ワイルドカード7巻 7月23日 午後9時

     ジョン・J・ミラー
       午後9時


ブレナンは亡霊の存在など信じていない。
暗いトンネルの闇の中から聞こえてきた声が
クリサリスの声のように聞こえてきたとしても、
それはあり得ない話だ。
棺に納められたその姿を実際この目で確認した
ではないか。
棺の窓からうかがえたその姿はまるで眠れる森の
美女のようだった。
トンネルの壁から離れ、動かずじっと様子を
うかがっていた。
すると「ダニエル」そう声がして、
「手を貸したいの」そう継がれた言葉と共に
それは明かりの輪の中に入り込んできた。
ブレナンは弓を下ろし、呆然とするしかなかった。
それは目を疑うものだった。
確かにクリサリスの特徴を全て備えてはいるが、
わずか8インチの大きさしかない、縮小品とでも
呼ぶべき姿がそこにあった。
夢でも見たかと思っていた窓に映った姿が妙に
大きく思えたのも納得できるというものだ。
屈んでその姿をよく見ようとすると、向こうから
恐れる様子もなく近付いてきた。
寸分違わず模倣したマネキンとでもいった代物で、
紅いマニキュアで彩られた爪から、肋骨の間から覗く
小さな心臓、そして、肩が開いて胸が覆われた布は
あるものの、その下の乳房まで見て取れた。
とはいえ鉛筆の上についた消しゴムのような
小さな代物でありはしたのだが。
「貴様は何者だ?」ブレナンがそう訊いたものの、
「ついてきて、そこですべてをお話しします」
微笑んでそう応え、踵を返し闇の中に駆けこんでいった。
ブレナンはわずかな間思案していたが、ここで立ち止まって
いてもどうにもなるまいと思い定め、電灯を拾い上げ、
その後を追うことにした。
トンネルの中は狭いものの、縮小クリサリスの歩幅が
小さいため、ゆっくりとでも苦にならずついていくことが
できた。
灯りの先に壁が見えていて、そこから小型クリサリスの
呼ぶ声が聞こえてきた。
そして壁には隠し扉のようなものがあるのだろう。
その壁の覗き窓のようなものが開かれて、そこから
用心深い赤い瞳が覗いていて、
「アーチャーをお連れしました」そう小型クリサリスが
話したところで、
「ひどいことをするんじゃないか?」
監視をしていたと思しき者の固く低い声がそう応え、
「口にだして言ってもらわないと信用できない」
そう継がれたところで、
小型クリサリスが振り返り、ブレナンを見つめ、
「危害は加えないと誓っていただけますか?」と
念を押してきた。
怪しい話だと戸惑いはしつつも、
「誓おう」そう応えると、
金属の軋むような音がしたかと思うと、開かれた
隠し扉の隙間から微かな光が漏れてきた。
「なら入るといい」監視の男からそう言われ
入り口に立って中を窺うと、
20人ほど中にいるようだったが、皆8インチくらいか、
それより小さい者もいるようで、マネキンか人間の
出来損ないといった姿をしていて、造りはしたものの、
市販することは憚られるといった代物で、人というより
動物といった方が相応しい者もいる。
それでも一様にブレナンに向けられたその瞳には知性の
光があった。
「あの方は信用できると言っていた。手を貸してやってほしいと」
隠し扉の脇にいた監視の男がそう言ってきた。
人に近い姿はしているが、裸に近い身体がごわごわしたなめし皮で
覆われているて、まるでぶかぶかのコートを羽織っているように見える。
そこで「おまえたちは何なんだ?」声を落とし、そう訊くと、
「クリサリスの目にして耳よ」
クリサリスのマネキンのような姿が誇らしげにそう応え、
「巷に潜む顧みられることも夢見られることもないよしなしごとを、
あの方の求めに応じて耳に入れるのがわたくしどもの務めでした。
それで暖かく雨露をしのげる人目につかない居場所を得たのです」
そして不意にクリサリスに似た頬に溢れた涙を拭い、
「けれどあの方はみまかられました」そう継がれた言葉に、
「お前たちだったのか……」穏やかな声でそう応えていた。
「俺にメモを残して、警告してくれていたのだな」
そう応えると、
「そうです」小さなクリサリスはそう応え、
「手助けをしていたつもりでしたが、却って戸惑わせて
しまっていたようですね。ただあの方を殺した犯人を突き止めて
いただきたかっただけでしたが。
それに気づいてからあの探偵にも協力しようとはしたのですが、
結局あの男には追いかけられることになってしまいましたが……」
そう継がれた言葉に、
「それではお前たちも犯人を知らないのだな?」ブレナンがそう訊くと、
マネキンのような頭を振って、
「あの方を見張っていたわけではありませんから……
そうしないと取り決めていました。
あの方は一人でいることを好まれていましたから。
例えあの方が悲しみに暮れていたとしてもそれは貫かねばなりませんでした」
ブレナンは頷いて、
「あの人のファイルの在処を知らないだろうか」そう言葉を返すと、
「あの方はここに来て、外の世界で隠されている見聞きしたことを
聞いていかれます。
その際に食べ物や飲み物を持ってきてくださいます。
メモもなさっていたとも思います。
ひと月近くおいでにならないときがありました。
その時はこちらで記録を残していました。
あの方に必要とされなければ何の意味もないことでしたが……」
「それはどこにある?」そう訊いて、
「どこに記録してあるんだ?」
小柄なジョーカーは通路の向こうの小部屋を指さしていた。
他のジョーカー達は怯えて嫌悪に満ちた視線を向けている。
その瞳からは怒りと悲しみも感じ取れた。
その中の一人、小さな猿のような身体に多くの脚がついた者が、
ブレナンが近づいていくと、シェイドのついたランプを灯して
くれた。
他のはにかみがちの連中はクリサリスのスパイらしく脇の部屋の
闇の中から黙ってじっとこちらを窺ったままだ。
その部屋の中は、快適な椅子に古めかしい机、ティファニーのランプと
いったいかにもそれらしい家具が備えられていて、
デスクの上にはバインダーやら紙束やらが乱雑に積まれている。
ざっと紙束に目を通すとどうやら政治家の夜の営みから銀行員の
薬物依存や警官とギャングの癒着やらが記録されていて、その中には
ドジャーズが苦手とするカーブボールの癖まで書いてあるようだ。
ブレナンは露骨に嫌な顔をして、
「なんて代物だ」ホムンクルスにそう言って
「コンピューターはなかったのか?」そう言葉を継ぐと、
クリサリスの似姿は応えた。
Motherマザーがありました」と。
そこで「マザーとは?」似姿が頷いて指さした方を見ると、
二人のホムンクルスが暗いタペストリーに覆われた背後の壁に
つながった曳き紐に手をかけているのが目についた。
彼らは紐を引くと、タペストリーの覆いがよけられ
その下にあるものが露わにされた。
橋脚にかけられた背後の壁面には幾筋もの光、
グレイにピンク、パープルといった色の脈動が波打っていて、
まるで優雅なイトマキエイが泳いでいるようにブレナンが
思いつつも、まったく特徴のないダース単位のマネキンが
吊り下げられているか、つながれているのに気付いた。
何体かの頭には明滅するコードがついていて、壁に
つながっていて、他のものはそうしていると安心できて
落ち着くとでもいうように寄りかかっているようだ。
「こいつは何だ?」と訊ねると、
「マザーですよ」という応えが返ってきた。
それは小さなクリサリスの声だった。
「私共はマザーの子なのです。マザーは見ることも、
叫ぶこともできはしませんが、それでも心に語り掛ける
ことができます。
マザーはあらゆることを知り、マザーの胸に抱かれることで
知ることのすべてを囁いてくれます。

あの方がこれを残してくれたのです。
私共の退避する場所と共に、
あの方を思い出すよすがとして」
「話すことはできるか?」そう訊くと、
ホムンクルスはかぶりを振って、
「聞くことができるのはわたくしども、幼子のみです」
ブレナンはジョーカーに対して抱いていた固定観念というものを
振り払うとでもいうようにいう数回頭を振ってから、
クリサリスの作り上げたものについて把握しようと努めた。
途方のないものといって差し支えあるまい。
詳しい話を聞きだしたいと思いつつも、そんな時間はあるまいと、
己に言いきかせ、彼らの間に腰を下ろし、そこまでの理解にとどめた。
今は殺人の犯人を暴くことが先決というものだろう。
そこで「どうすれば俺もマザーと話せる?」と再度訊き返すと、
「わたくしどもを通じてならばあるいは……」そう応えが返されてきた。
そして「あの方の日誌に探す答えがあるかもしれませんね」と継がれた言葉に、
「日誌だと?」そんなものがあるなら、読み取れないマザーを相手にするより
話が早いというものだろう。
「それはどこにある?」
「あそこですよ」そう言って指さされた先には散らかった机があって、
革張りの背表紙がつけられた冊子が置いてあるのがわかった。
ブレナンが手を伸ばしかけたところで、何か目に見えないものが、
動いて、金属を思わせる冷たい感触を頬に感じたと思うと、
血が噴き出すのを感じたところで、日誌とブレナンの間に茶色い瞳が
床から5.5インチ程上に浮かんで見え、そこから漏れた忍び笑いに、
ホモンクルス達が驚いて飛びのき、部屋のくらがりに隠れようと
したところで、フェイドアウトが姿を現した。
しかも銃をブレナンに向けているではないか。
「驚いたか、驚いたかね!」そう呟いてくすくす笑い声をたてると、
「その忌々しい弓を下ろしてもらおうか」そう声をかけてきたのだ。