その15

    メリンダ・M・スノッドグラス
         午後7時


マリオットのロビーが落ちてくるような、
眩暈のような感覚を感じながら、
ともあれ何かにすがろうと、
手が白くなるまで手すりを握りしめていた。
行くしかあるまい。
命綱から手を離せば、
もはや安らぐことは叶わなくなる、それでも、
そうしていてはあまりにも無責任というものだろうから。

涙が溢れ目が痛み、絶望が急速に込み上げてこようとも、
イルカザム家の王子として産まれたからには、臆病であること
など許されてはいないのだ。
肩をいからせハートマンのスイートのドアを目指した。
もしかしたらハイラムの言った通り、理に適う説明が聞ける
かもしれないが、
ジェイはクリスタルパレスのオフィスで手をチェーンソーの様に
振動させる歪な体をした男がカーヒナのはらわたを溢れ出させたところを
見たとディガーから聞いたと言っていたのだ。
そしてその同じ男が昨日の晩にセイラとジャックを襲撃したとも
聞いている・・・
アンディもクリサリスも殺された、次は私の番だわ。
そう言っていたセイラの声を耳から振り払いながら、ホール中に
響き渡るような音を立てドアを叩いていた。
グレッグのところに行かねばならない。
もはや猶予などないのだから。
そこでカーニフェックスがドアを開けてくれた。
心なしか衰弱しきっているようで、その緑の瞳からは
強い痛みが感じられてならない。
上院議員に会いたいんだがね、ビリィ」
そう声をかけると入ってくるように促がされスイートに入ると、
グレッグは窓際の椅子に腰をかけ両手に酒を持ち、しこたま
飲んだ様子だった。
「前祝かね?」
そう言った上院議員は心底驚いているように思える。
「ともあれ時間の問題だろ、ところでどこにいたのかね?
エレンを一緒に見舞おうとジャックを使いにやったのだよ」
タキオンは平静を装った表情をして、
目じりに笑顔のかたちの皺をよせながら、
口元には怒りの感情をきつく噛みしめた。
シリアや南アフリカで当の上院議員が示したように決然と、
精神の力を生き物のようにしならせて確かめた。
なじみ深い友人の顔の下の精神を貫けるように、
タキオンがそうしていて応えないでいると、ハートマンが
怒りの感情を向けてきた。
「一体どうしたというんだ?直に候補に選ばれるというのに」
「レイを外していただきたい」
「どうしてだね?」
「外していただきたいのです」
その言葉にハートマンが思わせぶりな瞳を向けると、
エースはその瞳にユーモアを感じ取ったようで、頷いて出ていった。
「さてタキィ、こいつはいかがかな?」
ハートマンはそう言ってボトルの栓を抜いてみせている。
「あなたはエースなのですね?」そう訪ねると、
ハートマンは轟くような笑い声とともに、
「おいおい、ドクター、働きすぎじゃないか、疲れているのでは
ないのかね?」と言葉を被せてきたが、
「あなたがシリアで着ていたジャケットの血液検査をしたのです」
その言葉にハートマンの表情は一瞬強張ったが、すぐに何でもないと
いう表情で、
「そのカテゴリーに私は含まれないはずだがね」と言い返してきた。
「あなたの血液ですよ」
「ジャケット違いじゃないかね、誰か別の人間の血液を検査した
のじゃないのかね、敵陣営にはめられたんじゃないかな」
「別の人間の血液と言い張るのですね?」
タキオンは己に言い聞かせるようにしながら言葉を継いでいた。
「もし別人の血だというなら、どうしてクリサリスは殺されなければ
ならなかったのですか?」
「クリサリスの死には何の係わりもないよ」
「ディガーにセイラです、上院議員、彼らが真実を明らかにしたのです」
「誰が信じるものかね、あなたとて信じていないのではないかね?」
「私には血液検査の結果があります」
「だとしても公表するつもりではあるまい」
ハートマンはそう言ってほくそえみながらタキオンの顔色を伺っていて、
「真実であったとしても、秘すべきだとは思わんかね」
そう言ってグラスを満たし、強い自信を滲ませてソファーに倒れこんで
みせた......
「私には精神を丸裸にできる力があるのです」
タキオンはそう言い放って警告し、
「真実をあなたから読み取ることができるのですよ」と言い放つと、
その政治家の顔に露骨なパニックの広がるのが見て取れて、
ソファーから弾かれたように立ち上がり、手からグラスを落として
カーペットにバーボンをぶちまけていた。
「正気を失ったのじゃないかね!レイ、レイ!」
タキオンは叫ぶハートマンの腹部に拳を撃ち込んでいて、
そこから物理的な力となった感情が異星の男を捕えた。
震えるような裏切られたという怒りの感情だ。
グレッグは胃の辺りを掴み息をしようと喘ぎながら身を引き離そうと
したが、
タキオンの力は彼を刺し貫いていてけして離さず、
彼の目に救いようのない恐怖の広がっているのが見て取れた。
タキオンがその中に押し入っていくと、
怒りと憎悪の込められた視線が向けられてきて、
思いもよらない怪物がそこにいた。
パペットマンという名の怪物が抗い咆哮していて、
外科医の正確さでそれを覆う表面に切れ目を入れると、
死と痛みに満ちた凄惨な事柄の数々が溢れてきた。
ギムリと胎児を獰猛に貪りながら闇に突き落として、
エレンの痛みと恐怖を吸い上げ、
ジョーカーたちの欲望を高め、
自制を取り除いて乱暴な凌辱に手を染めさせていた。
ベルリンでは血の競演を巻き起こし、
マッキー・メッサーという狂気に満ちた予測のつかない
男をパペットに仕立て仲間すらその手にかけさせて、
マッキーは熱く艶やかで塩味の強い血の味のする熱情を
迸らせたままグレッグのそれを口に含んでみせ、
ロジャー・ペールマンがアンドリュー・ホワイトマン
頭蓋を岩で砕かせたその感触を思うがままに味わい、
その一方で絶頂を感じていた。
大きく膨れ上がったそれが遠くの孤独で怖れ慄く無力な
ものたちを貪っていたのだ。
強い記憶と感情に鼠蹊部が熱くなるのを感じながらも、
胃はそれに対する嫌悪で重く、
それと共に怒りの感情のまま叫んでいた。
このモンスターは存在の最も昏い面を呼び起こすのだ。
そうしてパペットマンは嘲笑っている。
赤と紫の混じりあった吐き気を催すその塊に、
タキオンは己の内に銀と水晶の入り混じった剣を仕立て、
モンスターを弾き飛ばして、
その古巣に追いやって、
いまだかつて作り上げたことのない強固な炎の仕切りで弾くようにして、
己の身体に戻ると、
汗でぐっしょり濡れていて、強い震えが感じられるまま、
そうしてソファ−にぐったりと横たわるハートマンに言い放っていた。
「あなたは大統領になるべきではありません」と。
グレッグはゆっくり起き上がり、まだ薄ぼんやりした様子ながらも、
悪意の充分込められた言葉を返してきた。
「止められるかね、私たちを止めることなどできはしないのでは
ないかね、そのちっぽけな存在で」
そこでタキス流の残忍さが鎌首をもたげはしたが押し殺し、
何とか表にださないように努めた。
殺せばいいじゃないか。
駄目です、それは最後の手段とするべきでしょう。第一死因に不審があっては検死に回されかねない。
そうなってはすべてが台無しになるというものだろう。
そこでともかく踵を返し部屋を出ることにしたのだ。