ワイルドカード7巻 7月23日

     ジョージ・R・R・マーティン

         午前8時


……駆け足で歩いていたが、裸足で血も滲んでいて
黒いコートを着た巨体の男に追われている。
何か叫んでいるようだが、足のたてる音以外は何の
音も聞こえてこない。
そうこうしているうちに足元が狭くなっていき、
バランスをとるのも難しくなっていて、闇に
のめりこんでいき、stygian gulf三途の川に張り出した
platform台地にたどり着いたと思ったが、男はすでに
そこにいて、その背は忌まわしく盛り上がっていて、
恐怖そのものといった体のその姿が、
ゆっくりと振り返り、
息の詰まるような恐怖が高まるのを感じ、
その表情の読み取れない顔が上がったとき、禍々しく
紅い触手が空を切り裂いて、ジェイの喉から迸った
叫びも、耳障りな騒音に紛れていって……
「寝小便でもしたんじゃないの」それはあざ笑うような声だった。
「ねぇエースなんでしょ」
その声にジェイは飛び起きていた。
スーツはくちゃくちゃで、わきばらはじくじく痛み、
頭はずきずき痛むときて、どこかの餓鬼が上から
覗き込むようにして、おかしくてたまらないといった
性悪そうな笑みを浮かべているではないか。
その小僧は一見上品そうな顔をして、仕草や訛りから
フランスのものが感じられる、その赤毛の目もくらむような
鮮やかさに、ジェイは一瞬南ブロンクスにでも飛ばしてやろうか、
などと想いはしたが、やめた方がいいと思い直した。
そしてくらくらしながらも、そういやこいつはタキオン
孫じゃなかったか、と思い出して、
「あんたの爺さんはどこだ?」そう訊きつつ、からかうような
言葉は無視と決め込んで、よろよろと身を起こすと、
降りようと下した脚の下のカーペットにはガラスが
飛び散っていて、踏むとバキバキといった音を立てている。
どうやら破片は長椅子の上まで及んでいて、破片が降りかかって
いたのが見て取れた。
そこで初めて窓が割れているのに気付いた。
いつこいつが割れたというのだろう?
そう疑問に思いはしたものの、小僧は肩を竦めるばかりで、
「いなかったよ」そう言って、
「娼婦でも見繕いにいったんじゃないかな」
「かもな」ジェイがそう応え、受け流すと、
「確か隣りの部屋にましなベッドがあったな、もちろん
長椅子より上等なやつだ」
そう言ってガラスを踏みしめバーに向かい、酒を物色して、
封の切っていないコニャックのボトルを見つけだした。
迎い酒といくか、それもいいな。
そんなことを考えていると、
「あんたポピンジェイ(めかし屋)だろ」などと高飛車な
声が聞こえてきた。
どこかの御仁そっくりだな、ちびなところも含めて。
そう思いつつも「ジェイ・アクロイドだ」と訂正してから、
「そう言うお前はどこのどいつだ、キッド・タキオンとでも
呼んでやろうか?」そう言い返すと、
Braiseブレーズだ、タキスのクオーターだよ」幾分誇らしげに
そう返された言葉に、
「だったら俺も14分の一くらいはクロアチアの血が混じってるかもな」
そう答えつつ、コニュックに視線を戻し、こいつは喉を焼くような味が
するに違いない、と思いつつ、グラスを取り出して注ぐことにした。
3分の一程度、これで半分、4分の三くらいか、このぐらいに
しておこうと思いつつも、なみなみと縁まで注いでしまっていて、
慌ててぐいっと呷ると、やはり目が回るような心地がして、
悪態をつきそうになったところで、<I`m A Little Teapot>の
メロディがジェイ自身の口から甲高い裏声で響き渡ったかと思うと、
そのわずか後に、コニャックのグラスが指から滑り落ちていて、
カーペットの上に転がっていた。
それから一瞬暗くなった視界が戻ったところで、ブレーズが
目の前に立っていて、腕を組んで、満足げに微笑みながら、
「タキス人を甘くみるなかれだよ」ジェイにそう言うと、
「口にはきをつけることだね、僕はあんたがたを何でも思い通りに
できるんだからね」そう言って笑いだすと、
「ひどいありさまだね」と言って悦に入っているではないか。
「まぁいいさ」ジェイは被ったコニャックの匂いにむせそうに
なりつつも、
「探偵というのはつまるところ汚れ仕事だからな」と言い返すと、
「そうなの?」とからかうことも忘れて感心してくれたから、
ジェイとしては多少は自尊心が保てたというものさ、などと自嘲し、
「そんなものさ、もちろんそんな気分など味あわないにこしたことは
ないわけだがね」
「例えばどんな?」ブレーズが食いついてきたところで、
「そうだな」ジェイはそう言って、
「立ち小便をするときの無防備な状態に似てるかな?」
そう言うと、指を銃のかたちにして、ブレーズに向け、
露骨なウィンクをしてみせて、
「そう、そんな無防備な状態だ」そう言い放ち、
ジェイはゆったりと微笑んでいた。
ポンといった音と共にブレーズの姿は消えていたのだ。
驚いた顔が見れなくて残念だ。
そんなことを考えて、指を銃のかたちにしたままの
ところで、ドアが開かれ、いかにもくたびれ果てたと
いった体のDrタキオンが入ってきた。
そして嫌な顔をしているところに、
「ドク」そう声をかけ、
「つまりだな、ちと用心がすぎたというとこかな」
と言葉を継いでいたのだ。
悪戯がばれないよう祈る悪ガキのように。













I`m A Little Teapot
http://www.worldfolksong.com/kids/song/little_teapot.htm