ワイルドカード4巻第9章 その2

        From the journal of Xavier Desmond

            〜 ザビア・デズモンドの日誌より 〜

                G.R.R.マーティン

       1986年12月15日 リマへの途上、そしてペルー

マヤの人々は、ジョーカーというのは神に祝福され、特別の恩恵を受けた存在だと考えています。
奇形と化し、ハンディを受け再生されたことが、栄誉であることを疑ってすらいないのです。
それだけではありません・・・

向かう先の、第三世界イスラム諸国の、イスラム教徒たちは他の存在に対して、寛容であると伝えられていますが、実際のところは、奇形に産まれることはアッラーの不興をこうむった、と考えられているようで、イランのシーア派や、シリアのヌール・セクトなどは、ヒトラーを信望するような恐るべき行為に及んでいるとのことです。
アヤトラ(高僧:慈悲)がシャー(イラン国主:政治)を退位させたことによって、教義が強められ、どれだけ多くのジョーカーが殺戮に供されてしまったことでしょうか。
 一部のイラン人(シーア派などの原理主義者)にとって彼(シャー)がジョーカーと女性に示した寛容さがシャーの最も大きな罪とされたのです。

そしてアメリカにおいても、レオ・バーネットのような原理主義者が、ジョーカーはその産まれながら持った罪ゆえ裁かれねばならない、と説いている姿にも重なってみえ、笑いがとまらなくなります、たしかに人の区別というものも必要なときはあるでしょう、しかしバーネット自身さえ、罪を憎んで人を憎まず、と口にしていたのを思い返すにつけ、そうなるとイエスに対する信仰さえ、呪いにすぎなく思えてならないことを懺悔せざるをえなくなります。
そしてもっとも恐ろしくてならないこと、それはバーネットもアヤトラ(イランの高僧)もマヤの僧侶も口にしている同じ信条に他なりません。
すなわち器とは、魂を反映したものである、という恐ろしい言葉が胸に突き刺さってきます。
マヤでは輝ける存在が慈悲の手を持って器をこねくりまわしたとされ、ヌール・アル・アッラーやアヤトラは、至高の存在が、その炎の息吹もて不浄を裁いたのだととき、どちらにしても、ジョーカーというものは相容れない存在であると説いているのは悲しむべきことです。

それに対してわたしの信条というものは、至ってシンプルなものすぎません。
ジョーカーであろうとエースであろうとナットであろうと、同じ人間だということです、ですから同じように扱われるべきなのですが、魂の奥深くの闇が、そう信じているのはおまえだけなのだと囁いてやまないのであり、その疑念をぬぐうことがなぜかできないことが悲しくてならないのです。