ワイルドカード7巻 7月23日 午後10時

      ジョン・J・ミラー
       午後10時


「どうしてここがわかった」
それを聞いたフェイドアウトは、
「おいおい、今更そんなことを聞くなよ」
そう言って黙りこんだところに、
「レージィ・ドラゴンだな」そう言葉を被せると、
「わかりきった話じゃないか」フェイドアウト
そう応え、
「実を言うと警察に保護された辺りからあんたを
見失っていたんだがね。まぁいつもの行動範囲から
教会を張っていてそっからね……」
「ここまで着いてきたということか?」
「まぁそういうことさ」フェイドアウトはそこで
初めて気づいたかのように周りを見回して、
「しかし面白い連中をみつけたものだね」
そう言って当然のように日誌に手を伸ばし、
手に取ると、
「これは役に立つだろうね。クリサリスと違って
私なら出し惜しみなしでこいつを使わせてもらう
だろうからね」
ここまで近づくまで気付かなかったとは。
ブレナンは愕然としながらその話を聞いていた。
しかも目の前で獲物を掠め取られさえしたのだ。
ブレナンが手を動かすより早くフェイドアウト
銃を抜き、ブレナンの腹部に向けていた。
「いやはやできれば撃ちたくはなかったんだがね」
デスクの脇から飛び出した縮小クリサリスが
フェイドアウトの持つ銃身を掴んで下に落とそうと
したが、フェイドアウトはそう呻いて銃を持った手に
力を込めていた。
そしてブレナンが「やめろ」と叫んだが遅かった。
狭い室内に銃声が響いていて、跳ねとんだその身体が
ぼろ雑巾のようにマザーに叩きつけられていた。
マザーからは何の音も聞こえはしなかったが、
長く伸びた人間を思わせるアームでマットの上に
転がったその体を抱きしめていた。
そこでブレナンは銃をけり落とし、それからすぐ
あえて手の甲でフェイドアウトの顔をぶって、落とされた
日誌を取り戻していた。
フェイドアウトは一瞬怯みはしたものの、避けた唇から
顎まで血を滴らせつつも、手の甲でその血を拭うと、
「この野郎、ただで済むと思うな!」呻くように
そう呟くと、ごつごつした何かジャガイモのような
塊を投げていて、それが一端はブレナンの腹部に
当たって転げ落ちたが、飛びのいて身構えていると、
それは大きくなっていき、手の周りが黒い毛で
覆われた丸々と太った大柄な体に愛くるしい丸い頭、
そしてその両目の周りは黒い円で囲まれている。
ジャイアントパンダだ。
そしてブレナンを見るとにやりと笑ってみせたではないか。
その愉快な外見に関わらず、ブレナンの二倍の体躯と
鋭い鉤爪と牙を備えた猛獣だ。
「殺せ、ドラゴン」フェイドアウトがそう叫ぶと、
部屋中にホムンクルス達が嬌声を上げ散らばって逃げ惑うのを
尻目にパンダはデスクの上に上がっていた。
そいつは丁度ブレナンとドアの間にいて、うまくやり過ごすと
いうわけにはいくまい。
あえてブレナンに勝る点をあげるとするならば、スピードぐらいか。
おそらくブレナンほど機敏には動けまい。
そう願いつつ、壁際まで後退したが、パンダはその後を追ってきた。
おまけにその顔には愛くるしいおどけた笑顔まで浮かんでいると
きたものだ。
これ以上下がれないと悟ったところで、パンダが後ろ脚を踏ん張って
立ち上がり、まるで喉の奥にチエーンソウでもあるかのような低い
不穏な唸りを上げたところで、ブレナンは咄嗟に動いて躱した
つもりであったが、忌々しいほどに振り下ろされたその爪の動きは早く、
左腕が切り裂かれていて、痛みが後から感じ取れた。
骨も折れているのではなかろうか。
そうしてパンダを相手にしている間に、フェイドアウトは姿を消そうと
したようだったが、まだ眼は見えたままだ。
そこでブレナンはフェイドアウトの身体の位置の辺りをつけ、
横に滑るようにしてフェイドアウトをけり倒すと、辺りを見回し
位置関係を反芻していた。
左はトンネルに通じ、右には確かクリスタルパレスの地下に続く
梯子があるはずだ。
地下に向かえば閉じ込められるやもしれぬ、
そいつは御免被りたい。
ならば上を目指すべきだろう。
鼓動と共に切り裂かれた腕がずきずき痛み、血も噴き出しているようだ。
深く息を吸って呼吸を整え、痛みから意識を逸らし、
ともあれパンダの隙をついてパレスの地下に通じる梯子に駆け寄って、
それを掴んだ。
それからパンダに視線を向けると、よたよたとではあるが、
思ったより機敏に動き、ブレナンを追おうと向かってきているではないか。
日誌を掴んだままの腕をポケットに差し入れ、通信機を探り出し、
そこから取り出して、「クリスタルパレスだ」と呻くように
声を絞り出し、もう片方の手で身体を上に持ち上げ梯子を
上ったところで、通信機を落としてしまっていた。、
梯子の先には閉じられた跳ね蓋があったが、怪我を
していない方の肩で体当たりを食らわせて開くことが
できた。衝撃で切り裂かれた腕が痛んだが構いはしなかった。

ともあれ跳ね蓋を通り、倉庫に入り込んで蓋を閉じた。
そこからさらに一階に続くがたのきた木製の階段を
駆けのぼり、パレスの洗面所に続く通路に出た。
洗面所からは女性が出てきたが、ずたぼろの腕に血まみれの
ブレナンを見ると叫びだしたが、ブレナンは構わず先を急ぎ、
パレスのバーに入った。
バーは人ごみで溢れていて、ブレナンはその視線を集めることに
なった。
別に足止めをされたわけではないとはいえ、人ごみを押し分けで
先に進もうとしていたところで、後にした通路から叫び声が聞こえてきた。
レージィ・ドラゴンが追ってきたということか。
しかもドラゴンはブレナンと違って誰が間にいようと気にも
しなかったに違いない。
まるでそれが煩くはあるものの、ただのボーリングのピンで
あるかのように突き飛ばし向かってくるのを見て、
肩から重たい肉の塊がぶらさがっているような状態なだけに、
もはや逃げ切ることは適わないと悟っていた。
要領の良いものは逃げ出していて、逃げ遅れた者や、事態を
見守っている者、酔っ払い達が、まるで魅入られたように
パンダがブレナンに迫るのを見ていた。
パンダの顔にはやはりあの人を莫迦にした笑みが浮かんでいるが、
その口に並ぶ剃刀の如き鋭利な牙はひと口でブレナンの腕など
噛み砕いてしまうのではあるまいか。
「日誌をよこせ!」背後からそう叫ぶフェイドアウトの声が
聞こえてきたが、
ブレナンがかぶりを振って拒絶の意思を示すと、
「奪い取れ!」フェイドアウトにそう命じられたパンダは、
よたよたと後ろ脚で立ち上がった。
そこでブレナンは左によけるとみせかけて、いきなり右に動いて、
その隙に駆けだしてうまくやり過ごしたと思ったが、
背中に強い衝撃を感じ、膝をついてぜいぜい喘ぎながらも、
振り返り、パンダの右正面に立ったが、パンダは子供から
飴玉をとりあげるように易々とブレナンが掴んでいた日誌を
はたき落としていて、フェイドアウトはそれを拾いあげると、
「そいつを始末しろ」とこともなげに口にしていて、
部屋の隅に残った人々が息を飲んで見守っている中、
「そこから離れろ!」沈黙を切り裂くようにそんな声が
響き渡っていた。
思いがけないその声にブレナンを切り裂こうとしていた
パンダがゆっくりと振り返った何もないはずの空間に、
背を丸め屈んだように見える姿が現れていた。
クオシマンだ。
クオシマンはブレナンを軽く突き飛ばすようにして、
衆人環視の中、パンダの前に立ち塞がっていた。
ブレナンは痛みを堪えつつ膝を突いて身体を起こし、
「あの日誌が必要なんだ」と声を絞り出すと、
クオシマンは左足をひきずるようにしてゆっくりと、
フェイドアウトに近づいていって、
「そいつを渡せ」と口にしていたが、
そこにパンダが突進していった。
それは線路を外れた列車が、岸壁に激突したとでもいった
ような激しいものだった。
そうして叫ぶ人々の間をもつれあうようにぶつかりながらも、
誰も死なないまま壁際まで突っ込んでいけたのは奇跡と
いっていいのではなかろうか。
砕けた木と飛び散った金属、吹き出た水の残された様子が
その凄まじさを物語るような有様の中、まずパンダが壁に
穴をあけ、クオシマンもまた壁に穴を穿っていた。
ようやくブレナンが立ち上がったところで、クオシマンは
木製のテーブルを持ち上げ、相手に振り下ろしていて、
砕けた木片はもはや焚き付けぐらいにしか使えないのでは
ないかと思っていると、立ち上がったパンダがクオシマンに
覆いかぶさり、その後ろにあった大きな鏡やらボトルの並んだ
棚やらをぐちゃぐちゃにしていて、きらきらした破片に
覆われたかたちなったルポは、忌々し気に呻いていて、
ブレナンはクオシマンに加勢すべきかと思いはしたが、
ドラゴン相手では足手まといにしかならないことを
悟り、フェイドアウトを何とかしようと思い至ったが、
薄暗い室内にはその姿は見当たらず、叫ぶ人々の間を
縫って、怒号を轟かせ、獣もかくやといった勢いで
ドラゴンとクオシマンはとっくみあっていて、
拳のみならず、脚もぶつけあい、パンダの毛皮には
誰のものともしれない血が飛び散っているではないか。
一方クオシマンはというと、シャツが背中から破られていて、
こぶが破れているのみならず骨もどうにかなっているのでは
あるまいか。
そんなことを考えていると、妙な臭いが漂っているのに
気づいた。
これはガスの匂いだ。
エース同士の戦いは水道管を破裂させたのみならず、
ガス管をも破裂させたということか。
ならば引火する前になんとかせねばなるまい。
ブレナンは部屋をでるよう大声で叫ぶことにした。
間に合えばいいのだが、と己に言い聞かせながら。
シューという嫌な音がしたかと思うと、砕けた壁から
火の手があがって、誰かの「火事だ」という声がして、
混乱は極みに達し、パニックに陥った人々が他をおしのけつつ
ドアに殺到していたが、ブレナンは冷静に状況を判断し、上階に
通じた階段を目指すことにした。
階段に辿り着いたところで振り返ると、クオシマンと
ドラゴンはワルツを踊るようにもつれあっていたかと
思うと、パンダの前足がクオシマンの肩にかかっていたが、
クオシマンの両手はパンダの喉を締め上げていて、
パンダは凄まじい苦悶の叫びをあげている。
「クオシマン!」パニックの喧騒を縫うようにして
そう声を張り上げ、
「クオシマン!そいつはもういい!」そう言葉を継ぐと、
その声が聞こえたかどうかわからないが、クオシマンは
突然姿を消していた。
テレポートしたということか。
そしてクオシマンに向けて振り下ろされたパンダの爪が
顔のあった辺りを抉ったところで、
炎の柱が立ち昇り、パンダは炎に包まれていた。
そして焼けるような匂いが立ち込め、よろめいたかと
思うと、火はバーを舐めるように広がっていて、
家具や床も区別がつかず炎に覆われている。
そこでパンダは動きを止め、後ろに向けてどさっと
倒れるとどんどん縮んでいって、おそらく元々の
大きさであるぐらいにまでなっていた。
ブレナンは上階に視線を転じつつも、地下のマザーと
ホムンクルス達のことを思い出し、一瞬迷いはしたものの、
悪態を零しつつ、地下に続く倉庫につながる通路を
目指した。
通路は煙に燻されたようになっていて、腰を屈め、
できるだけ煙を吸い込まないようにしつつ、
ようやく開いた跳ね蓋に辿りつき、そこに身を投じた。
梯子を下っている間も、熱が吹き込んでくるのを感じていた。
おそらく倉庫にまで火が回ったということだろう。
マネキンのような連中は慌てふためいていて、
まるで迷子の子猫のように嘆き悲しんでいる。
一方マザーはといえば、壁から引き剥がされていて、
まるで生きたマットレスのようにばたばた身を捩らせている。
ほとんどのホムンクルス達はマザーから引き剝がされていている
ものの、まだつながった者の姿は、囚われいるかのようだ。
その姿を目にして、ブレナンは一端躊躇し、見捨ててここを
出ようとも考えたが、強いテレパシーの波が押し寄せてきて、
なんのテレパシーの素養ももたないブレナンにもその恐怖と
絶望が感じ取れた。
どんな姿をしていて、人間とかけ離れていたとしても、
それはまさしく人間のものだった。
片手で引きずっていけるかどうかわかりはしないが、
やってみる価値はあるというものだろう。
深く息を吸って、思わず煙を吸い込んでしまい、歯を
食いしばりながらも隠し部屋の中に入っていった。
「待っていろ」そう呼びかけ、
部屋に駆けこむと、マザーの長方形を成す身体に
触れると、その身体は暖かく、ゴムのように脈打っては
いるが、幾分落ち着いたように感じられた。
そうこうしているうちに、煙の臭いが幹事と採れた。
どうやら火は近くまで迫っているようだ。
腰を屈め、背中に担ぎあげようろしていると、天井から
火花が散って、まるで薄い霧のような煙がなだれ込んできて、
「なぁに心配ない」ブレナンは己に言いきかせる様にそう叫び、
折れた腕の痛みを紛らわしつつ呼吸を整え、
「うまくいくとも」そう口にしたところで、
天井が落ちてきたのだ。