その16

        午後8時
      ヴィクター・ミラン


藁を思わせるビニールで編まれたハートマンという
文字の踊る帽子を被った代議員の間を縫うように
すり抜けながら、
まるで空気のようだ。
とマッキィは考えていた。
身体の位相を変えて元に戻ったところで彼自身は
何も変わるところはない、とはいえ.......
今回はまるで雲になって飛び散ってしまうように
思えてならない。
そういえば昨日は寝ていなかった。
ニューヨークのポートオーソリティから乗った
バスで、酒の匂いのぷんぷんする簾中に挟まれて
その匂いでまんじりともできなかったのだ。
エイズを怖れつつもタイムズスクエアでつまんだビジネス
スーツを着た野郎はえらく高くついたがひどいものだった。
ポケットに幾らかの札束はあるが、数百ドルむしりとられた
にしても、それでも飛行機に乗れるくらいの額はのこっちゃ
いるが、
飛行機に乗ることはできなかった。
三回空港に行って飛行機を眺めていたというのに……
あの方は失望しているに違いないというのに……
ひきつけられるようにあの方のいる演台の前まで来て
しまっていたのだ。
もちろん大っぴらに人前で会うことなどできないし、
そうするつもりもないが、
ただあの方の近くにいる必要があったにすぎない。
まるでデス・スターのように上空に張り出したマスコミの
ブースの下から、
タスキをかけて叫んでいる汗臭い男と、淡い色の
ドレスを着た太った女の間へ鰻が動くように通り抜けて
彷徨っていった。
どの顔も汗と油にまみれ資本主義をだいなしにする貪欲さに
満ちていて、
その光景は嫌悪をもよおすものにすぎず、
奴らの示す愛も献身も失意すらもハートマンにふさわしいもの
ではないように思える。
演壇はというとライン河畔の蒼い城のように聳え立っているが、
まだハートマンの姿は見えない。
演壇の上では彼について話してはいるようだから、左右を
見回してハートマンの姿を探していると、
まるでウェディングケーキを積み重ねたような演壇の左右に
しつらえられたボックス席から小柄な白い人影が動いて視線を
よぎった。
白いドレスの女が前を横切って、演壇の左側のお偉方の間に
腰を下したようで、けばけばしい白い羽の仮面をつけていて、
その羽が照明の下で銀色であるかのように光を照り返している。
そこでマッキーは考え始めた。
薄汚いジョーカーの売女だな、そう思いながらもどうしてそれほど
気になっていたかに思い至った。
この女の歩き方には見覚えがある。
手足や身体の動かし方に癖があるのだ。
マッキーはザンクト・パウリで多くの売女の間からそうやって母を
探したものだった。
間違いない、これはセイラ・モーゲンスターンの歩き方だ。
母が死んで以来、女のことなど気にもとめてこなかったからよく
わかるのだ。
喜悦と怒りの入り混じった感情が沸き上がるのを内に感じながらも、
できるだけその感情を人混みの方に向けて抑えることにした。
そうして己に言い聞かせていたのだ。
もはやあの方を失望させることは許されない。
だからあの女を逃すわけにはいかないのだ、と。