ワイルドカード7巻 7月21日 午後10時

     ジョージ・R・R・マーティン

         午後10時


ディガーの言ったことで一つだけ確かなことがあるとしたら、
カーヒナと名乗る女性が最後に泊まったホテルがあるという
ことだろうか。
ロビーでは年嵩のジョーカーが半ダースほどたむろしていて、
白黒画面のPhilco真空管テレビを見つめていた。、
ジェイがそこに入っていくと、一様に淀んだ瞳を向けては
きたが、誰も口は開かなかった。
そこのジョーカー達にはロビー同様、独特の枯れたような
匂いがするようだ。
受付には髪を後ろでひっつめた60年代風の服装をした女性が
夜勤についていて、口からジンの匂いを漂わせていて、この
女性が件の女について何か知っているとも思えなかったわけだが、
ともあれ10ドル札を取り出してそこに置いて聞いてみると、
宿泊簿を見せてくれることを快諾してくれた。
建物同様ろくな状態ではなかったが、それでも30分ほど待つと
目当ての1987年の5月と6月のものを探し出してくれていた。
現金の先払いで2か月の間、三階の一部屋を借りたことになって
いたが、三週間も経たない内に、その部屋は空き部屋になったようで、
スティグとのみ記された人間に貸し出されたことになっている。
そこでジェイが宿泊簿のその部分を示して、「この女だ」と
呟くと、宿泊簿の下からまだ10ドルが顔を出していて、それが
記憶を刺激したかのように女は「ああ、その人ですね、綺麗な
人でしたね。一度か二度しか会ってないけれど、えーと何と
いったかしら、中東系のアラブの国の人のように思えたけれど……」
「シリア人だよ」ジェイはそう応え、
「この人に何が起こったんだ?」そう訊ねると、
女は肩を竦めて、
「なんせ出入りが激しいものだから」などと言っている。
「このスティグというのは何者だ?」ジェイがそう言葉を向けると、
スティグマータね」女はそう応えてから、露骨に嫌な顔をして、
「あまり良い印象はないの、見るのも憚られるような奴よ、ジョーだけは
例外で、ジョーカーだって住む場所は必要だから、と言って
いたものだけど、私にしてみればね、あの連中はね……正直どうかとは
思う類だけれど、結局支払いが滞って、ジョーが立ち退かせた
部屋にあの人が入ったのよ。
それから数週間後に金が入ったとみえて、スティグはあの部屋に
戻りたいと言ってきて、あの女性が数週間で姿を見せなくなった
ものだから、スティグにあの部屋を貸したの」
「何か身の回りの品は残ってなかったのか?」
「例えばどんな?」
「服だとか、そんな感じのものだ」ジェイはもどかしく感じながらも
そう応え、
「手紙とか、パスポートだとか、旅行鞄だとか衣服だか、とかだ。
いきなり姿を消したのだから、そういったものは始末しちまったのか、
ということさ」と言葉を被せると、
「そうね、あったとは思うけれど」女は上目遣いにジェイを見つめつつ、
「あなたはあの人の身内ですか?そうでなければ渡すことはできません。
つまり認められていないということなのですが、いかがですか?」
「もちろん身内じゃないがね」ジェイはそう応え、
「確かミスター・ジャクソンくらいしか親類はいなかったんじゃないかな」
などと適当なことを言うと、
「何を言っているの?」と露骨に怪訝な声を上げてきた。
ジェイは深く息を吐くような、呆れきったという溜息をつきつつ、
「20ドル上乗せしたらどうだろう」幾分あきらめ気味にそう言葉を
被せると、女はたちどころに理解したとばかりに、後ろのハンガーボードから
鍵をとりだすと、薄暗く埃っぽい地下にジェイを案内してくれた。
湯沸かし器の向こうには段ボール箱が積みあげられていて、そこには
部屋番号が記されているようだ。
下になった箱には黴が生えて潰れかかっているうえに、番号もよく
読めないようになっているが、幸いカーヒナの部屋番号の箱は上に
積んであったのですぐに判別できた。
そこで箱を下してロビーの隅まで運んで中を見た。
聖典の英訳版に、マンハッタンの市街地図に、1976年の大統領選挙に
ついて書かれたペーパーバックもあって、グレッグ・ハートマンについて
書かれたあたりはよれよれになっていて赤線が引かれてあった。
それから服に紛れて生理用品もあった。
ジェイは二度それらを確かめてから、箱ごとデスクの上まで運んで、
「他にはないのか?」と声をかけると、
「これだけよ、これで全部だわ」と返されたところで箱をどすんと
デスクの上に下ろした際に、肋骨に響いて呻きを漏らしてから、
それを指し示しつつ、
「40ドルくらいかけたにしちゃお粗末な代物じゃないか。
こんな程度のものだけ持ってシリアから来たというのか?
おいおい、旅行鞄にまだ服があったのじゃないか?
ことによっちゃ現金に宝石、財布にパスポートすらなかった
というのか?」
「ありませんでした」女は即答してのけて、
「見つかったものはこれで全てですよ、ジョーカー達がどうか
したかもしれないわね。油断も隙もあったものじゃない連中だから」
「ともかく部屋を見せてくれないか」そう言葉を被せると、
露骨に嫌な顔をして、
「私も行かなきゃならないかしら」などと言い出した。
さすがにこれ以上相手はしていられないと判断し、ジェイは
指を銃のかたちにして指差して、「もういいよ」と言うと
同時に女は消えていた。
今頃フリーカーズの舞台では一糸まとわぬ女ジョーカー達が
どろんこプロレスをしている頃合いではあるまいか。
そこでもみくちゃになれば多少は気分も変わるに違いない。
そうこうしていると、女の消えた際の<ポン>という音を
聞きつけたようで、ロビーにいたジョーカーが何人かこっちを
見ているようだった。
ジェイがデスクの奥で何かを物色しているとでも思っているの
ではあるまいか。
当然このビルに、エレベーターがない以上、三階まで歩いて上がる
しかなかったが、5階でなくてよかったと己を慰めつつ、微かな
灯りのついた廊下に出て、目当ての部屋を目指した。
ひどく痛み頭を宥めつつ、見つけた部屋の前に立つと、
ドアの隙間から灯りが漏れていて、中からテレビの音も聞こえて
いる。
ささくれだった気分のまま、ノックせずにドアを引くと、
なんなく開いた。
中にいた男は警戒も露わにベッドから飛び降りると、
「なんのつもりだ?」と声を投げてきた。
部屋の中には息がつまるような熱が籠っていて、
開いた窓から微かな風が吹き込んできたが慰めにもならず、
中のジョーカーは、元は白かったであろう灰色に薄汚れた
半ズボンを履いていて、頭には黒いぼろきれをこめかみに
ひっかけて包帯のように巻いていあり、手の平と脚も
同じような黒い布で覆われていて、腹部には広めの黒い布が
ぐるぐる巻かれているが、乾いた血液がこびりついているのが
見て取れる。
良く見ると薄い髪を覆った布のあちこちにもその染みは広がっていて、
半ズボンの真ん中にも赤黒い染みが見て取れて、その姿を幾分憐れに
思いつつ、「少し聞きたいことがあるんだがね、スティグ」と
声をかけると、
スティグマータは胡乱な瞳を向けつつ、「聞きたいことだって?」
と訊き返してきた。
そこでジェイが頷いて応じたころには、ジョーカーは落ち着いたと
見えて、ともあれテレビ越しに視線を向けている。
えらく新しく大きいカラーテレビだと思っていると、
スティグは音を小さくしたが、テレビはつけられたままだった。
ふとテレビの画面に目をやると、テレビの画面には落下する男の
姿が映し出されている。
そこはビルの中庭と思しき場所のようで、男の身体から黄金の光が
広がっているのが見て取れて、「ジャック・ブローンじゃないか」
思わずそう声を漏らし、そのままよろけるようにベッドの端に腰を
下すと、「襲われたそうだよ」スティグはそう言って、
「知らなかったのか?どのチャンネルでもこのニュースをやってるよ、
なんでもエースがあのいけすかない野郎はバルコニーで襲われたそうだよ」
どんなに無敵な身体を誇ろうとも、あれだけ高いところから落ちたら、
ゴールデンボーイであろうとも無事ではすまないのではあるまいか……
そう思い戦慄しつつ、「死んだのか?」そう言葉を絞り出すと、
ダン・ラザーが言うには、ファットマンが助けたそうだよ、
何でも身体を軽くしたんだそうな」
「ハイラムか」そう言って安堵の息をつきつつ、ハイラムが重力を
操作したときのことを思いだしていた。
確かアストロノマーがエンパイアステートビルからウォーター・リリィを
突き落としたときも、そうやって空気よりも軽くなるよう操作して、助けて
いたのではなかったろうか。
おそらくまたそうしたに違いない。
「襲った相手というのは……」そう言葉を継ぐと、
「チェーンソウのような能力を持ってたそうだよ、きっとハートマンを
着け狙っていたんだろうな」そう応えたジョーカーの声に苦いものを
感じていると、
「勝ったら都合が悪いんだろうな、ということはバーネットが絡んでるん
じゃないかな。それかその取り巻きのどいつか、といったところかな。
忌々しいったらありゃしない。連中は僕達が目障りでたまらないんだろうな」
そう言って一通り怒りを滲ませたところで、
「で何の用があるんだ」とようやく言葉を向けてきた。
「声もかけずに入ってきたじゃないか。あんたらナットはどこでも自由に
入っていいと思ってるんだろうな。ここは僕の部屋だというのに……」
「知っちゃいたがね」ジェイはそう言って宥めるようにしつつ、
「あんたの前に部屋を借りてた女について聞きたいことがあるんだがね……」
そう言いかけたところで、
「もともと僕の部屋だったんだよ」スティグはそう言って言葉を遮って、
「僕は追い出されていたんだ。少し支払いが滞っただけだというのにだよ。
僕は9年もここにいたのに放り出されたんだ。、
福祉の申請がこげついただけで、僕が悪いわけじゃなかったというのに、
僕から部屋を取り上げて、家財まで差し押さえられたんだ。
他にどこに行けと言うんだ?」
「あの女性についてだが」ジェイはまだ憤っているスティグから矛先を
変えるべくそう言って、
「あれが誰だか知っていたのか?」そう切り出すと、スティグはベッドに
座りなおして、血に染まった包帯を弄びながら、
「ジョーカーの一人だろ。あまりそんな風には見えなかったけれど、
服で隠してたんじゃないかな……」
そこでジェイに視線を向けて、
「あの人はどうなったんだ?」そう声をかけてきたスティグに、
「殺されたよ」ジェイがそう応えると、
スティグは視線を逸らして、
「他のジョーカーの間違いじゃないのか?」そう言い募り、
お腹に巻かれた包帯の血の染みを弄び始めて、
「そうとも、別のジョーカーに違いないんだ」そう言葉を重ねたところに、
「何か残していかなかったか?」ジェイがそう言葉を被せると、
ジョーカーは目をパチクリさせながらも、ジェイに視線を戻して、
「下で聞いたらいいんじゃないかな。とっておいてあると思うから。
僕だって差し押さえされたからね。そんなことをする必要はなかったと
言うのに……」そう言いながらかさぶたをかきむしっている。
「気にしすぎなんじゃないかな」ジェイがそう声をかけると、
「そうでもないさ」スティグはそう応え、
「僕には知りようもないことだからね。あんたがどう思おうが、ここは
ジョーカータウンなんだ。ナットにどうこう言われる筋合いはないよ」
ジェイは包帯のまだ白い部分にも血が滲んでいくのを見つめながらも、
「俺はナットじゃないぜ」そう言って、幾分声のトーンを落としつつ、
「俺はエースなんだぜ。スティッギィ」そうぶっきらぼうに言い添えて
指で銃のかたちをつくりあげたところで、額から赤らんだかたまりが
零れ落ちたのに気がついた、固まった血が落ちたということか。
「僕は何もしちゃいない」そういったジョーカーの声は妙に跳ね上がった
もので、
「いいテレビだな」警察が容疑者にぶつけるような口調でそう言って、
「高かったんじゃないか?スティグ。そいつはどうしたんだ?」
そう言葉を被せると、口をぱくぱくさせて慌てているスティグマータに、、
「鍵をつけ変えるまではしなかったんじゃないか?」そうそっと言葉を
被せるとスティグはまた視線を逸らした。
それだけでもはや聞くまでもないというものだろう。
とはいえ、ジェイの指がどういうエース能力を発揮するかを知らない
だろうから、そこから電気だとか、酸だかが噴き出すのを警戒している
というのもありうる。
そう考えていると、「いなくなってしまったんだよ」スティグはそう
言い出して、「僕はあの人に手を出しちゃいない。お願いだから、
乱暴しないで。これは本当のことなんだから」そう言葉を被せてきたスティグに、
「手を出しちゃいないだろうとも」ジェイはそう返し、
「勿論それは当人に対してであって、その持ち物に対してじゃない。
そうじゃないか?鍵はそのままだったもんだから、そこにあったものに
手をつけて、それで賃料やテレビなんかに当てたんだろうな……
旅行鞄とか宝石もあったんじゃないか?」
「宝石なんかなかったよ」スティグマータは額から泡のような
桃色の液体を滴らせつつそう言って、「鞄があっただけだよ。
それだけだ。信じてくれないか?これは本当のことだよ」
「そいつはどうしたんだ?」ジェイがそう訊くと、
「売ったよ」スティグはそう応え、
「女物の服ばかりだったからね。僕には必要のないものだから。
スーツケースも一緒に処分したんだ」
それだけ聞けば充分だった。
「そうかい」幾分嫌悪を滲ませてそう返し、
「なるほどな。チャドルなんかはジョーカータウンじゃ売れないんじゃ
ないか、取っておいたんじゃないのか?」そうしてスティグの手を指差しながら、
「後で包帯にでも使おうと思ったんだろうな」そう言うと、
スティグは観念したように微かに頷いて返した。
ジェイは溜息を洩らしつつ、指をポケットに仕舞い込むと、
「僕をどうするつもりだ?」スティグはそう訊いてきた。
「何もしないさ。ワイルドカードに感染しただけでも充分罰は受けたと
いうものだろ」ジェイはそう応え、
「これ以上気の毒な話はないからな」そう言葉を添えると、
背を向けてそこから離れようと、ドアノブに手をかけたまさにその
時だった。
露骨に安堵した様子で感謝の言葉を投げかけるようにジョーカーが
口を開いて、
「そういえば残しておいたものがあったな。後で慈善団体にでも

寄付しようと思ったんだ……」その言葉に振り向いて、
「なんだって?」気を沈めつつそう言葉を重ねると、
「シングルジャケットだよ」スティグはそう言って、
「でもサイズが合わないんじゃないかな、おまけに肩に
穴も開いていて、血も滲んでいるようだから……」
「血だって?」ジェイがそう言葉を返すと、
スティグは幾分気を悪くした様子で、
「僕の血じゃないよ」と言い添えてきた。
それこそジェイが必要としたものだった。
ジェイはスティグに抱擁したくすら思いながら、
頬が綻ぶのを隠せないでいたのだ。