ワイルドカード4巻「ザヴィア・デズモンドの日誌」Ⅹその2

  ザヴィア・デズモンドの日誌

                G・R・R・マーティン

      まずはひどい話をすることをお許しいただきたい・・・
老人でありジョーカーであるということは、歳月と奇形というものが同時に積み重ねっているといえ、それはそれでつらいのですが、一番つらいことは捨てがたい自尊心というものが残されているということであり、それによる自己嫌悪の念が拭いがたいということなのです・・・
ナットの方々の多くはジョーカーを嫌っているというのはつらい現実であり、それが偏見であることが少なくないのは、他の抑圧されたマイノリティとさして変わることはありません、善意による毒というものがその憎悪の根底にはあるように思えるのです・・・
見た目ではなく、その下にあるものを見ようとする、その寛大な姿勢というものは非凡であり立派なものです、そういった寛大な人々・・タキオンにハイラム・ワーチェスターといった手近な人々をまずは例に挙げてみますと、この二人の紳士というものは、長年にわたりジョーカーに対し深く気にかけておられ、ハイラムは膨大な寄付を、タキオンはクリニックにおける献身的な治療において証明してきはしましたが、それは結局のところ、単に捩れた身体というものを見るのが苦痛であるという意識に端を発していて、そういう意味ではレオ・バーネットやヌール・アル・アッラーとも根本的に変わらないのではないかとすら思えるのです・・・
なぜならどんなに見た目に無関心で広い心を持っているように装おうとも、そして何人かジョーカーの友人を持とうとも、決して身内がジョーカーと婚姻を結ぼうとすることを望みはしないということです、これは語られざる真実であり、そのジョーカーフッド(歪な精神)というものは曲げがたいものとして存在しているというのは、タクやハイラムといった人々の偽善に形式論(ジョーカーの活動家やトム・ミラーのジョーカー公正社会同盟の全盛時に差別をさして用いられた隠語)を例にあげなくとも明白というものでしょう・・・
彼らが善良な人間であるということはたしかに疑いようのないことであったとしても、彼らもまた人間である以上、普通の人間の感情からは逃れられないというただそれだけのことなのでしょうから・・・
そしてもう一つ、ジョーカーフッド(歪な精神)というものの語られざる真実というものがあるのです、それはジョーカーがナットをせめる何倍も、ジョーカーが自身をせめる感情の方が強いということです・・・
自己憐憫というものはジョーカータウンに蔓延した心理的疫病のようなものであり、その害悪は致命的なものとなり、ときには生命さえ奪いもするのです、ジョーカーの多くが40歳にならないうちに死亡する死因として、最も多いのが自殺であるのですから・・・
すなわち身体構成が変化してジョーカーになるという災厄以上に、予測不可能であり、広範な災厄などありはしないということではないでしょうか・・・
そしてそれによって生じる自己憐憫の厄介さというものは、ジョーカータウンにおいて鏡を買うのは難しくとも、マスクならば各ブロックで買えるということでも明白というものでしょう・・・
それだけではありません、それは名前においても顕著であります、彼らが本名ではなく、主にニックネームで呼び合うというのは、本来の名を自己憐憫の淵に沈めて、スポットライトに照らされることのないようにするためなのです・・・
もしこの日誌が出版される日が来るとしたなら、
私は決してジョーカー、もしくは他のいかなる名前の日誌で出されることも望みはしません、歪んだジョーカーである以前に私は一人の人間であるところのその名、すなわち<ザヴィア・デズモンドの日誌>というタイトルで出版されることを強く要求するつもりですが、そんなものは言葉の綾にすぎず、フェミニスト(男女同権主義者)たちが遥か昔に思い知らされたことでも明白なように、名前などというものは本来重要ではないのです・・・
歯科医がフィッシュフェイスなどと名乗る中、私は本来の名以外を用いることなく、そのことを訴えてまいりましたが、ラグタイムのピアニストがキャットボックスと名乗ったり、ジョーカーの誇る数学者が<スリマー>と署名していたり、このツアーにもクリサリスにファザー・スキッド、トロールと名乗っている三人の人々と同行することになっている始末です・・・
もちろんそういった抑圧を感じているマイノリティというのは我々が最初というわけではなく、黒人の人々というのにもそれは当てはまるでしょう・・・
<黒が美しい>などと標榜しながら、若い娘の多くは、より肌の明るいコーカサス(白色)人種的風貌を好むことからも明らかといえるでしょうから・・・
とはいえフリーカーズにおけるヴァレンタインデーに毎年行われる<Twisted Miss捩れ美人>という莫迦騒ぎもどうかとは思うのですが、我々のタキス人の友人殿も唇の端を歪めるのみでその日をやりすごすのも賢明なのではないでしょうか・・・
問題は、ジョーカーに起こったことが一様でないということにあるのかもしれません・・・
私自身はこの変身が起こる前も、とりたてハンサムな男であったとはいえませんが、起こったあとも、象のそれの先に、指のついた鼻をとりたて隠そうとはしませんでした、私の経験というものはその数日において多くの人々が体験したものであり珍しいものでもなく、それを体験した人々は取りこぼされることなく同じ目にあったのだから、と己に言い聞かせたのです・・・
もしウィルスが、すべてのジョーカーに等しく象の鼻を授けた、とするなら<象鼻は美しい>というキャンペーンをしてもいいと考えたほどです・・・
ともあれ私の広い見聞をもってしても、象の鼻をもったジョーカーは私だけであり、共感を得られることの難しいナット文化の中で暮らし続けています・・・
いつかは私がハンサムであり、他がおかしな風貌であるといわれる日の来ることを夢見ながら・・・
とはいえファンハウスの裏の汚泥と見分けがつかず、そこを寝床としているスノットマンと呼ばれ忌み嫌われている連中もいるのが現実なのですから、彼らはタキオンのいうところの極端なケースとはいえ、そういった夢想をしてしまったことすら罪悪感を感じてならないのですが・・・
それでもフォーチュネイトとの係わりからは、ことに顔を背けたくてなりません・・
フォーチュネイトは・・いわばProcurerポン引きで、繊細で華美である、あらゆる閨の技やそれ以外の技術にも長けたゲイシャと呼ばれる高価なコールガール、を斡旋し、人々に多大な快楽を提供していた男でした。
私は、20年以上に渡り、ジョーカータウンに手を伸ばしていた彼の顧客であったのです・・・
クリサリスとて情報を盾に、好みのものに対してはクリスタルパレスの上階でことに及んでいたということは聞き及んでおり、裕福なジョーカーの中では、婚姻は結んでおらずとも、ナットの情人を持つものが多く、そして故郷の新聞が報じている通り、5つのファミリーとマフィアがジョーカータウンで抗争を繰り広げているのは、ドラッグやギャンブルと並んで、そこでの売春というものが見過ごせない収入源となっているからなのです・・・
ジョーカーになるということは、もちろんそれ自体を失うものもあるのですが、その機能のあるなしに係わらず、性別というものをまず失うのです・・・
たとえワイルドカードの影響が下腹部に及んでいなかったとしても、彼らはもはや男とも女ともみなされはせず、ただジョーカーと呼ばれることになるのですから・・・
正常な機能を有しながら、異常な自己憐憫に苛まれ、常に失われたものに想いをはせている・・・
男らしさ、女性らしさ、というよりも人間らしい美しさといって差し支えないものを追い求めるこころ、それこそがジョーカータウンにはびこる一番の魔物ではないでしょうか・・・私とてそれとは無縁ではありませんが、癌による衰弱に化学療法まで追加されるに至り、性に対する興味自体はもはや持ち合わせていないにも係わらず、それに端を発した恥の記憶というものは消えがたく残されていて、フォーチュネイトの存在はその記憶を呼び覚ます導火線となったのです・・・
そういった売春窟のパトロンであったのみならず、たとえ唾棄すべき世界の法であるとはいえ、その法を破ることも厭いはしなかった・・・
その私に彼の存在は、最も恥と感じている事実を突きつけてきたのです・・・
すなわち私がジョーカーの女性にけして欲望を感じなかったという事実を、です・・・
穏やかで、慎み深く、労わりに満ちていて、優しく私を受け入れようとした娘もいたというのに・・・
愛情深い友人以上の存在にはなりえませんでした・・
私は彼女たちに性的に反応することができはしなかったのですから・・・
私の目にも、あの娘たちは魅力的にはうつりはしなかったのです、あの娘たちの存在が、私の目には、ジョーカータウンと同じようにみすぼらしくしかうつりはしなかった・・・
その事実をフォーチュネイトが思い起こさせてしまったのです・・・
シートベルト着用のライトがつきましたが、私はこれまでになく穏やかな気分でいます・・なぜならこの文章、すなわち懺悔を、ようやく書き終えることができたのですから・・・