ワルドカード6巻第三章 その2

      ウォルトン・サイモンズ
      1988年7月20日
         午前9時


席が空くまで45分ほど待たされた・・・
店は繁盛しているようで、給仕の男が客の間を
行きかうさまはまるでピンボールの玉のようだ・・・
スペクターは椅子に身を押し込めるように座り・・・
騒音には気を払わないようにしていたが・・・
周りを見回すと泣きはらした顔をした人間の多いことが
見て取れる・・・
誰かがくたばったか具合が悪いかだろうが・・・
正直どうでもよくなった・・・
眠くてたまらない・・・
堂々巡りの内に目がさえてあまり眠れなかったのだ・・
そこにパッドとペンを持ったウェイトレスが近づいてきて
いつも浮かべているに違いない笑顔もどきのような貌をして
声をかけてきた・・・
「ご注文はいかがなさいますか?」言葉に淀みはないがかすかに
南部の訛りが感じられるものだ・・・
「コーヒーだけでいい」ぎこちない笑顔と共にそう応えた・・・
腹がすいていないわけではないがこの女に金を落すのは憚られたのだ・・・
気を落ち着かせ周囲から意識を遮断してハートマンを仕留める
ことに意識を集中させようとしたが・・・

朝方からまた痛みがひどくなってきてどうにもうまくいかない・・・
トニーのつてを辿ればハートマンの動きは掴めるだろうが・・・
誰にも気づかれずに仕留めるには人が多すぎるというものだろう・・・
ウェイトレスが戻ってきてコーヒーを置いたが・・・
乱暴で受け皿のところにコーヒーが飛び散ってしまっているではないか・・・
「あらごめんなさい」気持ちの感じられない声でそう告げて・・・
「他に注文はございませんか?」
などと言い出したではないか・・
スペクターはたっぷりと間をおいてから応えてやった・・・
「今はこれだけでいい」と・・・
そこでウェイトレスはぎょっとしたような表情を浮かべたが
立ち去ってくれた・・・
そこでようやくカップを持ち上げて一気に呷ると・・・
コーヒーの香りが胸に染みるようで心地よい・・・
これでいい、少しは気が落ち着くというものだろう・・・
それにうっかり何を口にするかしれたものじゃない・・・
係わらないにこしたことはないのだ・・・



そこで並んで待っていた男の姿が目に入ってきた・・・
綺麗に整えられた髭を蓄えた老人で・・・
男は店に入るとゆっくりと店内を見廻してから・・・
スペクターが目に留まったのか、こっちに向かって真っ直ぐ歩いて
くるではないか・・・
すぐに動けるよう身構えていると・・・
男に見覚えのあることに気がついたところで・・・
スペクターのいるテーブルのところにきた男は微笑んで声をかけてきた・・・
「申し訳ないのですが、朝にしては店内がこみあっているようでして・・・
私はジョッシュ・デヴィッドソンというものですが・・相席よろしいでしょうか?」
そうだデヴィッドソンだ・・・
好きな俳優の一人ではないか・・・
その微笑を見ている内に緊張が解けてきた・・・
「どうぞ、おかけください、デヴィッドソンさん・・」
スペクターはメニューを手渡して、ウェイトレスの姿を目で探すことにした・・
デヴィッドソンさんが待たされることなどあってはならない・・・
彼は十分なサービスを受けてしかるべき人間なのだ・・・
「ご丁寧にどうも・・」
気遣いの溢れた言葉と共に丸めて抱えていた新聞を広げて席に着いた・・・
ウェイトレスを見つけて呼ぼうとしたしたところで・・・
巨体の男が姿を現した・・・
ハイラム・ワーチェスターだ・・・
スーツの皺をのばすしぐさをしながら辺りを見ましている・・・
「私も読ませていただいてよろしいですか?」
読み終えられて横によけられていた新聞の一面を指してそう声をかけると・・・
「どうぞどうぞ」と自然な返事が返されてきた・・・
新聞を掴んで素早く広げると・・・上から読み始めた・・・
ファットマンは変わらず誰かを探しているように見える・・・
もし探しているのがデヴィッドソンならば、俺には気がついていないと言えるか・・


あの太鼓腹の男からは身を隠しおおさなけば、仕事に支障をきたすと
いうものだろう・・・
「そろそろ行かなくては、ところでデヴィッドソンさん、第一面だけ
拝借してかまいませんか?」
「ええかまいませんよ」
スペクターは新聞をかざして顔の前に広げたまま、立ち上がって出口に
向かうことにした・・・
間抜けには見えるだろうがかまうものか、ワーチェスターに気づかれなければ
それでいいのだから・・・
ウェイトレスとすれ違ったところで・・・
ウェイトレスが「Good riddanceありがとうございました」とこれ見よがしに
声を張り上げたがかまってやるつもりはなかった・・・
そんなゆとりなど・・・
ありはしなかったのだから・・・