ワイルドカード4巻「手繰られしものたち」その6

          手繰られしものたち
                 ヴィクター・ミラン

「生きとし生けるものの世界へようこそ、上院議員、とはいえ期間限定かもしれんがな」
その言葉を脳の一部で知覚しながら、ハートマンの意識はゆっくりと世界を認識し始めていた。
舌には微かな苦味が、耳には旋律を、そして右上腕には、焼け付くような痛みを感じる。
誰かが聞き覚えのあるメロディの口笛を吹いていて、それにラジオの雑音がまとわりついて
いるかのようだ・・・
目を開けるも闇のみしか感じられず、必然的に視界の奪われた不安感がじわじわと高まって
いたが、眼窩を圧迫する感触と、後頭部からの突っ張るような感覚も感じる、おそらくガーゼを
あてられ、テープで留められているのだろう・・・
そして木の感触を感じる、両手は背中にまわされて、椅子に縛りつけられているのだろう・・・
取り戻した意識でまず堪えたのは、監禁されているという事実より、鼻をつく様々な臭
い、判別できるだけでも汗にグリス、かびに埃、そして衣類の放つ汗ばんだ匂い・・・
それらの排泄物と銃器の油が入り混じったような臭気が鼻腔を圧迫するなか、
そのいらだちに満ちた声の主が何者であるかはっきりと認識することができた。
「トム・ミラーだね・・会えて嬉しいという状況だったらよかったのだが・・」
「俺は嬉しいがな・・」そこで切り離された外の世界の名残りともいうべき、
歯磨き粉とうがい薬に息の匂いの入り混じった不快な臭気とともに唸り声が
重ねられてきた。
「あんたは俺がこのときをどれだけ待ちわびていたかなど知りもしなかった
ろうな、そしてこれからそれを思い知ることになるんだ」
「相互理解は大切だがね、それならどうして私の目は塞がれているのかな・・」
その言葉とともに探りを入れてみた、最後にこの侏儒に触れたのは10年もの
前になる、そのリンクが感じられない、かつて築いた道が閉ざされているのか・・
パペットマンがそのコントロールを失ったことに恐れおののいている、それは己の
能力を失ったことに等しい、ミラーの魂さえ引き寄せることができたなら・・
ハートマン自身は己の喉下までこみ上げているパニックの感情というものを必死に
押しとどめている中、彼の声が響いた。
ギムリだ!」その侏儒の叫びとともに、飛び散った唾が、ハートマンの頬と唇を濡らすのを感じて、
瞬間的にハートマンは手繰る糸から身をよじり放してしまったが、パペットマンが再び手を伸ばした。
すると白熱したワイアーのごとき燃え盛る怒り自体は感じ取ることができた・・
パペットマンが内で声を立てるのを感じた。
疑われている?
もちろんほとんど憎悪以外は感じられはしない、その下、ギムリの精神、意識の下には
グレッグ・ハートマンに対する何か尋常ならざる感情があるようだ・・
ジョーカータウン暴動の流血沙汰に何か密接に結びつくものがあるのだろうが、
ギムリはエースではない、それをハートマンは確信している。
おそらくギムリの本能的パラノイアが第六感的な何かを伝えているのだろう・・
そんな局面に関わらず、パペットマン自身はパペットを失った可能性に直面している、
そうして蒼ざめひるんでいる感情すら感じる。
だが幸いなるかな、その感覚は唾とともに吐き出された不機嫌な言葉とともにさえぎられた。
ギムリだ」侏儒が返答がないゆえ繰り返したとみえる。
そこにハートマンは付け入るすきを感じ取った。
「それが俺の名だ、マスクをしたままでも、上院議員、俺がわかるのだろうからかまわないと
しても、他の人間にとっちゃそのままの方が都合がいいというものだからな」
「それもそうかもしれないね、ギムリ君、スキーマスクをしたところで、その毛むくじゃらの
ジョーカー面が鼻をつき出すだろうから、そうして怯えた顔で、私に触れることもできないの
だろうから、なにしろ私に顔を知られたらまずいギャングのお歴々なのだろうね」
挑発がすぎたのではないだろうか・・・遅まきながらそう感じていた。
もちろんミラーのみならず、共犯どもに考える余地を与えたくなかったというのは事実だ・・
そして実際ミラーの感情はとろとろのオムレツのように溶け崩れ、己をおさえかねているじゃないか・・
だがそのぴりぴりくる感覚には覚えがある、そうだそれはまるで60年代のあのとき、自由を求めた騎手たちが
目前に広がる新たな開拓地を目指したときのごとく、そこにはつねに憎悪の大河が広がっていた、そう
ワインのごとく芳醇な憎悪が、真紅に藍色が渦をまき溶け合わされたような愛しき暴力衝動の可能性だ・・・
卑劣な白人州警官が、アラバマ州セルマで催された黒人の プロテストマーチの最中に、牛追い棒で黒人たちを
ぼこぼこに殴ったときもこうであったのだろうと思わせ、それを真っ先に味わうべき手を延ばしていた、いや
あのときもそうだったじゃないか、あのときだけじゃない、リムジンの中でもことをせいてはいなかっただろうか・・・
「どうなんだね、ギムリ君」そこで強い意志を感じさせるバリトンで、明瞭な英語の声が割り込んできた。
「マスクの陰に隠れる必要があるのかね、私たちは世界的に名が知られているじゃないか」
「ああ、そうとも」侏儒はパペットマンにその憤慨する感情を味わわせもしながら、近づいてはこない、おそらく他に
何者かが同席しているのだ。
そしてそれ自体をこころよく思っていないに違いない。
ハートマンの中に渦巻き始めていたパニックの兆候の中に、小さな興趣の泡というものが生じ始めたそのとき・・
ハートマンの耳に床の軋む音が響き、何者かが近づいてくるのが感じ取れた。
その展開を呪わしく感じながらも、息をつく暇もなく、顔面のテープが引き剥がされた、髪と肌の一部も削ぎとりながら・・・
そうしてはじめに視界に飛び込んできたのはギムリの顔だった。
相も変わらず腐った林檎のようなまずい面ながら・・勝ち誇った様子以外は見て取れない。
ガーゼが外されたのを幸いと、侏儒以外の室内の様子に目を凝らした。
そこに広がった世界とは、みすぼらしい安アパートの一室のようであり、
みすぼらしく薄汚れた木製の床に、壁には剥がされた壁紙の名残りがパッチワークのように残され、
作業中の職人の工房のような有様にすら思える・・・
床の大部分には屑が散乱しており、動くとがさごそと音すら立てている・・・
おそらくここは本来廃屋なのだろう・・・
頭上には傘の朽ちた裸電球が灯っているが、それだけとは思えない絡みつくような熱すらも感じる、
ドイツでは6月下旬まで暖房がかせないという、その熱とは思われるが、幾分利きすぎているように
思えてならない。
そしてここは東側の地域になる、なぜなら以前ドイツにいたときに感じたものとは違った匂いがする
からなのだが、それにしても・・・
室内には他にも、明らかにジョーカーと見て取れるものが三人いる。
一人は頭からつま先まですっぽりと埃っぽいローブに身を包んでおり、もう一人はところどころ小さな
赤い吹き出物の浮き出た黄ばんだキチン質(甲羅状物質)に覆われており、残りの一人はふさふさの毛に
覆われていている、こいつはバンの外に姿を見せた奴だ。
そしてあまりにもありふれた様子の三人のナット(常人)も視界は捉えたが、
その背後にもう一人いるのをエースの力で感じた。
それは奇妙な感覚といえた、彼は常に他人の感情を咀嚼できるわけではない、とくに強い感情が向けられた
場合と相手がパペットである場合にのみそれを味わうことができる。
その感覚はどうにも居心地の悪くなるものだった。
後ろに目を凝らすと、たしかに二人、もしくはそれ以上の人間がいる。
一見ナットに思われるが、暖房の隣の薄汚れた壁にもたれているやせこけた若者からは特に妙な感覚を感じる。
もう一人はというと、三十代半ばに見える男がコートを羽織り、ポケットに手を突っ込んだまま安っぽいプラスチックの
椅子に腰掛けている。
年長の方が若いものに対し、意識下でそりの合わないものを感じているようにハートマンには思えたが、
視線を合わせたときに、微妙に悲しみめいた感情を感じたようにも思える。
             おかしい、この感覚は何なのだ
緊張がノーマルな認識を超えているのだろう、つまり想像できる認識とは異なるということだろうか、
そんなことを考えていると、若い方の小僧が笑みをハートマンに向けてきて視線をそらすことになった。
何かざわざわするような、尖ったものが突き刺さりちくちく痛むようなものを己の内に感じている・・・
そして再びパペットマンからも捕らえがたい感情を感じるではないか・・・
屑を踏みしめるざくざくいう音で振り返ると、スーツにコート、それに不似合いなタングリーンの軍装の
ズボンを身に着けた大柄なナットを見上げることになった。
タイも着けておらず、シャツの襟もボタンが留められておらず、薄い首周りに突き立っていて、開いたそこから
白髪交じりの胸毛を覗かせ、その大きな手を腰に添えてコートのすそを引きずるさまは、Inherit the Wind
「風の遺産」の登場キャラを思わせるものであり、その長髪を頭の後ろで束ねて、広く額を覗かせている。
そうした彼が微笑むと、いかつくみすぼらしい取り巻きの女たちは熱狂し、男たちの支持をも集めるのだろう・・・
「お会いできて実に嬉しいですよ、上院議員
それはギムリに目隠しを外すよう促した、あの深くて自信に満ちた声だった。
「しかも圧倒的優位を保った状況でならばなお更喜びも深いでしょうな・・」
「そうともいえますかな、おっとあまり馴染みのある名とはいえますまいが、
名乗っておきましょう、ウォルフガング・プラーラーと申すものです」
ハートマンの後ろから不快を示す感情がたちのぼっていて、そのいきまく様子が吐息とともに感じられる。
プラーラーはそれに鼻白んでいながらも、笑顔で声を絞り出した。
「ああ、同士モルニヤじゃないか、安全上何か問題でもあったのかね?
名を示すくらいは仕事を成すうえでも、さほど問題はあるまいに」
きちんと教育を受けているベルリン人特有の英国風アクセントのはっきりとした英語で話している。
その後ろからモルニヤという名で呼ばれた男の感情が興奮とともに立ち上っているのをパペットマンが感じている。
モルニヤというのはロシア語で、雷を示しており、ソビエトでは歴代の通信衛星にも用いられている名だ。
「一体全体何がどうなっているのだね」ハートマンは探りを入れるべく声をかけてみたが、
その声は心臓の鼓動に揺さぶられたかのような弱弱しいもので、冷酷な殺人者ならば、決して慈悲を示したくなる
ものではなかっただろう・・・それでもパペットマンはだが、そこで突然傲慢ともよべる自信を取り戻してハートマンの
代わりに声を発した。
「<Aide et Amitie援助と友愛>の会食で知遇を得るまで待てなかったのかね」
プラーラーはそれに対し、腹の底から響くような笑い声とともに答えた。
「実にお利口なものだ、だがそれだけじゃ充分じゃない、そう待ち構えるだけでは能がない、
Setupセットアップ(張りぼて)という言葉がある。アメリカにもあるだろう ・・」
「誘き寄せてぱっくり・・」
黒いタートルネックジーンズをあわせた赤毛の女が言葉をひきとって話をつづけた。
「ねずみにはチーズを、王侯貴族にはそれらしい会食を、ってわけ」
「ねずみと王侯貴族か」そこにからかうような声がさらにかぶさってきた。
「それほど上玉の王侯ならばねずみにとっても箔がつくってもんさ」それは声変わりしたばかりを
思わせる低い男の声だった。
そのレザーを着た少年から、淫売がScrotum陰部を撫でさするがごときくすぐるような感覚をハートマンは感じている。
それは彼から立ち上る感情であることに疑いはない、微動だにしない、何か恐ろしいものを予感させる感情だ。
それなのにそこに手をのばし深く味わおうという欲望がパペットマンからは感じられない・・・
こいつを恐れているというのか・・・
プラーラーに銃を持ったラフな格好の若者、そしてギムリよりも・・・
「こんな面倒な真似までしてギムリに手を貸すとは・・どんな古い義理があったというのだろうね」
己の中の疑問を思わず口にしていた「それとも気前が良すぎるのかな」
「革命のためさ」金髪を角刈りにしたナットの若者が答えた。
日焼けサロンを思わせる褐色の肌ながら、タートルネックジーンズに包まれたその身体は厳しい
条件で作業をしてきたものを思わせるがっしりしたものであり、壁にもたれながら、ソヴィエト製の
アサルトライフルを床に着け、そのマズルブレーキを抱き抱えている。
「あなた自身はさほど重要じゃないのよ、上院議員」短く刈り整えられた髪のわずかに額にかかった
部分をはじきながら口を挟んだその声は女性のものだった。
「ただの道具にすぎないの、脆弱な自尊心にとって耐えられない話でしょうけれどね・・」
「君たちは何者なんだね?」
Red Army Fraction(RAF:ドイツ赤軍)という立派な名があるのよ」
そう答えてすぐに、脚を組んで腰掛け、よじ曲げられた木を思わせるナイトスタンドに置かれたラジオに聴き入りながら
つまらなそうにしていて、ハートマンと目をあわせようとしない、がっしりした若者のところにとんでいってしまった。
「それが同士ウルフがつけた名さ」そこで金髪の少年が会話をひきついだ。
「バーダー・マインホフだとかも呼ばれてたが・・こっちの方がしっくりくらぁ」
そう答え握ったこぶしを振り上げた。
ハートマンは唇を舐めて湿らせ考えをまとめようとした。
70年代前半から活動してきたテロリストたちの影に、イタリアとことにドイツの法廷で、急進派で知られている弁護士が
直接関与していたのみならず、あの小僧の言葉を信じるならば、その当のプラーラーこそが、バーダー・マインホフだか
RAFだかのリーダー格でありながら、その事実は世間には知られずにいたのだ。
そこでトム・ミラーに視線を向けて、探りをいれてみることにした。
「繰り返し尋ねて悪いがね、この茶番にいかなる旨みが期待できるというのかね、ギムリ君・・」
「なぁにときがくりゃあんたにもわかるってもんさ、上院議員
そう答えてにやにやしている侏儒の腹を引き裂いて、そのはらわたでそのしたり顔を張ってから
その首を締め上げてやりたい感情がパペットマンから伝わってくる。
そのフラストレーションは痛みのごとく感じられてきて、流れる汗がムカデのように額を伝わって
行くのを感じるが・・
不思議とパペットマン、すなわち己の半身たるその感情からは遠く隔たれているようにも感じられる。
怒りは恐れに置き換わり、今は疲れと倦怠の感情、そして悲しみしか感じられはしない・・・
ロニーも気の毒に、身体をはってわたしを、それなのにわたしは・・・
その感傷に割り込むように赤い髪の女が椅子にかけた男の肩を叩く音と声が響いてきた。
「ウィルフリード。何間抜け面さらしてんの、あんたの出番よ・・」
それに対し、男は何か申し訳なさげにもごもご言いながら、ようやくこっちに向き直った。
「RAFドイツ赤軍とAmerikaアメリカにおいて迫害を受けているJJSジョーカー公正社会同盟による協奏曲、
それがこの捕縛である・・」その言葉を同士ウルフが引き継いだ。
それは安物のラジオから響くかのような、酒にやけたような声だった。
「釈放の条件は以下のごとくである:
パレスチナの自由闘士Al Muezzinアル・ムアッジンの釈放、そして充分な燃料と航空機による
第三世界解放国家への移送、及び彼らの活動に対する迫害の撤廃。
そしてジェットボーイの霊廟を取り壊し、そこにAmerikaアメリカにおける偏狭な精神に苦しめられて
きたジョーカーのための施設の建設を要求するものである。
そして最後に、資本主義の豚どもに対して、中央Amerikaアメリカにおけるその
侵略行為によって傷つけられた人々に対する賠償として、一億ドルを要求する
ものである・・」そうしてさらに駄目押しが宣告された・・
「もしベルリン時間で今晩10時までに以上の条件が折り合わない場合は・・・
グレッグ・ハートマンの処刑が実行されることになるが・・・
その予定に遅滞はありえない、すみやかに返還できることを願うものである」
それは厄介なことに実に断固たる口調であったのだ・・・