ワイルドカード7巻 その17 

          ジョン・J・ミラー

            午前9時


ブレナンはベッドの脇のナイトスタンドに置かれた電話の
立てる不協和音で目を覚ました。
ホテルの部屋で、寝乱れて垂れ下がっているベッドに
腰をかけ電話を取りながら、
強張った肩とひりひり痛む背に呻きをもらした。
オーディティによって壁にぶつけられた痛みが残って
いるのだ。
「もしもし」と話すと、
「おはようございます、ミスターY]と返されてきた。
それはトライポッドの声だった。
「見つけましたよ、ご依頼のブラジオンという名の御仁をね」
「さすがだな」ブレナンはにこりともせずに応えて続けた。
「それでどこにいる?」
「Uncle Chowder‘s Clam Bar<チャウダー親父の蛤料理>の
ところにある店です」
トライポッドがそう応えると、 
「了解した」
ブレナンはそう応えて電話を切ったが、
しばしベッドの端に腰掛けたまま動かずにいた。
まだ昨晩の疲れと痛みが尾を引いているだけではない。
そうジェニファーとの連絡もとれていないことが圧し掛かった
ように思える。
これまでにあまりにも多くの友や愛する人を失ってきた。
もはやこれ以上誰かを喪うことに耐えるには年をとりすぎた
とでもいうことなのだろうか。
注意深く立ち上がって、じんじん痛む背中と肩を伸ばしてみたが、
(くそったれが)そう呟かずにはいられなかった。
どうにもうまくいかない、以前と同じではないのだ。
やはり休息が必要だろうが、
時間がない。
食事も必要だろうし、
そんなことより何よりこたえるのが、
やはりジェニファーがいないことで、
その感情がどうにもならないということなのだ。
着替えながらも、弓は持っていかないことにした。
この肩の状態ではうまく引き絞ることはできないだろうから。
ブローニングももはやない。
オーディティと格闘した際に落してしまったのだ。
(いいさ)そう己に言い聞かせる
素手でブラジオンを相手にするのも悪くない
幸先がいいというものだ)と。


トライポッドは、ビルの漆喰が塗られていないむきだしに
なった煉瓦壁にもたれかかっていて、
ネオンの看板が、一階にあるレストランの<チャウダー
親父の蛤料理>という名を示している。
山高帽と杖を持った軟体動物が棒のように細い脚で踊り
ながらピンクのネオンで彩られ微笑んでいて、
壁には杭の突き出た錆びたフェンスがついていて、
そこから地下に向かう階段につながっている。
そしてフェンスには6本指の手が描かれた看板がボルトで
留められていて地下を指し示していた。
やはりここはジョーカータウンということなのだろう。
Squisher`s basement<スキッシャーのお膝元>か。
ブレナンは地下の店名を読み上げてからトライポッドに視線を
向けて尋ねた。
「ブラジオンはまだこっちにいるのだな?」と。
「見張っていましたからね」ジョーカーが応えた。
ブレナンは頷きながらジーンズのポケットから札束を取り出して、
20ドル札を2枚トライポッドに手渡した。
「スキッシャーではナットはいい顔をされませんぜ」
ブレナンはマスクの下で微笑んで応えた。
「忠告に感謝する」と。
そして階段を降りていった。


<スキッシャーズ>は飲み食いするジョーカーで溢れていて、
洗剤に零れたビール、吐瀉物を混ぜ合わせたような独特な匂いで
満たされている。
灯りはというとぼんやりと薄暗いが、
ブレナンが入っていくと、回転椅子に座った常連客の視線の
向けられたのがはっきりとわかった。
ブレナンが近づいていくと、会話が途切れ、
通り過ぎると話し始めるのだ。
(トライポッドの言った通りだな)
ここは厳密にいうならばジョーカーの吹き溜まりであり、
彼らにとってそれが居心地の良さにつながっているのだろう。
バーによくある酒のボトルの積まれた棚の向こうには今まで見た
ことのない程大きな水槽があって、
暗く淀んだ水面に何かが浮かんでいるとみえて、
水面が波打ち、
何者かの頭が浮かび上がってきて、
冷たく瞬きもしない瞳でブレナンを見つめているではないか。
「ここはあんたのような奴の来る場所じゃないぜ」
ようやくそのジョーカーが口を開いた。
顔は青白く、丸い頭に髪はない。
魚のような口に尖った歯が並んでいるではないか。
「ナット野郎が、あんたナットだろう、俺はそう言ったんだ」
「客の一人に用がある」
スキッシャーはその魚眼で睨みながら応じた。
「何の用があるってんだ?」
「あんたには関係ない」
座っているジョーカー達がざわめきはじめた・・・
「ここは俺の店だぞ」スキッシャーが言い募る・・
「ここで起こることに関係ないことはあるまい」
そしてそう言うと水槽内を見つめ、骨のない腕を
突っ込んで何かを掴んだ。
橙色の鱗が煌いて、スキッシャーは小魚を口に
放り込み、
二度噛んでから飲み込んで見せ、
再びブレナンを睨みつけている。
ブレナンはポケットからスペードエースのカードを出して、
そのジョーカーに示して見せた。
スキッシャーは目を細め、
触手のついた長い手をしなやかに伸ばして、
ブレナンからカードを奪い取ると、
顔の前でまじまじと見つめてから、
無言で水面下に沈みこんでいった。


そしてブレナンが周りを見回すと、
客たちは突然飲み物に対する関心が高まった
ように口をつぐんで、
隅の暗い一角で、ブラジオンが一人で座っている
のに気がついた。
ブラジオンだというのはすぐわかった。
ブレナンがブラジオンに会ったのはタイムズ・スクエア
混乱と喧騒のさなかで、おおよそ二年前であり、
一度でしかなかったにも関らず、
容易に忘れられないだけの印象があったのだ。
ブラジオンは身長7フィートの襞と傷のある顔の醜い男で、
筋肉と骨が捩れて鋏状になった右手を持っている。
初めて見たときよりもやつれたようで、
ぶかぶかの服に、
肌は染みだらけ、髪は長く薄汚れたまま、
何も見えていないといった様子で、独り言を呟いていたが、
ブレナンが近づくと、
黄色く濁った白めに赤い静脈が浮き出て焦点を結んだとみえて、
ブレナンが憐れみとも嫌悪とも着かない表情でみつめていると、
「何が望みだ?」と長い沈黙の後にようやく声をかけてきた。
「クリサリス殺しの件についてだよ」
ゆっくり区切るようにそう訪ねると、
ブラジオンはその病的な目に火花を散らしたような光を宿しながら
話し始めた。
「そうとも」
その声はしわがれたものだった。
「俺だよ、あの腐れ***の売女をおれがやったのさ。
一杯おごってくれるなら話してやるぜ」
「まずはどうやって殺したかだ」
ブラジオンはその鋏になった右手を持ち上げて応えた。
「こいつで頭を潰してやったんだ、銃も、ナイフも必要ない、
この手でことたりるからな」
ブレナンの顔に嫌悪が滲み、目に軽蔑の光が宿りはしたが、
酔ったジョーカーはそれに気づいた様子はない。
「どこでだ」
ブレナンはそっと訪ねた。
「何がだ?」
「どこで殺したかと聞いているんだ」
「酒場だとも」まごちきながらさらに続けた。
「バーの床で俺の**をぶちこんでやったのさ」
目に病的な光を宿し笑いながら続けた。
「そうとも死んだのを確認してから頭を潰したんだ」
「Scumこの屑が」
ブレナンは硬く引き結んだ口からその言葉を搾りだしていた。
「なぜそんな嘘をついたか聞かなければ貴様を殺すことができるのだぞ」
ブラジオンは目を白黒させながら、何を言われたかわからずにいたが、
ようやくその濁った頭にその言葉が染みこんだとみえて、
立ち上がり、叫び声を上げながらテーブルをブレナンの方に押しやったが、
ブレナンはなんなくかわし、テーブルは床を削ったにとどまった。
ブラジオンは叫びながら鋏を振り回してきたが、
ブレナンはゆったりとそいつをかわしつつ、手首を掴んで肩に担ぎ、
ブラジオンを床に叩きつけると、
そうして店のジョーカー達が雲の子を散らしたようになって、
ブレナンが椅子を掴んだところで、
スキッシャーが水槽から上がってきて、
「水槽があるのだぞ」激昂して叫んだ。
「ガラスが割れたらどうする」
ブラジオンは壁際に追い詰められて、恐怖と痛みを湛えた瞳でブレナンを
見つめていたが、
ブレナンが掴んだ椅子を振り、ブラジオンの腹に叩き込むと、
水から上がった魚のように口をぱくぱくさせていて、
再び椅子を叩きつけると、バーのスツール三本に背中を
ぶつけて、
それから弱弱しく立ち上がろうとしたが、
筋肉がたるんだかのように動けずにいて、
ごぼっという音とともに血の塊を唇から吐き出して、
弱弱しく手を振り回し始めた。
ブレナンが構わず三発目を叩き込むと、
ブラジオンは椅子を抱たままえ、背中に筒状の金属の冷たさを感じていて、
身体から伸びた脚が極端に捩れた抽象絵画ように見える。
「殺したのは貴様じゃないだろ?なぜそう吹いて回ったんだ?」
ブレナンがそう低い声を絞り出すと、
「仕事が欲しかったんだ」
ブラジオンは喘ぎながら語りだした。
「誰もいなかったんだ・・誰もチャンスをくれやしなかった。
フェードアウトかフィストの誰かの耳に入ったなら、
チャンスをくれると思った、ただチャンスが欲しかっただけなんだ」
「そんなことのために嘘をついたというのか」
ブレナンはそう低い声で呟きながらも、割り切れない思いを感じずにはいられなかったが、
その思いを押し殺して何か手がかりを掴まねばならないと思い直し視線を据えて言葉を搾り出した。
「俺はクリサリスの友人で、殺した犯人を捜しているんだ、憶えて置け」と。
そしてスペードエースのカードをブラジオンの上に落として、
バーを後にすることにした。
ブレナンがドアを目指すと、客の一人がブラジオンから革のジャケットを剥ぎ取ろうとでもしたのだろう。
バーにブラジオンのじたばたする音と震えた声が響き渡った。
憐れな啜り泣くような声が。