ワイルドカード4巻「背負いし獣」その1

                背負いし獣  

                ジョン・J・ミラー


           妬み、憎悪、そしてMaliceマリス(悪意)、
           誰しもがそれら悪徳を持ち合わせている、
           いや背負わされているのやも......

           〜Litany、リタニー、祈りの言葉より〜


性器が発達しておらず、男性として機能していないにも係わらず、
Mount依代(よりしろ)たちはかの者を男性として知覚している。
矮小で衰えた身体ゆえ、女性というより男性に思われるのやもしれない。
己は開かれざる書物とかの者自身は言う。
尋常の手段で他に交わることなく、尋常の名を持ちはしないが、民間伝承
においては、依代からTi Maliceティ・マリスと呼ばわれることもあるが、
何と呼ばれようが、それが畏怖を伴っていればそれでよいのだ。
目が光に対し、過度に敏感であるため闇を好み、齧る歯もなければ、
味わう舌もないゆえ、けして食べることもない。
原初の胃は消化することもかなわぬゆえ、アルコール(酒)を飲むことも
なく、性交などはもってのほか、
それでもグルメにヴィンテージワイン、高価なアルコール(酒)、そして
性的興奮を味わうことはでき、それらすべては依代がもたらしてくれる。
それでも常にそれ以上を求めてやまないのだ。

                  ⅰ

ジョーカータウンのスラムにバーを経営し、そこに住んでいるのだから、
クリサリスは貧しさも、その哀れさも見慣れてはいる。
それでもそこは最も豊かな国のスラムにすぎない。
ハイチの首都、Port -au-Princeポルトープランスの河岸に広がる
スラム地区Bolosseボロスは最も貧しい地域の一つであるといえよう。
病院は外から見ると、B級ホラー映画に出てくる18世紀の異常な精神病院の
ようで、壁の敷石は崩れ、そこに至る歩道脇のコンクリートも剥がれ落ち、
建物そのものにも鳥の糞に積年の汚れが染み付いていて非常に不潔で、
最悪な状況が一目で見て取れる。
壁の塗装も落ちて、白カビにまみれて抽象模様のよう、そして剥き出しの床が
不吉に軋み、ハーレムハマーと呼ばれている450ポンドのエース、モーデカイ・
ジョーンズが、そこを踏み抜き、もしハイラム・ワーチェスターが咄嗟に彼の
体重を10分の1に軽減していなければ、まっしぐらに転落していたであろうし、
そこから立ち上る臭気は地獄からのそれを思わせ、死を連想させる。
ことに最悪なのは患者そのもの、とくに子供たちは、汗と尿とカビの匂いにまみれた
マットに不平一つ言わずに横たわり、彼らは栄養失調のまま放っておかれている、
それはアメリカではすでに絶えた疾患の見本のように思われてならない。
そして何よりたまらないのがその瞳だ、闖入者たちを見つめるそこには好奇心
どころか認識すらしておらず絶望のみを湛えているのだ。
ジョーカーになるのは最高のジョークだと人は言う、確かにワイルドカード
ウィルスがかつて美しかったこの身体にしたことは呪わしくてならないが、
それでもここにいる苦しみの方が耐え難く、それよりましと最初の病室を
見てから、他はすべて通り過ぎ、待っていた車に戻ることにした。
ジープのドライバーは初めは不思議な顔をしていたが、何も言わずにいると、
他のメンバーが戻ってくるまで、ハイチ系Creoleクレオール(混血の白人)
を思わせる妙に調子外れで陽気な歌を口ずさみ始めた。
南国の陽は熱く、焼け付くその光から繊細な皮膚を保護するには、頭巾や
外套を掻き集め、身をすべて覆わなければならなかった。
廃れた病院の前の通りには子供たちがたむろしているのが見える。
背中に汗が滴り落ちるのを感じながら、肌を自由にさらして涼しい
顔でいる子供たちが妬ましくすら思える。
どうやら路面の下の排水路から何かを吊り上げようとしているらしい。
おそらく禁止されているにも係わらず、汚れたカンか何かを降ろして
水を汲み上げ、それを口一杯含み飲もうというのだろう、それがわかった
ときにはかつての自分を思い起こすと、もはや妬ましいとは思えなく
なっており、そこから視線を外し思いをはせた。
この旅に参加したのは間違いだったのではないか、と思えてきたのだ。
たしかにタキオンから、誘われたときは好機とも思えたし、国費で
世界旅行ができ、なおかつ影響力のある重要人物たちに近づくこと
ができるなら、それもいいと思え、なおかつ興味深い情報でもいか
ほどでも得られるなら、とそのときはそう思えたのだが、
「嗚呼愛しい人、私とて同じものを目にしたなら、胃が悲鳴をあげた
ことでしょう」
ジープの後部座席、クリサリスの隣に割り込んできてそうまくしたてた
ドリアン・ワイルドにかたちばかりの歪んだ笑みをむけざるをえなかった、
詩人と気のきいた会話を楽しむ気分にはなれなかったのだ。
「そんな扱いを受ける価値などありはしませんよ」
Drタキオンにハートマン上院議員、ハイラム・ワーチェスターに他の
政治家や重要と目される人々がリムジンに向かう一方、ジョーカー達
が薄汚れがたがたのジープに流されるように向かうのを横目にしながら、
流暢なイギリス風アクセントで返した。
「あなたにはその価値がありますよ」
明らかにクリーニングもプレスもされていないエドワード調の衣装に
身を包んだ大柄な男が繊細なものいいをしている、そしてきつい花の
香りを漂わせているではないか、ジープがいわばオープンカーである
ことが実に喜ばしく思えてならない。
そしてその男が、左手をものうく振って、右手をジャケットのポケット
に差し込んだまま大仰に語り始めた。
「ジョーカーとはいわば世界に散らばったNigger黒人のようなもの」
そこで一端唇を引き結んで運転している男に視線を向けた。
運転している男はハイチ住民の95パーセントを占める黒人だった。
「この島を率直に申せば・・」そういいかけたところでジープが
カーブをきって、車体が揺れて、前のシートを掴まなければならなく
なったが、いい具合に話自体を遮ってくれたといえよう。
フードの下の顔に感じる大気が涼しくなっているとはいえ、身体全体は
汗まみれであり、冷たい飲み物に、一風呂浴びることを夢見ずにはいられ
ない。
そうしてポルトープランスの狭い曲がりくねった道を進んで、ようやく
ロイヤルハイチアンホテルに辿り着くと、早くロビーに行って涼もうと、
止まるのも待たずに駆け下りたところ、たちまち懇願するような瞳の
一団に囲まれた、その早口にまくしたてるハイチ系クレオール語
何を意味しているのか理解できはしなかったが、ぼろぼろの衣服にやせ
衰えた身体に必死な瞳を見ればそれで充分というものだろう。
物乞いの一団の薄く棒切れのような腕と懇願する声は高まり、ジー
の反対側に追いやられてしまい、僅かな憐憫は恐怖に置き換わった
ところで、運転手の男がジープのダッシュボードの下から箒の柄の
ような鞭を取り出して、クレオールの言葉で早口に叫ぶ物乞いたち
の前に立ちふさがり、そこで振り下ろされた最初の一撃で上がった
悲鳴は、棒切れのような腕の若い少年のものだった。
そして再び彫りの深い年老いた男の呻きが聞こえ、三人目はなんと
かかわしたようだったが、再び打ち据えようと振り上げているでは
ないか、普段装っている用心深さは突然湧き上がった怒りにとって
代わられ、運転手の男の前に立ちふさがり叫んでいた。
「やめなさい!やめて……」その咄嗟の動きで頭巾がずれ落ち、
顔をささらすことになってしまった、そう今の素顔を。
肌は気泡の一切ないガラスのごとく透明であり、その下の頭蓋と
顎に絡みついた筋肉が透けて見え、唇のみが色を持っている。
その赤黒い頭部の眼窩に青く浮かぶ眼球は、空の欠片のようだ。
運転手の男が息を飲み、物乞いたちの哀願は恐怖にとってかわられ、
沈黙のみがその場を支配した、まるで透明な蛸が、その触手で彼らの
口をふさいだかのように。
まるで心臓の鼓動も聞こえるような沈黙の中で、一人の物乞いが、
優しく驚きに満ちた声で、一人の名前を囁いた。
「マダム・ブリジット」と。
その言葉は祈りのごとき囁きとなって人々に広まってゆき、他の車に
群がっていた物乞いたちまで、首を吊り上げクリサリスを一目見よう
とし、畏敬と驚き、そして怖れが入り混じった視線に圧倒され、
ジープを背に立ち尽くしていると、運転手の男が早口で何かを
まくしたて、棒を振る仕草をしたところで、ようやく固まった
ような呪縛はとけて、人々は散らばりはじめたが、
それでも畏敬と怖れの入り混じった視線の感触自体はけして消えは
しなかった、そこでようやく運転手の男に目を向けた。
背が高く、痩せぎすで身になじまない青いSerge
セージ(あや織り)のスーツを着込み、襟元を大きく開いている。
そこで彼はのっそりと振り返り、クリサリスに顔を
向けたが、濃いサングラスで視線を隠し、表情は
うかがうことができない。
「英語を話せますか」そう率直に尋ねてみた。
Ouiウィ(はい)少しなら」
その早口な口調には恐怖が滲んでおり、その理由を突き止めたくなった。
「なぜ彼らを打ち据えたのですか?」
そう尋ねると彼は肩をすくめて答えた。
「物乞いなんてのは社会の屑ですよ、田舎からポルトープランスに出てきては
あんたのような裕福に見える人間にたかる、だから散らしただけで」
「それで声を荒げて大きな棒を振るう必要があったと……」
ジープの後部席からワイルドが冷笑を含んだ口を挟んできたではないか。
そこでクリサリスはワイルドを見据え言葉を返した。
「あなたは大口のみを振るうのですね」
あくびをかみ殺し「街中で争うつもりはないのでね」
などとぬけぬけというワイルドを眼中からしめだし再び運転手の男に
視線を戻して尋ねた「誰なのですか」ようやく本題に入れる。
そしてさらに言葉を重ねた「マダム・ブリジットとは?」
そこでハイチが2百年前に政治的に独立を果たしたはずのゴール人(ガリ
とも言う、フランスの先住民族)気風を滲ませた仕草で肩をすくめて答えた。
Loaロアです、バロン・サムディの妻ですよ」
「バロン・サムディとは?」
「最も力のあるロアで、墓場の守護にして交差点を司るものです」
「ロアとは?」
そこで気分を害したようで、怒りすら滲ませて答えた。
「ロアは精霊、神聖にして強大たる神の一部だ」
「そのマダム・ブリジットに私は似ているのですね?」
答えはしなかったが、そのサングラスごしの視線は絡みついたままで、
南国の午後の熱気がまだあるにも係わらず、背筋を震えさせるもので
あり、頭巾をもこもこに重ねているにも係わらず、全てをさらしている
ようにも感じられる。
普段からかなり裸に近い淫らにも思われる姿を人前にさらしてはいるが、
それは鏡に映った姿のように表面的なものにすぎない。
だがその視線は魂を射抜くように感じられ、仮面の下に隠した秘密を
見透かし、本性を明かそうとする視線のように感じられる。
己を呪縛するその視線から逃れるべく、意思の力を奮い起こして、
ようやく歩を進めホテルのロビーに転がり込んだ。
そこは暗く冷ややかであり、背の高い椅子にもたれて、1世紀か10
年ぶりに思える安堵の息をゆっくりと搾り出していると突然声がかかった。
「いったい何があったの?」
振り返るとその声の主、ペレグリンの気遣わしげな姿が見てとれる。
ペレは列の先頭のリムジンにいたのだが、そこからクリサリスのジープを
人々が取り囲んだ一幕を見て取ったのだろう。
ペレグリンの美しい繻子の翼は、しなやかな陽にやけた肌に映え、
エキゾチックであるのみならず官能的ですらある。
出演している悪名高く高名なTVショーを見ていても明白ながら、
簡単に憤り、苦悩を示す必要があるのだろう。
本当に思い煩い、心配してくれているようにも見える。
少なくとも同情くらいはしてくれているのだろう。
それでも説明しようにも、クリサリス自身掴みあぐねているのだから
どうしようもない。
そこでともあれ「何も」と答え、肩をすくめてみせた。
ロビーにはツアーの要人たちが増え、急速に息苦しくなったように思える。
「それでも落ち着いて、静かに飲む時間ぐらいは欲しいわね」
「俺もだ」ペレグリンが答える前に男性の声がそれを遮って響いた。
「それじゃバーでも探して、ハイチの実情について話そうじゃないか」
その声に二人が振りむくと、6フィートのがっしりとして、それでいて
均整のとれた身体の、穢れのなさを演出する綺麗にクリーニングされた
染み一つない白いリネン織り、Tropical weightトロピカルウェイトの
ぱりっとしたスーツを着た男がそこにいた。
その格好に対し、長すぎる顎に尖りすぎた鼻、輝きの強すぎる瞳がじつに
アンバランスで異様に思える。
噂は聞いたことがあった。
ジャスティスデパートメントのエース、ワシントン(政府)お抱えの
保安要員としてタキオンのツアーに随行してきた男。
ビリー・レイだ。
そしてJD(ジャスティスデパートメント)が彼につけたニックネームが
カーニフェックス(吊り上げ屋)であり、彼はその古めかしい名が気に
いっているようだ、ある種の権威があると考えているのだろう。
「どういうつもりですか?」クリサリスはあえて尋ねてみた。
レイはロビーを見渡して、秘密を囁くように繰り返した。
「バーを探そう、個人的に話したいことがあるんだ」
そこでクリサリスはペレグリンに目配せして言葉を促すと
「私はご一緒してよろしいのですか」そうペレが尋ね。
「かまわないよ」とそこでレイは、初めて白と黒のストライプの
入ったサンドレスに身を包んだ褐色の女性が目に入ったかのよう
に賞賛を滲ませて答えた。
その口調が舌なめずりしているように思えてクリサリスとペレグリン
は不振をこめた視線をかわさざるを得なかった。
ホテルのラウンジの人影は陽がかげるようにまばらとなり、
誰もかけていないテーブルの一つにかけよると、赤いユニフォームの
ウェイターがペレグリンとクリサリスを交互にみやって、誰から注文
をとるべきか決めあぐねているようだった。
そこで三人とも黙って椅子に腰掛け、他の者が注文した飲み物を
待つ間、クリサリスは買っておいたアマレットを先にちびちび
やり始めることにした。
「旅行ガイドにはどれも、ハイチは血の色に染められた南国の楽園
だと書いてあるわね」それは出ているガイドがすべて嘘を書いて
あることを示すような口ぶりだった。
「ならばパラダイスにお連れいたしましょうか」レイがおどけて答えた。
ときにはこんなふうに大げさに関心を示されるのも悪くない。
これまで示された愛情というものはかなり屈折した打算的ものであったのだから。
ブレナン(いやヨーマンと呼ぶべきだろう、おそらく本名などではないだろうから、
とクリサリスは己に言い聞かせた)ですらそうだった。
彼との関係も、取引の一貫として強制したものであったのだから。
そうやって男に関心をもたせコントロールするのだ、
そうやって力を感じることは悪くない、その過程で身体自体で愛を交わすことも
あるが、その過程で容赦ない凝視を感じるとき、世界そのものから嫌悪されて、
己が罰を受けているように感じてならなかった。
それなのにブレナン(いやヨーマンと呼ぶべきなのだ)は決して嫌悪を示しはしなかった。
唇を重ねるときにも明かりを消すことはなく、愛を交わす際もいつも目をそらさず、
心臓の鼓動を感じ、その下の肺は喘ぎ、息を呑んで唇をかみ締めることになるのだ。
テーブルの下のレイの脚がクリサリスの脚に触れてきた、
その感触が引き戻した過去の記憶にとまどいながらも己に言い聞かせる、
もうとうに終わったことなのだ......と。
そこに繋がる輝く頭蓋の色を思わせる白い歯を薄く示した気だるい笑みを
ビリーに向けると、急におろおろしたように、笑顔を振りまいて、必死に
手や脚を振り回し声を荒げている、おそらく会話を弾ませようとしているのだろう。
バイオレンスの噂が絶えない男ながら、クリサリスは己に向けられない限り暴力
そのものを否定するつもりはない。
それにあの男は支払いをしにきていただけではないか、それに幸いなことながら
現在あの男は消息をたっているのだから。
それに実際ブレナン自体は暴力的な男ではないが、レイは血に酔うような習慣を持つ
と噂されているではないか、ブレナンに比べれば自己中心的な俗物にすぎない。
いやなぜあの射手と無意識に比べているのだろうか、それに気づいたときに憂鬱
と猛烈な後悔すら感じられてならなかったのだ。
「そういってジョーカータウンの一番みすぼらしいところに連れていってくれるのでしょ、
Dear Boy
お坊ちゃん、それなら一人でいるほうが楽園というものですよ」
その答えに、ペレグリンは気まずげな笑みを浮かべてかかわらないようにして、
ビリーは脚をようやく離して、きつく危険な視線を返して何か悪意のこもったことでも言い返そうとしていたが、
ドクター・タキオンが現れて、ペレグリンの隣の空席に割り込むように滑り込むと、
レイはいずれこの借りは返すといわんばかりの視線のみ返して沈黙してくれた。
「My Dear(愛しい人)」そこでタキオンは腰をかがめ、ペレの手をとってキスをして
から皆にうなづいてみせた。
タキオンがこのグラマーな空飛ぶ人に執心なのは有名な話だ。
いや男というものは皆そうなのかもしれない。
とくにタキオンは己の魅力に対する自惚れが強すぎるのか、お楽しみに対する
感情をあからさまにし、その感情を軽薄にも押し隠そうとすらしていない。
ペレが何度も丁寧に拒絶の意思を示してすらいるというのに。
「ドクター・Tessierテシアとお会いしていかがでしたか?」
ペレは重ねてきたタキオンの手の下からそっと手を外し、その関心をそらすようにタキオンに尋ねた。
タキオンはそのペレのそっけないそぶりに失意を隠せないようであったが、ハイチの病院に訪問したことを
思い出し、話すことにしたようで、クリサリスは黙って聞くことにした。
「おそろしい有様でした」そうつぶやくように答え「おそろしい状況としか」
そこでウェイターに視線を向けて、呼び寄せる仕草をして
「何か冷たいものを、ラムをたっぷりで」そして周りを見回して
「どなたか他には?」と言い添えた。
そこでクリサリスは空になったグラスを、まるで骨に薔薇の花弁が浮いたような
赤く塗られた爪で弾いてちりんという音を立てると
「ああ、お代わりですね、ええと?」とタキオンが尋ね
アマレットを」とクリサリスが答え
「そこのレディにアマレットを」とタキオンがウェイターに告げた。
するとウェイターは目をあわせないようにしながら、クリサリスの前のグラス
をさらっていった、そのしぐさには深い恐怖が感じられる。
誰かと間違われているのだろうから、ある意味おかしいともいえるが、
タキオンが常に、罪の意識を滲ませて自分を見るのと同じように腹立たしく
もクリサリスには思えるのだ。
タキオンは、その赤く長い髪を効果を狙ったように指でかきむしりながら話を続けた。
「そこで見たのはワイルドカードの悲劇だけではなかったのです」
そこで一端沈黙し、深いため息を交えながら言葉をついだ。
「もはやテシア自身が考えないようにしているのがうかがえましたが、
すべてがあまりにも……理想をいってもせんないことながら……あまりにも……」
「どうだったのですか?」ペレが先を促した。
「クリサリスも見たでしょう、まるでジョーカータウンの土曜の夜のバーのごとき衛生状態
で人ばかりが群れかえっている、チフス結核に象皮病といった文明国ではほぼ根絶された
病状の数多の患者がエイズ患者と頬をつきあわせているのです。
病院の経営者と直接話をしようとしてもつかまらず、ホテルの電話は使えない
有様、ドクター・テシアが言うには、血液も抗生物質も、痛み止めといった
あらゆる物資が不足していますが、テシアと他のドクターは幸いなるかな自然の
薬草を用いる術に精通しているとのことで、雑草を蒸留して薬をつくるのをみせて
くれました、それはまさに驚くべき技術といえるでしょう。
実際、外部の新聞で、彼らの作る薬品がいんちきだと書き立てられたことも
ありましたが、それで世界中の人々からの関心を得たとはいえ、その努力と
献身にも限界があるというものです」
そこでウェイターがタキオンの頼んだ飲み物を運んできた。
長く細いグラスに新鮮なフルーツと紙の傘が添えてある。
その傘とフルーツをどかして一飲みで半分ほど飲み干してから
再び言葉をついだ。
「なんて憐れで痛ましい光景だったことでしょう」
第三世界へようこそ」とビリーが冷やかしたが
「それが現実なのです」
そう言葉を吐き出してから残りを飲み干したタキオンは、
薄紫のその瞳をクリサリスにすえて尋ねた。
「そういえば、ホテルの前で何があったのですか?」
クリサリスが肩をすくめて答えた。「運転手が物乞いたちを打ちすえ始めたのです、棒のような……」
「ココマキスさ」
「何とおっしゃいましたか?」
そこでタキオンは、初めてビリーがそこにいるのに気がついたように視線を向けた。
「ココマキスといったのさ、一見歩行用の杖に見えるが、オイルの塗られた鉄同様の硬さを持った
おそろしい武器だ」
確信に満ちたレイの声が響き、さらに続いた。
Tonton Macouteトントン・マクートが使うのさ」
「何なの?」三人同時に尋ねていた。
知識をひけらかす優越感を湛えた笑みを浮かべてレイが答えた。
「トントン・マクート*(ナップザックおじさん)とは民間伝承に出てくる名で、ブギーマンと同じ
意味だが、実際にはVSN、すなわちVolontairres de la Secuurite Nationale国家治安
義勇隊のことを今では指している」そこで悪巧みを打ち明けるように付け加えた。
Duvalierデュバリエの秘密警察で、宵闇の石炭のごとく漆黒の肌の、罪のごとき醜くさを備えた男
Charlemagne Calixteシャルルマーニュ・カリスに率いられている。
カリスは一度毒殺されかかったとき、一命はとりとめたが顔面におそろしい傷が残ったのだそうだ、この
男がいるからBaby Docベビィ・ドク(小ドク:デュバリエの渾名)は権力を保ち続けているともいわれているほどだ」
「つまりデュバリエの秘密警察がChaffeursショーファー(運転手)をしていたと」
タキオンは驚きとともに疑問を重ねていた。「だとしたら何のために?」
ものを知らない子供を見るような目でタキオンを見ながらレイは答えた。
「見張るのさ、誰彼かまわずに、それが秘密警察の仕事だ」
そこでレイは唸るような笑いを挟んで言葉を重ねた。
「やつらは至るところにいる、真っ黒なサングラスに所属を示すバッジのようなものを付けて、
青いスーツを身に纏って、どこでも一人はみかけるはずだ」
そしてラウンジの隅にいる男を指し示した。
誰も座っていないテーブルの中にぽつんと一人、前にラムを半分だけ満たしたグラスを置き、
薄暗い明かりのなか、暗いサングラスと青いスーツをドリアン・ワイルド同様だらしなく着
こなした男が腰掛けているではないか。
「そういうことか」憤慨をあらわにしてタキオンが立ち上がりかけたところで、一人の苦虫を
噛み潰したような背の高い男がラウンジに入ってきて、ずかずかと彼らのテーブルに向かって
きたのを見て、ともかく席に腰を戻したのだ。
「うわさをすれば」レイがささやいた。「シャルルマーニュ・カリスだ」
その言葉は不要だった、見間違いようのない。
漆黒の肌をした、一般のハイチ住人よりはかなり大きく恰幅がよいばかりではなく、
かなり醜い男にクリサリスには思われた、短くちぢれた髪にはごま塩のように白いものが
混じり、目を暗いサングラスで隠し、右の頬には這うようなひきつれた傷がある。
そしてその物腰も立ち居振る舞いにも、冷酷なまでの有能さと自身が満ち溢れている。
「ボンジュール」わずかに腰をかがめて発せられたその声は、かつて盛られた毒が舌と顎をも冒し、
その深く隠したいらだちが感じられるかのような声だった。
「ボンジュール」とカリスよりわずか数センチ低い程度のお辞儀をしてタキオンが返した。
シャルルマーニュ・カリスと申します」囁きよりも少し響く、暗く低い声でその男は名乗った。
「終生大統領デュヴァリエ閣下の御名において、当地における旅の安全をお約束いたしましょう」
「こちらでいかがですか?」タキオンが空いた席を示して招くと、カリスはかすかにお辞儀して
首を振り丁重に答えた。
「残念ながらそうも参りません、ムッシュタキオン、これから別の約束があるので、ここに立ち
寄ったのはホテルの前での異変を耳にして安全を確認する必要を感じたからです」
クリサリスにまっすぐ視線をすえながらそう続けた。
「今は何も問題はありません」クリサリスが答える前にタキオンが先にそう請け負ってから話をついだ。
「それよりも私が伺いたいのは、TomTomトムトム某などという組織がですね」
「トントンです」レイが正すと、タキオンはカリスに視線をすえたまま続けた。
「もちろんトントン何とやらいう組織の連中が、なぜ我々を見張っているかと
いうことです」
そこでカリスはわずかに驚いたような仕草を示して丁重に答えた。
「先ほど起こったような事態からあなたがたを守るためです」
「守るですって?あれがですか」そこでようやくクリサリスが異議を唱えて続けた。
「物乞いを打ち据えただけじゃありませんか」
そこでカリスがクリサリスに視線をすえて答えた。
「物乞いばかりとは限りません、望ましからざる輩もこの町に入り込んでいます」
そこでカリスは周囲を見回し、室内にほぼ人がいないことを確認してからはっきりと囁いた。
共産主義者です、ご存知でしょう、あの輩どもは終生大統領デュバリエの急進的政策を快く思っておらず、
政府を脅かし転覆を計っています、あの物乞いたちの中にも、彼らが紛れ込んで扇動したのでしょうな」
そこでクリサリスは沈黙を保つことにした、何を言っても無駄だと判断したのだ。
タキオンも不快ながらこの問題には口をはさまないことに決めたようだ。
なにしろドミニク共和国に旅立つまで、まだ一両日はこの島にいなくてはならないのだから。
「ときによりけりですよ」カリスはそう答えて頬の傷を歪めて醜く微笑んだ。
「それから今宵はPalais National国際宮殿に国を上げた晩餐を催しますことをもお伝えに参ったしだいです」
「その後に何が待ち受けているんだ?」カリスを値踏みするようにまっすぐに見据えてレイが尋ねた。
「何とおっしゃいましたか?」
「晩餐のあとに俺たちをどうしようというんだ?」
「もちろんさらなる趣向をご用意することもできますし、Marche de Fer鉄のマーケットで
手工芸品を買い求めるもよし、新たな世界を求めて探検したコロンブスが始めてこの地の岸辺に
うちこんだ錨などが展示されているMusee National国際美術館で我々の文化遺産を堪能するもよし、
世界に名高いナイトクラブでのひと時などはいかがでしょう・・もしよりここに根ざした土着的でエキゾチックな
ことがらに関心がおありでしたら、Hounfourホウンフォールに入れるよう手配してもかまいませんが……」
「ホウンフォールって?」ペレが尋ねた。
Oui(そう)、神殿、いや教会ですな、ヴードゥーの教会です」
「それはそそられるわね」クリサリスもそう相槌をうっていた。
「錨を眺めるよりはまだましだろうぜ」レイもぶっきらぼうに同意を示すと、
カリスはレイの軽口にも動じず慇懃に返した。
「そのようにとりはからいましょう、ムッシュ、私はここで失礼いたしますが」
「この連中は連れて行かないのですか、つまりあなたの部下たちのことです」
「引き続き護衛をつとめます」タキオンの皮肉を軽く受け流してようやくカリクトは
立ち去った。
「やつらがいたところで心配などないさ……俺がそばにいるのだから」
レイはそういって精一杯きめたつもりで、ペレに視線を送っていたが、
ペレはドリンクをふくみ、うつむいて視線をあわせはしなかった。
クリサリスにはレイのその能天気さが羨ましくすら思える。

ラウンジのはじに腰掛け、陰鬱なサングラスごしにこちらをうかがう
トントン・マクートの視線は、まばたきすらせず獲物を狙う蛇の視線
のように悪意がこめられ覆いかぶさってくるようにすら感じられる、
護衛している、などという言葉は鵜呑みにできない、Solitary利己的
な別の思惑が絡みついている、ソリテール(一人巧み)ならばおてのもの、
それでも余所で行われるのは気にいらない、クリサリスにはそう思われて
ならなかったのだ。





*ハイチでは、良い子のところには白い袋を持ったサンタが、悪い子のところにはナップザックを
持ったトントン・マクートが来て、ナップザック(麻袋)に入れて連れ去られる、と伝えられている。