思い出す、ヌール・アル・アッラーはまだミーシャがカーヒナと呼ばれていたときに、その雄弁な声で死後の苦しみについて語っていたではないか・・・
ミンバルから響くその力強い声は、バディア・アッシャームのモスクにこもる午後の熱気を加え、聞くものたちに、その後ろに地獄の蓋が口を開けているようにすら感じさせたものだった・・・
ヌール・アル・アッラーの語るその地獄は、その罪によってワイルドカードウィルスに感染する呪いを受けた、忌まわしき罪人たち、すなわちジョーカーで満たされているのだ・・・
彼らの姿は、罪人たちを待ち受けている、永遠の苦しみを体現しており、その捩くれた姿は、なまじっか人の姿をとどめているだけに、よりその地下の煉獄を忌まわしく感じさせた、そしてその顔には憎悪と嫌悪、そして罪が塗りこめられておりみだらさが滲んでいたのではなかったか・・・
ヌールが知ることはなかろうが、ここジョーカータウンこそがその地獄ではなかろうか、そして6月の午後、ルーズベルトパークで、サタンその人による饗宴の幕が上がる・・・
その指に結び付けられた糸で人々を操る悪魔が白昼夢の中の幽鬼のごとく、その支持者たちの前に姿を現すのだ・・・
その男、ハートマンの糸によって、ミーシャはその手で弟の声を亡きものにしてしまったのだった・・・
それなのに、新聞や報道は、その混乱におけるハートマンの冷静さを称え、彼のジョーカーの苦しみを終わらせようとする活動に同情と賞賛を寄せている・・・
この公園に押し寄せる数千人の人々は彼に会いに来た、というのだろう、そして口々に、憎悪と狂信に満ちたレオ・バーネット一派に対するたった一人の正気の声だとすら語るのだろう・・・
それでもアッラーの夢は、ハートマンの真実の顔を明らかにしてくれている、そしてアッラーはこの手に彼奴を失脚させるに足るGift恵みを託してくれさえしたのだ、だがもしそれを振るったならば、この場は彼らにとって阿鼻叫喚の悪夢に塗り変わるのだ・・・
ミーシャがそう叫びだしそうになる己を抑えていると・・・
「大丈夫?震えてるようだけど」
ピーナッツが腕に手を添えてそう気遣ってくれたが、その歪な指の、角ばった感触に思わず、身を引いて手を振り払ってしまっていた・・・
気がついたときにはもう遅く、その甲殻類の殻を思わせる顔に埋もれたその瞳から、痛みと呼べる感情が伝わってくる・・・
「あなたは居残りじゃなかったの・・ギムリはそういっていたみたいだけれど」そう言葉を振ってみた。
「心配ないよ、ミーシャ」そう囁いた声は、人形遣いの甲高い声を思わせるものだった・・・
「あまり見栄えがよくないから、僕やスティグマータはね・・だからだよ」
その話はミーシャの胸に微かな痛みを感じさせ、ヴェールを引いて己の顔を隠し、ピーナッツにその感情を感じさせないようにしたい気分にさせたが、今はチャドルもヴェールも身に着けてはいない、トランクの中にしまってきたゆえ、顔を隠すすべはなく、髪すらも肩に垂らしたままになっているではないか・・・
「ニューヨークに着いたら、黒衣はいけない、夏の日中にそれでは、ここにいると知らせているようなものだから、けれどそれさえ気をつければ、好きなだけ出歩くことができるだろう、ギムリはそれに対していい顔はしないだろうがね・・」
ヨーロッパで別れた際にポリアコフが言ってくれた言葉だった、彼なりのちょっとした手向けに違いない・・・
たとえ夜であろうと、ここルーズベルトパークで目立つことは命取りになるとギムリは言っていた・・・
ここはジョーカータウンの混沌と脈動を乱暴にグラスに注ぎ込んだような空間であり、一端堰をきったら、76年の二の舞になるというのだ・・・
そこでは普段被っているマスクは拭い去られており、彼らの明確な罪の証であるところの、アッラーの呪いをひけらかしすらし、北の端がジョーカータウンと隣り合ったこの公園で、ナットとその歪んだ肩を並べさえしている・・・
そしてスピーカーからは友愛と団結を促す声が流れてすらいるではないか・・・
ミーシャはひたすら耳をすまし、視線をそらしていたが、なぜか再び身体に震えが走り始めた・・・
午後の陽気は暖かく、他のものには夢見心地であろうというのに・・・
「そんなにジョーカーが嫌なのかな?」
ピーナッツが少し離れてステージ側に移りながら、そう囁いた・・・
下に視線を移すと、ぬかるんだ地面に踏みしだかれた草、新聞やスローガンの入ったちらし等が
乱雑に散らばっているのが目に入ってきた・・・
罪と汚れ自体が折り重なって込み合っているようにすら感じられ、嫌悪を感じずにはいられなかった・・・
やはりここは煉獄なのだ・・・
「そういやシュラウドが、君の弟もバーネットとさほど変わりはしない、と言っていたけど・・・」
「私たちの、いえ聖典の教えでは、神がすべてを決めるとされています・・・
正しきものはそれが報われ、邪まなるものは罰せられると、それは道理というものでしょう、あなたがたは神を信じないのですか?」
「それはそうかもしれないけれど、少なくともウィルスをばらまいたのは神じゃないし、それは罰じゃないんじゃないかな」
カーヒナとして瞳に暗いものを宿し、厳粛にうなずきながら答えた。
「それならば、罪もなく、弱く憐れな人々に、痛みと苦しみに満ちた人生を与える他の神がいるということになりますね、そんなものを認めたいのですか?」
そこで初めてピーナッツの瞳に、明確な反感が見て取れた、どんなに親密にふるまうことができようとも、ジョーカーであることに変わりはないのだから・・・
そう考えていると、彼は歪な両腕を持ち上げて、
肩をすくめてみせようとした、その瞳は涙でをあふれているではないか・・・
「だとしても、それは僕たちのせいじゃないよ・・」
その痛々しい様子に、同情する気持ちが溢れ、再びヴェールのないことを悔やまねばならなくなった・・・そうして己に言い聞かせた・・・
たしかタキオンだか誰かが言っていたではないか・・・
ウィルスは感染者自身の欠点や弱さを増幅すると・・・
それは感染者自身の本質に他ならないのではないか・・
と・・・
そこで息を整え、己の肩に手を添えて、その罪深さに指を震わせながら、それに気づかれないよう言葉を搾り出した・・・
「許してほしいの、ピーナッツ・・かなり酷いことを言ってしまったわね、これじゃ弟とおんなじね、弟はいつもこういった過激なことを言っていたものだから、できたら忘れてほしいのだけれど・・」と・・・
そこで鼻にしわを寄せ、そのごつごつした顔を歪ませて、笑顔のようなものを浮かべてピーナッツは答えた。
「いいんだよ、ミーシャ」労わりに満ちた言葉でありながら、そこには微かな痛みを滲ませている・・・
そうしてステージをみやりながら、そのごつごつした身体から歓喜を滲ませて話題を変えてくれた。
「ほら、ハートマンだよ、どうしてギムリやあなたは彼を悪くいうんだろう、僕たちに手を差し伸べてくれるのは・・・」
そこでピーナッツの言葉は遮られた・・・
人々は拳を握り、天に向かって突き上げ、喝采を叫んで・・・
そうしてサタンがステージに姿を現したのだ・・・
周りの人間にも見覚えがあった・・・
あの常軌を逸した色の服を着ているのがDrタキオンで、あの丸々と太った男はハイラム・ワーチェスターで、たしかカーニフェックスと呼ばれていた男もそこにいる・・・
上院議員の横には女性が一人いる、だがそれは夢に度々出てきたセイラではなかった、ダマスカスで声を交わしたことのある女性だ、確かエレンといって、彼の妻ではなかったろうか・・・
ハートマンが笑顔を浮かべ、首を振ってみせると、ようやく歓喜の声は止んだが、手を上げて見せると、その前に倍すると思われる歓呼が巻き起こり、それは摩天楼から西の端にまで響くようにすら思われた・・・
そうして雑然としていた声は、ステージの近くから巻き起こった一つの言葉にまとまって、公園全体に響き渡った・・・
「ハートマン!ハートマン!」と・・・
彼らは皆ステージに向け叫んでいるのだ。
「ハートマン!ハートマン!」
その声に笑顔を向け、信じられないといった感情を滲ませて首を振ってから、マイクロフォンのバッテリーの様子を確認するよう近寄ってみせた。
その声は、深く聞き取りやすく、そこにいる人々に対する労わりに満ちている・・・
まるでミーシャの弟の声のようだ、彼が言葉にしたとき、その言葉は真実となったのだ・・・
「なんて素晴らしいお歴々だろうね」その言葉に答えるように、人々の咆哮がハリケーンのように巻き起こりミーシャの耳を圧し、ジョーカーたちがステージに押し寄せようとする流れに抗う術すらありはしなかった・・・その詠唱を思わせる歓呼の声は長く絶え間ないものであったが、彼が再び手を上げたことでようやく静まって、そこにハートマンの声が重なっていった。
「政治家というものは搾取するものです、そういう意味では私も例外ではなかったかもしれません・・」
そこで一端区切ってから再び語り始めた。
「政争から離れ、世界に目を向けてきました、そこには恐ろしい現実というものが私たちを待ち受けていたものでしたが、帰国してみたらどうでしょうか、他で目にした人道に反すること、同じ頑迷さ、同じ狭量さがここにもあるではありませんか・・・もはや政争どころではない、安全なところで口だけをだしている場合ではない、いや安全な場所などありはしないのではないのか、政治というものは本来危険と隣り合わせではなかったのかと・・」
そこで一息つく音を効果的に響かせてから、再び語り始めた・・・
「11年前のあの日、私はここルーズベルトパークの芝の上に立ち尽くしていました、そうして考えていたのです、今でも考えずにはいられません、どうしてあんな過ちを犯してしまったのか、と・・・
それに対してまことに申し訳なく思っていることは神かけて誓えますが、こころを失った、むき出しの暴力というものを目の当たりにして、そこに憎悪と偏見が沸き立つさまを目にして、
私は己を失ってしまった・・・Madいかれて・・しまったんだ」
<Madいかれて>の一言を叫ぶように強調すると、ジョーカーたちもその言葉を肯定するように叫び返してきて、それからその喧騒が静まるまでじっと待ってから、暗く悲しげな声を重ねてきた。
「ジョーカータウンの人々はマスクを着けているものが多いことで名高い、それはワイルドカードの引き起こした醜さという名の傷を覆い隠すためのものでしょう、同じようなマスクに覆われたものたちの声を、リオの共同住宅南アフリカKraalクラールに、シリアの砂漠でも耳にしましたが、彼らは何の迷いも、後ろめたい様子もなくこう言ってのけたのです・・・
憎しみを向けられたものには、憎しみで返す権利がある、と、それはどこに行っても変わりはしなかったものです、それはときに黒人であり、ときにユダヤ人であり、そしてときには・・・
ジョーカーの姿ですらあった・・・」
最後のジョーカーという名を強調した言葉に、怒りを向ける人々の獣を思わせる咆哮にミーシャは身震いしながらも、その声が穏やかならざるヴィジョンのように感じられ、爪で顔をかきむしってその影響を阻止するよう努めた、右側に目をやると、ピーナッツが首を伸ばして、ハートマンの声に同意の叫びを挙げているではないか・・・
「この連鎖を繰り返してはならない」
そうして続く声は、しだいに大きくなり、しだいに速さを増しながら、人々の感情を高めていった・・・
「ただ見ているべきではなかった・・それ以上のことが必要とされたというのに・・・
それから人の根底に潜む憎悪と狂気の多くを見聞きし、そうして悟らざるを得ませんでした・・・
もはや声を潜めている場合ではないと・・・
私は怒りにまかせ、彼らのマスクを剥ぎ取り、その下に潜む、隠された醜さ、すなわち憎悪を顕わにすべきだと結論するに至った・・・
この国とそして世界を脅かす害悪に対し、その感情を沈めるに足る唯一の方法をとるべきなのだと・・・」
そこで言葉を区切り、公園にひしめくすべての人々が、呼吸を整え、おちつくのを待っているようであり・・・
そしてミーシャの震えはとまらなくなっていた・・・
これはアッラーの夢と同じなのだ・・
彼もまたアッラーの言葉を操るものなのだ・・

「まさに吉日といえましょう、私は上院議員の職と、SCARE(上院エース資源有効活用委員会)の代表の席を辞することにしました・・新たな仕事に専念するためです、それにはあなたがたみんなの助けが必要となるでしょう、私はここに1988年の民主党代表大統領候補選に出馬するつもりであることを皆にお知らせしたい」
彼の言葉は、人々の巨大な歓喜のうねりと、喝采の叫びに飲み込まれ、人々の手や身体に阻まれて、もはやまっすぐハートマンを見ることすらかなわなくなっていた、靄がかかったように考えることもできなくなっており、大きな音、歓呼や手を打ち鳴らす音が耳をかきむしり、ハートマン ハートマンと叫ぶ喝采が再び巻き起こって、ジョーカーたちが拳を振り上げ、その熱狂はさらに高まっていく・・・
ハートマン!ハートマン!
煉獄というものは騒音と混沌に満ちているという・・・
その歓喜と喜悦の中に、ミーシャ自身の憎悪すら溶け崩れていくのを感じながら・・・横にいるピーナッツが他のものと同じように歓呼しているのを見て、ようやく絶望と嫌悪の感情を呼び戻すことができた・・・
嗚呼アッラー、このヌールをも凌駕する強い力に対する、正しき道をお示しください、信仰は報われるのだとお伝えください
そう願ったが夢による啓示は下りはしなかった、
ただサタンを称える獣じみた咆哮が耳に届くのみ・・・
まだ始まりにすぎないのだろう、今宵彼らに会い、悪魔を倒す方法を決めればいいのだ、
そう己に言い聞かせることしか・・・できはしなかったのだ・・・悪魔の調べの中で・・・