ワイルドカード4巻 スリランカ 「インドの涙適(仮)」その5

ダンフォースが寝ぼけ眼で顔を出したのは、9時過ぎになってのことだった。

ジャヤワルダナにしたところで、すでに二杯目のお茶に口をつけていたが、

それでも泥の中にいるように全てがゆっくりと感じられる有り様で

ありながら、

「ミスター・ダンフォース。戻る前に一度ご挨拶をと思いまして・・・・・・」

ともごもご言葉を絞り出すと、

ダンフォースは鷹揚に頷いて返し、

「寄ってくれて助かった。皆で写真を撮ることになっていてね。

マスコミ用というやつだ。付き合ってくれないか?」

幾分派手に欠伸をかみ殺すと同時にそう言い出して、

「俺もコーヒーでも飲むとするか、そろそろ準備ができるだろうから、

挨拶ってのはその後でいいかな」などと言ってきたものだから、

「今すましておきたいんだがね」と応え、

ジャングルを目線で示し、

「あそこまで歩きながらでどうだろう」と示してみせると、

「あんな物騒なところでか?毒蛇もでるんじゃなかったか?

勘弁してくれないか?」などと言って困惑しているダンフォースは、

「後でいいだろ、今でなくて」と言い募ってきたから、

お茶を一口飲み込んで、その場から離れ、

ダンフォースは、数百万ドルのプロジェクトを担っているのだ。

神経質になるのも当然というものだろう。

そう己に言い聞かせ、納得することにした。

そうしていると巨大な<猿>の前に、スタッフのほとんどが

集まっていて、<猿>の正面に座り込んだポーラは、スケジュール表の

ようなものを眺めていて、顔を上げもしなかったが、

「あまり眠れなかったのじゃないかしら?」と声をかけてきた。

「まったく眠れなかったわけじゃない、少しの間だけだったけれどね。

こういった仕事の常、といったところかな。

結局ロジャーとミスターDが顔を出したもんだから、一晩中付き合わされて

今に至るというわけさ」

ポーラは気怠げに、頭を後ろにもたれかけてから、ゆっくりと首を振って

みせ、

「まぁいいわ、ロジャーにロビン、それからボスが来たら、とっとと

写真を撮って終わらしちまいましょ」

と返された言葉を聞き、残りのお茶を飲み干したところで、シンハラ人に

数人のタミル人やムスリムといった顔ぶれの、残りのエキストラ達も

出揃っていた。

皆英語で話している。英国の植民地であった歴史を思えば、別段特別な

ことでもあるまい。

監督の取巻きといった体のプロデューサーは目を細めて見せ、

「<猿>が向こうを向いてるじゃないか、どうにかならないか」

などと言ったものだから、守衛の男達が駆け回って、何とか体裁が整い、

「ちゃっちゃと終らすぞ」と掛け声が掛かったところで、

口笛が響いたかと思い、振り返ると、身体のラインがはっきり見える

銀色のドレスに身を包んだロビンがそこにいた。

「今こんな格好をしなくていいと思わない?熱いったらありゃしない」

などといって腰に手を当てて苦笑していたが、ダンフォースは軽く肩を

竦めてみせ、

「なんならこのままジャングルにお連れしてもいいんですがね」などと

言い出したものだから、ロビンは口を閉じて黙り込むことになった。

そこでダンフォースは手を打ち鳴らし、

「みんな、持ち場に戻るんだ」と号令をかけたところで、

守衛の一人が駆け寄って来て、

「投薬はどうしましょう」と言っているのが、

近くにいたジャヤワルダナにも聞こえていて、

「まぁおとなしいようだから心配ないんじゃないかな」

と顎をさすりながら返し、

「写真を撮り終わったら投薬すればいいだろう」

と言い添えたところで、

「わかりました」と守衛が応えたところで、

【猿】の呼吸が乱れたように感じ、

ジャヤワルダナが振り返ると、

瞼が震えたかと思うと、瞳が開かれていて、

瞳孔は開いたままながら、眼球をゆっくりと

動かしていて、カメラを見たかと思うと、ロビンに

視線を据えたところで動きを止めていた。

ジャヤワルダナが背筋が凍るような思いで、それを

見ていると、突然大きく息を吸い、咆哮を上げた

ではないか。

百獣の王を思わせる大音声だった。

慌てて逃げようとしたが、逃げ惑う人間に行く手を

阻まれ、思うようにならないでいると、<猿>は

荷台の上で前後に身体を揺すって、タイヤの一つが

破裂したところで、また咆哮し、鎖に手を伸ばし始め、

ジャヤワルダナが必至で立ち上がろうとしていると、

金属の擦れる音に次いで、耳障りなばちんといった

音が響いて、四方に鎖が弾け飛んでいたのだ。

守衛の一人に破片が当たったようで倒れて呻きをあげて

いた。

ジャヤワルダナは揺れる荷台に難儀しつつ、駆け寄って

助け起こし、後ろを振り返ると、<猿>はそこには

いなかった。

そこで守衛の男に向き直ると、

「肋骨を何本かやられたようです」痛みの感じられる

声で、そう伝えられながら、

「私は心配ありませんから」と言い添えられたところで、

今度は女性の悲鳴が聞こえてきた。

【猿】の姿はプレハブの陰から見え隠れしていて、右腕に

誰かを抱えていた。

ロビンだ。

そこで銃声が響いたが、<猿>の動きは素早かった。

そのときテントの一つに手を伸ばした<猿>は、

テントを掴んで、今しも撃とうとしていた守衛の一人に

放り投げていて、テントの布は守衛の腕に絡んで身動きが

取れなくなっていた。

「やめろ!撃つな!」ジャヤワルダナは声を振り絞って

そう叫び、

「女に当たる」と他の守衛に伝えるようにしていると、

【猿】は辺りを睥睨し、女を掴んでいないほうの手を

振り回しつつ、密林に肩から飛び込んでいった。

ロビン・シマーズの表情は闇に紛れて見て取れなかったが、

だらんとしていて気を失っているように思えた。

ダンフォースは頭を抱えて蹲り、

「そんな莫迦な。あの鎖がちぎれるなんて、あれは

チタン鋼でできてるんだぞ、それなのに」などと

呟いているプロデューサーの肩に手を置いて宥めるように

しながら、

「ミスター・ダンフォース。一番速い車と優秀な運転手を

お借りしたい。できれば、同道していただけると助かるの

ですがね」と切り出していた。

ダンフォースは顔を上げると、

「どこへ行く気だ?」と問い返してきた。

コロンボへ戻るんです。そこにならあなた方の国の

エースがそろそろ到着している頃合いじゃありませんか?」

そして強いて笑顔を浮かべてみせ、

「この島はかつてSelendibセレンディブと呼ばれていました。

幸運の島という意味です。今はその幸運を信じるとしましょう」

「確かに彼らならなんとかできるかもしれんな」

そう応え、立ち上がったダンフォースの顔色は明るくなっていた。

「他に何か必要なものはあるかしら?」シャツの袖で目頭を

拭いつつ、そう声を掛けてきたポーラに、

「できる限りのことはするつもりだ」ダンフォースもそう

言葉を被せてきた。

そこで再び【猿】の咆哮が響いてきたが、それは遥か遠くからの

ものに思えてならなかったのだ。