その21

        午後8時

      ヴィクター・ミラン


後ろに飛びのいていたが、どうやら殴られたようで、
顎にハンマーでもぶつけられたような感覚があって、
首の筋肉が悲鳴をあげているではないか。
もし顔面でこれをうけていたなら、首の骨が折れて
いたに違いない。
どいつがやったんだ?
前が見えた、と思った瞬間にもう一度殴られていた。
どうやら顔がひどい有様になった黒い髪の男の
仕業のようで、
まるで死体のような歪な顔を歪め、嫌らしい笑みを
浮かべている。
服の前は飛び散った赤で彩られていて、
赤いソースのスパゲッチィを乱暴に食い散らかした
後のような有様だというのに、
噴き出していた血の滴りもだいぶ収まったようで、
「どう控えめに言っても、Son of a bitchくず野郎だな」


そう大声でがなりたて、マッキーに拳を奮ってきたでは
ないか。
恐怖で泣き出しそうになりながら、
この怪物はどうにもできないのではなかろうか?
そうして恐慌に駆られたまま、位相を変えていたが、
頭がしびれるような感覚がありはしたが、衝撃自体は
身体をすりぬけたところで、虎のしなやかさで素早く

位相を戻し、攻撃でも防御でもどちらでも使えるよう
腕を振り回し、マッキーはそうして男の前に立って
いるうちに、怒りが恐怖より勝ってきて、
テンプルに一撃お見舞いしてやろうと思い定め、
あの頭を真っ二つにしてやったらどうなるかな……

と思い立ち実行してみたが、ナイフの
ように鋭く振り上げられた手で阻まれていて、
洗濯バサミで指を挟まれたように弾くことはできた
と思った瞬間に、
男は後ろに飛び退って、直接頭を攻撃されるのを
避けていたのだった。
息をするたび、わき腹がかぎ爪でつかまれているように
痛む。
どうやら組み付かれた際に肋骨を折られたようだ。
位相を変えて、演壇の外壁に飛び込んで、演台の下の
スタンドの陰になって代議員達から隠されている空間に
飛び込んだ。
そして直角に切り立った演台の柱の陰から様子を伺って
いると、
片方の耳から何やらコードを垂らしたえらくがたいのよい
若い男が一瞬ポカンとした顔をしていたが、気を取り直して、
紺のスーツのコートから小型の自動拳銃を抜いて構えたのを
見て、
マッキィはそいつの目に視線を合わせたまま嘲笑ってみせると、
その私服警備員の指は引き金を引いたが、
9mmの弾丸は位相を変えたマッキィの身体を通り抜けて、
後ろにいた人間が巻き添えを食い、叫び声が轟いたところで、
マッキィは私服警備員の脚を下から切りつけて、
膝の辺りまで切り裂くと、
血にまみれた脚の下半分のみを残して、
男は金切り声と共に奈落に落ちていった。
縁談の横には白いジグラットを思わせる奴が歩いて
いるが、
よじ上るにはそいつはちとのっぽすぎるだろうと考え
苦笑しながらも、
ともかく上に上がろうとよじ登ろうとし始めたところに、
背後からいきなり殴りつけられて、奈落の壁に
叩きつけられて頭がくらくらしているように
感じていると、
人形のように摘みあげられて、再び奈落に叩きこまれ
ながら、
{Muttiムッティ(ドイツ語で<ママ>の意」呻くように
「マミィ(ママ)」とそう呟いていると、
黒い髪の男がそこにいて、
切り裂かれた拳を無事な拳と組んで叩きつけて、
切り裂かれた唇から歯を覗かせた壮絶な顔で唸り
ながら……
虎のように跳躍し、飛び込んできたではないか、
そこで必死の思いで壁に向けて身体を跳ばし、
腕を上げ、振動させて、
手で拳を受け止めはしたものの、
熱く粘つく液体を顔にしぶかせながらも、
それが油ぎった濃紺じみた紫のペナントであるかのように
意に介さず、背にした壁ごとぶち抜こうとしてきたでは
ないか。




         ヴィクター・ミラン


セイラはVIP席の床に身を沈めながらも……
ようやくハートマンの状態をきちんと把握できた。
確かに私服警備員達が彼の上に覆い被さってはいるが、
彼らは観客席に気を取られていて、特別招待の席になど
少しも気に留めていないように思える。
そこで彼らがどいたところでハートマンを殺すチャンスが
あるのではないかと思いはしたが、
すでに銃は手から離れていて、
拳でボックス席の床を打ちすえることしかできは
しなかったのだ。
もどかしさに身もだえながら……