第五章その14

     ウォルトン・サイモンズ
         午後7時


胸につけた<貴賓>と記されたバッジを撫でながら
スペクターは苦笑せずにはいられなかった・・・
前にここに来たときは命のやりとりをしていて・・
胸までどっぷり死に漬かっていて命からがら抜け
だした経緯があったのだから・・・
今は逃げるどころか大手を振って出入りできるの
だから不思議なものだ・・・
人生なんてこんなものかもな・・・
そんな感慨にふけってはみたものの・・・
ハートマンのフロアは驚くほど静かだが・・・
それでもあちこちの壁際には私服警備員といった
感じの人々の姿は見て取れる・・・
スペクターはトニーの部屋の鍵をとりだして部屋の
ナンバーを頭に入れつつ・・・
この国を出るのもいいかもな・・・
と夢想し始めた・・・
オーストラリアも悪くないがイギリスもいいかも
しれない・・・
そんなことを考えているうちにトニーの部屋のドアの
前に立っていた・・・
そこで鍵を差し込んでひねったところで・・・
別のドアが開かれた気配に一歩退いて様子を見ていると・・・
私服警備員といった装いのジョーカーが姿を現して胸に
ある貴賓のバッジを視て中に入るよう示してきた・・・
背が高くがっしりとした体格をしたジョーカーで・・・
スペクターが中に入ると一緒に入ってきた・・・
眉の辺りが骨ばっていて、額が醜く隆起しているくらい
しかジョーカーらしさは見て取れないが・・・
スペクターとてそれほど関心もなく聞かずにいると・・
「ところであんたは誰だ?」とおざなりな調子ながら訊いてきた・・・
「トニー:カルデロンの友人だよ、筆記用具をとってくるよう
頼まれたのさ・・・」
そう言ってベッド脇の黒いブリーフケースを示して・・・
「ああ多分あれだ」と言うと・・・
「それはわかったが一応手を頭の後ろに回してくれないか?」
と言ってきた、そこで言われた通りにすると・・・
そうしてされたボディチェックは手早いものであったが・・・
その間に恐怖が募ってきた・・・
もし顔をじっくり見られたとしたら、記憶が照合されて
指名手配のトップにあるディマイズと結び付けられるので
なかろうか、と・・・
「一応トニーに確認させてもらうよ・・・」
ジョーカーはそう言って受話器に向かうと・・・
メモに書いてある番号を見て、その番号を打ち込んでいた・・
そこに集中しているようで振り返ってスペクターの顔を
改めて見ようという素振りは見えない・・・
「トニー・カルデロンを頼む」と言ってしばらく待ってから
「トニーか、コリンだ、あんたの筆記用具を取りに来たやつが
いるんだがね・・・そうか間違いないんだな・・・
そいつはすまなかったな、いやいいんだ・・・」
そこでコリンは電話を切って・・・
「あんたがジムなんだな」と声をかけてきた・・・
「そうだ、もういいだろ?」
そこでジョーカーは片腕を上げて黙るように促してから、
耳にかけた通話機に話し始めた・・・
「そうだ、カルデロンの部屋にいる、病院からパソコン
とかを取りにきたやつがいてね・・・
聞いてたなら先にいっといてくれたらよかったのに・・」
そう言ってしばらく沈黙してから言葉を継いだ・・・
「いや、ホテルの人間がいうにはベアードの部屋には昨日の
晩から誰もいないということだがね、まぁいいさ、後でもう
一度確認しとくよ、もういいだろ、また後で話そう・・・」
ジョーカーはそう言うとため息を漏らしてドアに向かって
いって・・・
「あんたも行っていいよ」と言ってから・・・
「あんたからもトニーに謝っておいてくれないか・・・」
と思い出すように付け加えていた・・・
スペクターはそれにぎこちなく頷いて、ドアが閉まった
ところでようやく息をつくことができた・・・
どうやらベアードの件が知れたらしい・・・
すぐに問題にはならないにしても、街を出ないわけには
いくまいが、今はともかくこの部屋をなにくわぬ顔で出
なければなるまい・・・ともあれ気を楽にして・・・
ベッドの端に腰かけて・・・
書類カバンを開けてみた・・・
パソコンとCDプレーヤーやら他に細々としたものが入って
いる、トニーの言った通りだ・・・
カバンを閉じて水でも飲もうとも洗面所に向かった・・・
妙に喉が渇いて思えたのだ・・・
それにまだ安心はできないのだ・・・
カバンを横に置いてトイレの横にある蛇口に向かおう
としたところで声が聞こえてきた・・・
誰かは知らないが、片方の声は上ずって聞こえる・・・
そこでスペクターは壁に耳をつけると・・・
誰の声かわかって胃が痛くなってきた・・・
タキオンだ・・・
こいつの声ならどこでもわかるというものだ・・・
どうやらハートマンと言い争いをしているらしい・・・
スペクターは便座に腰かけその会話を聞いていたのだ・・・
誰も入ってこないことを願いながら・・・