ワイルドカード4巻「ザヴィア・デズモンド」の日誌Ⅷその1前編

ザヴィア・デズモンドの日誌
             G・R・R・マーティン

         2月7日 アフガニスタン、カブール

なんとか痛みをあしらうのにも慣れてきましたが、さすがに他の皆さんと同じように
史跡巡りの観光に回る気になどなれはしません。

観光・・・・・・いやそうではないのでしょう、シリアの事件は世界中で話題にはなりながら、
実際に何があったかは報じられておらず、噂のみが一人歩きしているのです。

私とて、現場に立ち合わせてもらえなかったことには疎外感を感じています。
たしかにペレからそこでのあらましを聞かせてもらいはしたのですが・・・・・・

やはりシリアでのことは我々に重いしこりを残しており、それを何とかしようと
もてあましているのでしょう、私とて例外ではなくしこりを抱えています、それ
は癌による痛みからのみならず、私がこれまでの人生において何もたいしたこと
はなしていないのではないのか、という焦燥感の方が強く私の胸を締め付けている
のです。
わたしは同胞たちに、忍耐と非暴力をずっと説いてきました。
そうして同胞たちが団結し、人としての分別や礼儀正しさを持つことこそが
かすかながら私の生きる力としてきたものだったのです。
そうして夢想するのです、もしわたしがヌール・アル・アッラーのような人間と
話すことができたなら、どう妥協し、どう理非を説くことができただろうか・・・・・・
我々を人間と認めないものに、一体どうすれば人道を説くことができるだろうか、と・・・・・・
そしてもし神が存在するならば、私は許しを請わなければならないでしょう、
私は事件の渦中でヌールが死ぬことすら願ってしまったのですから・・・・・・

そんな中ハイラムが我々の元を去りました、普段から別行動しがちだったのですが、
今度はニューヨークに戻るとのことでした、ダマスカスとローマの合間で、
コンコルドを拾ってアメリカへ戻ったのです。
エーシィズ・ハイで問題があり、彼自身の指示が必要になったと話してくれました。
しかし実際は、シリアでのことが思いの他重くのしかかったのではないでしょうか、
砂漠から戻ってきたとき、彼は相当取り乱していたと噂されているからです。
サィード将軍を止めるため、重力を操作したとか・・・・・・
それはじつに絶妙なもので、「俺がやってたら、床に赤黒い染みしか残らないまで
容赦できなかっただろうな」とビリー・レイが私に語ったほどでした・・・・・・
彼自身が語らない以上真相は藪の中であり、他にやむにやまれぬ事情があるのかも
しれませんし、別れ際に冗談めかした口調でありながら、その広い禿頭の額に汗が
滲んでおり、手がかすかに震えていたことを私は見逃しませんでした、おそらく
そうすることは彼にとって必然であったのでありましょう、そのわずかな離脱で
回復が図れるならばそれにこしたことはなく、そういったことがあろうとも、共に
旅することで彼に対する敬意は増すばかりなのですから・・・・・・

暗澹たるシリアの惨劇の中、暗雲に煌く一筋の光明とも呼べるのが、そこで生命を
賭したグレッグ・ハートマンの名声が飛躍的に高まったことでしょう。
わずか10年前、1976年のジョーカータウン暴動で、公衆の面前で怒りに我を忘れた、
として政治的信頼を失っていたのですから・・・・・・
ですがそれは私にすれば、彼の人間性を証明するものであり、彼の目の前で罪のない
女性が暴徒の手によって引き裂かれたのですから、人として当然の反応というもので
しょう。
いずれにせよそのことによって72年についで、76年も大統領候補になれず、怒りと
悲しみの涙を我々はこらえなければならなかったのですから・・・・・・
シリアの一件は、我々皆に深い傷ともいうべき記憶を残しましたが、そこにいたものは皆一様に、ヌールの暴虐たる振る舞いの中で、ハートマン氏の行いこそが、確固として勇気と冷静さの規範となるものであったと語られており、アメリカの各紙にAP通信による写真が載せられていましたが、それはハイラムがタキオンを大地より持ち上げ、ヘリに乗せた写真、そしてその傍らに佇み、白いシャツの袖から血を滴らせ、顔を埃にまみれさせながらも、硬く強い意思を示したハートマン議員の姿をとらえていたのですから・・・・・・

グレッグは1988年の大統領選抜にはまだ立候補しない意思を示しており、
民主党推薦候補としてはゲーリイ・ハート氏が圧倒的に優位であると目されています、しかしこの写真が彼の理念の認知を高めたとするならば、私としては彼が思い直すことを願ってやみません、もちろんゲーリイ・ハート氏に対して何の含むところもありはしませんが、それだけグレッグ・ハートマンにかける思いは我々ワイルドカードに感染したものにとって特別のものであり、もし彼が挫けたとするならば、希望もともに費えるのです、そこでブラッグドッグの言葉が蘇ってきました、そうなったら私はどうするでしょう、彼の手を借りるのでしょうか・・・・・・
私は喜ぶべきなのかもしれません・・・・・・まだその答えはださなくてよいのですから・・・・・・