ワイルドカード4巻第9章 その1

        From the journal of Xavier Desmond

            〜 ザビア・デズモンドの日誌より 〜

                G.R.R.マーティン

       1986年12月15日 リマへの途上、そしてペルー

日誌をつけるのが滞っています、昨日だけではありません、それは数日に及んでいるのです。
憔悴と多大なる落胆、それを理由としてあげることをお許しいただきたい。
グァテマラでは魂を削るような想いにかられました、我々は本来、厳粛に中立であるべきなのです、にもかかわらず暴動の報道されているニュースで、マヤの革命党員がレトリック(お仕着せ)な分類で語られるのを聞くにつけ、それが根絶されることを願わずにはいられなくなるのです。
確かに、先住民族のリーダーとお会いしたときには、敬意を持って迎え入れられ、これは何かの兆し、吉兆に違いない、とわずかに元気づけられはしましたが、それはハートマン議員やタキオンと同じように(ときには不躾なかたちで)扱われているだけという気もしないではありませんが、それでもジョーカーにもこころがあるということを認めてくれているように思えこころが熱くなりはしました。
わたしはたしかに古い人間、いや正確には古いジョーカーですが、わらをもつかむ思いで、マヤ革命党により設立を宣言された新国家が、ジョーカーをも敬意を持って受け入れられるものであることを願っており、もちろんそこには私どもなど含めなくてもいいとすら考えているのです。
グァテマラのジャングルになど今に至るまで気にすることもありませんでした、そこにジョーカーの自治区があると聞いても僅かなさざなみを生じさせたにすぎません。
古巣からはるか遠くに離れているとはいえ、わずかに留守にしているにすぎません、そして世界中において、ジョーカーが諸手を広げて受け入れられる平和に暮らせる地はわずかにすぎないのです。
旅が続けば続くほど、他の国を目にすればするほどに、地上においてジョーカータウン以上の場所など存在しない、としめくくらざるをえません。
その結論が導かれることが悲しくもあり、恐ろしくすらあるのであります。
なぜ人間は、線引きを必要とし、明確な区別というものを求めずにはいられないのでしょうか。
なぜレッテルでもって人間を引き裂く必要があるのでしょうか。
エースにナット、そしてジョーカー、資本主義者に共産主義者カソリックプロテスタント、アラブ人にユダヤ人、インデイオ(先住民)にラディノ(混血)、あらゆる区分で満ち溢れているのです。
もちろん人権というものは常に別にあり、それらを抑圧したり、蹂躙したり、陵辱することは何人にも許されないことでありましょうに。
スタックド・デッキ一行が、グァテマラ人民の先住民族に対する虐殺を知りながら、黙殺し新国家設立を寿ぐということは荷担することと同じことであり、それもどうかと思えてならないのです。