ワイルドカード4巻第10章その1前編

                 綾なす憎悪

                        パート3

                 スティーブン・リー

                     1986年12月23日 リオ

リオには怖気がはしる。
贅をつくしたアトランティカホテルの窓からリオの町を見ていると、マイアミのビーチにいるような錯覚を覚える。
白亜のホテルの前にパノラマのごとく広がったビーチは、穏やかに打ち寄せる青緑の波と強くまばゆい太陽の光にかきけされ、あらゆることの境界を曖昧にしてしまっているに違いない。
だから視察メンバーのほとんどが、リオにつくやいなや、その滞在をリフレッシュ休暇のように用いるようになり、特権を貪ることに余念がなくなって、ツアーが始まってわずか1月に係わらず、すっかりホリデー気分に染まり、理念などというものはどこふく風と、すっかり脱ぎ捨ててしまっているのだろう。
たとえばハイラム・ワーチェスターに及んでは、市内無数のRestranteリストランテ(レストラン)を梯子して回り、飲んで喰って騒いでを繰り返しているという体たらく。
記者たちですらCervezariaセルベサリア(ビアホール)にしけこんで地ビールに舌鼓をうっている。
わずかな米ドルでもかなり多額のクルザードに換金できるため、派遣団の裕福な者たちは、各ホテルの露天にあるブラジル人の宝石マーケットでの投資に余念がない。

そんな雑念を脇に追いやり、目の前の問題に意識を集中する。
旅行ガイドの注意事項に曰く:
街にでるときは宝石類を身に着けないこと。
バスには乗らないこと、タクシードライバーを信用しないこと。
こどもであろうとジョーカーであろうと警戒は怠らないこと。
ひとりで出歩かないこと、女性ならば尚更である。
何かを失いたくないならば、鍵をかけてしまっておくか、つきっきりで離れないこと。
リオの住人の大多数は貧しい人々であり、彼らにしてみれば旅行者というのは裕福な人間であり、絶好のかもにほかならないことを忘れざること。

が、そんなことばかりも言ってられないと、休息もそこそこに午後にはホテルを後にした。
臨時クリニックに行き、タキオンに会うことを思い立ったからだ、そこで黄色と黒のありふれたVWフォルクスワーゲン)ビートルのカブを呼び止めた。

海から町2つ向こうまでいくと、リオの明るさは薄れていき、込み合ってさびれた山沿いになる、そこから狭い道を抜けたところで、ビルの合間からコルコバードの古い景観が広がっているのが見える。
中央の小高い丘には救世主キリストの巨大な像が据えられており、ワイルドカードウィルスが、いかにコルコバードを蹂躙したかの象徴のごとくそびえたっている。
1948年にそれはおこった。
もともとリオは野蛮と貧しさを孕んだ町であり、内には虐げられた人々が薄皮一枚でひしめき合っている。
それをウィルスが解き放ち、町はパニックと暴力で包まれたといえるだろう。
なんらかの悪意あるエースが関与していると囁かれているが、ある朝、キリスト像が<変異>していたのである。
それは蝋人形が日の光にあぶられたような有様だった。
救世主キリストは猫背の怪物、ジョーカーになりかわっていた。
差し広げられていた片方の腕は、ねじくれゆがんだ身体によりそうように絡みついていたのである。
それがきっかけに暴動までに発展したのだ。
昨日そのいびつにゆがんだ像の前に20万もの人々が集まり、ファザー・スキッド(烏賊神父)がミサを開いて祈りを捧げたという。
セイラはタクシードライバーに、サンタ・テレサに向かうよう伝えた。
そこはリオの旧市街であり、ニューヨークのジョーカータウン同様、互いの苦しみを分け合うように、ジョーカーたちが身を寄せ合って暮らしている。
そこはコルコバードの影ともよべる区域であり、立ち入らないように警告もなされている区域であるから、エストラーダ・デ・リデンターの近くで、運転手の肩を叩いて「ここで止めて」とささやくと、運転手は早口で何かポルトガル語を口走りながら、車を脇に止めた。
タクシードライバーなどどいつも同じに違いない、ホテルを出たときに、料金メーターをつけるよう要求しなかったことを悔やみながら、知っている片言の現地語で尋ねた。
Quanto Costa?クワント・コスタ(おいくらですか?)」
「千クルザード(当時約40ドル)」と叩きつけるような答えが返ってくる。
あまりの暴利に腹にすえかねたが、英語で口論するのも無駄とあきらめ、百クルザードをたたきつけると、運転手はそれをとるやいなや、「Feriz Natallフェリース・ナタウ(メリー・クリスマス)」とあてつけるように言い放って、地面をこするタイヤの音も高らかに、急発進していなくなる。
中指を立てて、かすかな勝利の余韻にひたりながら、Clinica(療養所)を探し始めると、こんどは夕立ときた。
雨季のスコールは数時間で市街をずぶ濡れにするが、すぐに上天気にもどるのだ。
とはいえリオの治水設備は最悪と謳われているように、きつい傾斜を登りながら悪臭がからみついてくるように思え、おまけに道がせまいため、車が通りかかるたびに隅によけてやりすごさなければならない。
そして日が落ちたときに、貧しく哀れなジョーカーたちがわらわらと現れてくる、そんな妄想すら湧き上がってくるではないか。
そういえば観光スポットにはしょっちゅう巡回している警官たちも、ここではまったく姿を見せていない。
含み笑いをもらしながら、歩いたあとに髭面を突っ込み追いすがる狐面の男とか、傍らに忍び寄る人間サイズの巨大カタツムリに、ドアの影に潜む二首のポン引きなど、さまざまな妄想がむくむくと膨れ上がってくる。
少なくともジョーカータウンでは、これほど強烈な感情がわきあがることはない。
マンハッタンのセキュリティーが生きており、どんなことがあろうとも、街角の
電話ボックスにこもれば、助けを呼べることがわかっているからだろう。
ここにはそんなものはないし、おそらく失踪したところで、数時間は気づかれはすまい、そんな漠然とした不安を抱えながらも、ようやくたどりついた療養所に半ば駆け込むように入って、ようやく安堵の息をつくことができた。
先日他の記者連中と来たときとはいささか様変わりしており、こみあって、正気を外れたような混沌に覆われているかのよう、防腐剤と疾患と排泄物の匂いが交じり合い、ひどい悪臭を放ち、設備は薄汚れた旧式なものばかりで、簡易ベッドはあるが、狭いため可能な限り、積み重ねてあるしまつ。
そこにようやく、悪態をつき口角泡を飛ばしているタキオンの姿が確認できた。
そこにずっとつめていてホテルに戻っていないのだろう。
Boatardeボアタルデ(こんにちわ)、ミズ・モーゲンスターン」着ていた繻子の上着は脱ぎ捨てており、シャツの袖を、やせこけた腕の半ばまでまくりあげた格好で、肌が蜥蜴のようになった気を失っている女性の血液をサンプルとして抜いているところのようだ。
「手伝いにきたのかね?ひやかしにきたのかね?」
「あら、ここはサンバクラブじゃないのかしら?」
引きつったかすかな笑みをうかべながらひやかしてみたが答えはない。
「手を貸せばいいのね」そこでようやくタキオンが応じた。
Felicidadesフェリシダデス(御名答)」
タキオンに手を振って応じ、並んだ簡易ベッドの列に身体を割り込ませた瞬間、
クリニックの隅に目をやったセイラは息がつまるような衝撃と驚きを感じ、そこで表情を歪め凍りつかせてしまった、なぜなら
グレッグ・ハートマンが簡易ベッドの脇にしゃがみこんでいたのを発見してしまったのだから。
その簡易ベッドには一人のジョーカーが腰掛けており、おびえた様子で、やまあらしのようなとげのはえた羽を逆立てている。
そのジョーカーからは、独特な獣臭が漏れ出ているにも係わらず、上院議員ともあろう人が、病院の青い服を羽織って、そのジョーカーの怪我をした上腕を消毒しているではないか・・
匂いも、外見も厭わず一心不乱なその姿に、しばしみとれていたセイラにようやく気づいたハートマンは微笑んで声をかけてきた。
「これはこれは、ミズ・モーゲンスターンですね」
上院議員
ハートマンは首を振るしぐさとともに、茶目っ気たっぷりに駄目だしをしてきた。
「そんなにかしこまらなくていい、頼むよ、グレッグでいいといったじゃないか」
その落ち窪んだ眼とかすれた声が、疲れていて、かなり長いあいだここにいることを示しているではないか。
メキシコについてからは、できるだけ2人きりになることは避けてきた。
しかし出会ってしまった、感情を制御できていたら、こんな好悪が入り混じった複雑な感情になど苦しめられることはなかったであろうに・・
あの男が他の人間に及ぼす強い力に、他人に対して示す態度、そういったものすべてが、セイラの意志を揺るがせる、彼という人間に対して誤った見方をしてきたのではないのか、憎悪と新たな感情が、強烈な思いとなり、セイラは2つに引き裂かれんばかり。
グレッグは、そんなセイラを、暖かく、忍耐強い眼差しで見守っているではないか。
セイラは、その短く整えられた髪を手ですき、気持ちを落ち着けてからうなずいてグレッグに応じた。
「グレッグでしたね、でしたらわたしのことはセイラとよんでください。
タキオンに手を貸すよういわれたのですけど」
「よろしい、彼の名はマリウ、何者かの凶刃に襲われ傷を負っているんだ」
またたきもせずセイラを見つめるマリウのその瞳は、充血し、獰猛さを湛え、その唇はうなるようなかたちに引き込みながら、話せないのか、そうしたくないのか定かならずも、何も話はしなかった。
「なにをしたらよろしいかしら」周りを見渡しながら、答えを待った。
「それじゃマリウの手当てを手伝ってもらおうかな」
ちがうそうじゃない、こんなはずではなかったはずなのに、そんな思いを、頭を振って振り払いつつようやくセイラは言葉をしぼりだした。
「わかったわ、何からかかればいいのかしら」
黙々と作業を共にした、傷口はすでに縫い合わされており、セイラが厄介な棘を押さえ、グレッグが傷口を丁寧にぬぐっていった。
ひどい傷だけに、抗生物質の軟膏が固まってしみとなっている、それを拭いガーゼをまく、ぎこちないながらも、優しい手つきで一つ一つの作業を終えて、マリウから離れた。
「よし、これでいいぞ、マリウ」そういってグレッグが、軽くマリウの肩を注意深く叩いて合図すると、マリウは棘の生えた頭でうなずき、言葉もなくそこを離れていなくなると、グレッグがクリニックの熱気に汗だくになりながらも、セイラをみつめて口を開いた。「ありがとう」
「どういたしまして」そう応じつつもセイラが所在無げにグレッグから離れたところでさらに言葉がかぶさってきた。
「マリウも感謝しているでしょう、きっとね」
微笑むグレッグの姿に、一瞬赤黒い怒りの感情が被さったように感じられたが、それはすぐに消えうせ、なにごともなかったように腕を組んで話を続けた。
「あなたが現れるまで大変だったんだ、わたしでは役不足だったというわけだ、
君とのチームでなければどうにもならなかっただろうね、そういえばタキオンから支給物資の搬入も頼まれていたのですが、手をお貸し願えるかな?」
断る理由もないままにまた黙々と作業をともにし、棚に物資を移し変えつつ胸のつかえをはずして気を静めるかのように口を開いた。「ここで会うことになるなんて、思ってもいませんでした」
「録画されていないところで、奉仕をしているのが意外ということかな?」
もちろんその言葉には、攻めるような響きなどない、そして言葉とともに笑みが広がっていく「エレンはペレグリンとショッピングに出かけたし、ジョンとエーミィはデスクワークに忙殺されて身動きがとれないから、とめようがなかっただろうね」腕組みをといてさらに続けた。
「これも公務みたいなものだよ、タキオンを見ていていたたまれなくなった、というのもあるしね、それにちゃんとガードの連中には丁重に書置きを残しておいたんだ、『出かけてくる』ってね、いまごろビリー・レイは慌てふためいているだろうけど、どこにいってたかは内緒にしといて欲しいんだ」
そのいたづらを告白する子供のような話ぶりにつりこまれてセイラの表情はほころび、笑い声をあげることで、憎悪がちょっとだけ脇に追いやられたように思えたのだった。
上院議員、あなたはいつもわたしを驚かせてくれるのですね」
「グレッグだったよね?」やんわりと釘を刺してきた。
「ごめんなさい」わずかに浮かんだ笑みも維持できなくなった。
グレッグに何か引き寄せられ、そこに向けられた己の感情に気づき、それを振り払うのに必死で気がそれてしまったのだ、こんなはずじゃなかった、この感情は真実のものじゃない、言うなれば、あまりにも長く彼を憎み続けたために、気持ちのほつれを解消仕切れずにいるだけなのだろう。
空っぽで埃にまみれた棚の方に視線を無理やり向け、そこに並べようと、備品の箱を荒々しく引きあけたところで声が被さってきた。
「まだアンドレアのことでわたしを疑っているのだね」
それは確認とも詰問の間を揺れ動いているような哀調を帯びた声だった。
その声とともに、彼の存在が近くに感じられ振り払うように答えた。
「たしかなことなど何もありはしませんわ」
「ではまだ私を憎んでいるんだね」
「そうではなくて」
箱から発砲スチロールで包まれた備品を乱暴に引き出しながら、衝動的に言葉が口をついで出た、それは心からの叫びであった。
「わたくしにとっても、そう考えていたことが恐ろしくあるのです」
その感情をあからさまにだしてしまったことで何か無防備になったように感じつつも、グレッグが紅潮した自分の顔を見ていなかったことで胸をなでおろした。
憎しみからは程遠い感情を、すなわちグレッグに対する好意をほのめかす言葉を、うっかり口にしてしまった自分を忌々しく思いつつも、何か腑に落ちたような感情を己に感じていたのであった。
それでも、その感情を彼に知られてはならないのだ、まだ早い、そう己の中で確信に変わるまでは・・・
大気が緊張ではりつめ、それがやわらぐことをセイラは願った。
今グレッグが何を口にしようと痛みとなってつきささり、どんな視線を向けようとも、それはこころに血をにじませるであろうから。
サキュバスの面に、アンドレアの顔、理想の姿を浮かべてしまっただけの気の毒な男を、わたしが憎みつづけたのは、それが自分が望んだことであったからなのだ。
グレッグはその場では何も口にせず、肩越しに滅菌包帯の箱を手渡してから、一言言い添えた。
「奥にしまいこまなくてはね・・」と・・・