1988年 7月20日 その10

         ヴィクター・ミラン
         1988年7月20日

 
           午後10時

ピーチツリーのタイルに音が反響しているように思えて
ふらつく脚のまま腕にしがみついている・・・
セイラはワイン二杯で酔っ払ってしまった・・・
そういえばアルコールを口にするのものも久しぶりだ・・・
あの世界旅行からは随分たったように思える・・・
リッキィはそれを察してか場を和ませようと巷で噂のジョークと
いう奴を披露してきた・・・
「デュカキスとハートマンにブラザー・レオ がLake Lanierラニア湖で
ボートに乗っていて・・・エンジンが吹き飛んで沈んだなら誰が助かるか?」
「国が助かる」そう応え・・・
「私が聞いたときには、レーガンとカーターにアンダーソンだったわ・・
そのときのことは覚えちゃいないでしょうね・・・」と返すと・・・
「80年だったら投票にいきましたし、そこでしたらかろうじて
記憶にあります・・・」と返してきた・・・
「若い男を前に舌なめずりしている悪い女になった気分だわ」
軽口を返したつもりながら、その言葉の気まずさに口をつぐんでいると・・
リッキィは肩を叩いて・・・
「あなた相手なら望むところですよ、Rosieロージィ」
そう返し笑い話にしてくれた・・・
そうしてふっと気が緩んだ丁度そのときだった・・・
その笑い声に割り込むようにして細い道の向こうから音が響いてくる・・
「あの曲は?」そう訊くと、リッキィは眉を吊り上げ質問で返してきた・・・
「知らないの?」と・・・
もちろん知っていたが確認する意味で訊ねてみたのだから即答できた・・
マック・ザ・ナイフ(ドスのマック)ね、やじや口笛がつきものの
北半球の安酒場で歌われているようなやつ・・・」と・・・
そう応え笑いながらリッキィの手を揺さぶって・・・
はしゃぎすぎたかしら・・・
内心そう呟きながら、誰かに見られているかのように辺りを
見回してみると・・・
後ろで何か動いたように思えて、黒と銀とオリーブグリーンで彩られた
頭のないマネキンが動いたような極端な動きで横を向いて・・・
「後をつけられている・・・振り返ったら気づかれるわ」
息を呑みながらそう囁くと・・・
「本気でいっているのかい、それじゃジャーナリスト失格だよ、
あなたのジャーナリスト論の講義は眠らずに聞いてたのにな・・・」
そう軽口を返してリッキィは背後に視線を向けて・・・
「革ジャケットを着た子供だな・・・」
額にある種の感情を滲ませて言葉を継いだ・・・
「背が奇妙に歪んでいるようだ・・・気の毒に・・」
その言葉にセイラが振り返ろうとすると・・・
「見ちゃいけない、塩の柱にはなりたくないだろ?」
そう茶化す声に・・・
「塩の柱になる気はないけれど・・・
何か妙な気がするの・・・」
「百戦錬磨のエースリポーターの勘が働くと・・・?」
「またそうやって年寄り扱いするのね」
「飲んだのはワインじゃなくて・・・」
リッキィはそうして肩を叩いてから言葉を継いだ・・・
「スピリットで、昔気づかずに墓の上で口笛を吹いたのが
今祟っているとかね・・・
いいかい、顔を上げて恐怖を悟られないようにするんだ・・・
そいつが北欧の古代肉食獣を相手にするときの極意だそうだよ・・」
その軽口を受け流しながら意を決して後ろを見ると・・・
やはり革(ジャケット)を着た子供がいる・・・
「バーネットからスカウトが来たのかも・・・」
そう言うとやはり軽口で返してくれた・・・
「それはないだろうが、党大会の間は用心することだ、ロージィ・・・
あなたはハートマンのファンから恨まれているようだから・・・」と・・・
そこでもう一度振り返ってみると・・・
やはり子供がついてくる・・・
ポケットに手を突っ込んだまま・・・
靴の片方は白く、もう片方は黒く・・・
歩くたびにぴょこぴょこ肩を上下させている・・・
どうにも見ていていたたまれなくなるものがある、
と思いはじめたところで・・・
たしかに小男ではあるけれど・・・リッキィだってアーノルド・シュワルツネッガー程の大男じゃないわけだし・・・


そんなことを考えながら角を曲がったところで、リッキィに腕を掴まれて
走り出すことになった・・・
リッキィの履いたグッチのゴム靴のたてる音を聞いて、若ぶった高いハイヒールを
恨めしく感じながら・・・
そうして何回か角を曲がった後に・・・
止まらないまま振り返ってみたが・・・
追跡者の影は見えない・・・
そこで歩を緩めて・・・ようやくセイラは息をつくことができた・・・
「なぁにじきHyattハイアット(ホテル)に着くさ・・・」
そこでリッキィがなんでもないといったふうにそういってのけたのが妙におかしく
感じられる・・・
まるで口にすると80年代の亡霊が蘇るのをのを恐れているかのようだ・・・
それから何度か角を曲がったときだった・・・
冷たいタイル張りの壁にもたれ・・・
勢一杯背伸びしたふうの子男がいて・・・
口笛を吹き始めたではないか・・・
マック・ザ・ナイフだわ・・・」
セイラはそう呟きながら、リッキィの腕を引っ張るようにしがみついて・・・
必死で口笛の方を見ないようにした・・・
そうすればそれが消えて失せるかのように・・・
「それじゃ動けないよ、ロージィ・・」
そしてリックは己に言い聞かせるように言い添えた・・・
「なんでもないさ、やりすごせばいい」と・・・
「それ本気で言ってるの・・・?」
こみ上げる恐怖にセイラはつい声を荒げていた・・・
「どうして先回りできたのかしら?」
「近道でも知っていたんだろ、もうホテルも近いから・・
騒ぎになったら誰かかけつけてくれる、心配ないよ・・」
なぜだかそれはすぐにわかった・・・
彼らの近くにある壁をすり抜けて、二人に迫ってきたのだ・・・
獲物を狙う鮫のように・・・
リッキィは咄嗟にセイラの前に立ちふさがって言葉を発していた・・・
「いったい何のつもりなんだ?」と・・・
「Party party パーティ・パーティ(英国のコメディドラマ)を知ってるかい?」
小男はHans und Franzハンスとフランツ(サタディナイトライブの1コーナーである
コメディ)を思わせるおかしくてたまらないといった粗野な口調と共に・・・
「つまりは運のつきってやつだ・・・」と言い放ち・・・
ピーチツリーセンターの冷たい夜気を震わせるようなブーンという音が響き渡り・・・
男の手がリッキィの首筋にKarateカラテの手刀を思わせる動きで伸びて・・・
敏捷でもエースでもないリッキィにしては咄嗟の動きで
手で首を庇ったのだ・・・
だがそれも無駄だった・・・
チェーンソウのような甲高い音と共に切り裂かれていて・・・
そこから迸った血がスーツを濡らしているのを・・・
リッキィは何が起こったかわからないといったように見つめながら
立ち尽くしているではないか・・・
刻が凍りついたように思いながらセイラは叫びを上げていた・・・
そこでようやくリッキィは動いた・・・
手を男の顔に向け・・・
そこから迸る血を男の顔に浴びせたのだ・・・
そして意思を振り絞るかのように男の前に立ちふさがって叫んだ・・・
「ロージィ、早く逃げろ・・」
セイラがそれでも足がもつれたように動けないでいると・・・
リッキィはその不自由な腕で少年に掴みかかった・・・
それは一見大人が子供をからかっているように見える・・・
何しろリッキィには6インチの身長があるのだから・・・
そこで再びあの音が響き渡った・・・
その音は、これからセイラが目を閉じるたびに・・・
その脳裏に蘇ることになるだろう・・・
そこで髪の焦げるような嫌な匂いが感じられた・・・
リッキィの手が肩から落ちて・・・
青に緑、黄色で彩られた白壁にその血を飛び散らせながらも・・・
セイラに視線を向けて・・・
「ロージィ」そして血に舌をもつれさせながら言葉を継いだ・・・
「頼む、逃げてくれ、逃げるんだ・・・」
手を冗談のように揺らし・・
下顎から言葉を搾り出すかのように・・・
その言葉は秘めた身の毛もよだつ欲望をぶつけられたかのように
セイラを打ちのめすものだった・・・
視線を逸らし意識しないようにしても・・・
死体安置所から響くような音はつきまとっている・・・
駆け出して、角を曲がったところで・・・
ヒールの残骸が折れて・・・
そのままよろけて20フィート向こうの壁に体を
ぶつけることになった・・・
そこで立ち上がろうとしたが・・・
脚がもつれ・・・
タイルにめり込んだかのように身体が重く感じられて・・・
「ああリッキィ・・」そう泣き言をもらしていた・・・
「なんてざまだろう・・・」
リッキィは文字通り身を挺して逃がしてくれたというのに・・・
毎夜今夜のことで罪の意識を感じることになるだろうが・・・
今はそれを無駄にしてはなるまい・・・
そう己に言い聞かせ・・・
手をついて・・・
脚を踏ん張り・・・
腰を上げて歩道に出ようとしたところで・・・
先の角の向こうを見回すと・・・
20フィートほどの人影があった・・・
全身と革(ジャン)を血にまみれさせたその姿は・・
街頭の下でぼうっと幽鬼のごとく浮き上がっているように見える・・・
そこでセイラを見てにいっと笑いを浮かべてみせた・・・
敗れたフェンスめいた歯をぎらつかせて・・・
Der mannあのカの思し召しだ・・・」
セイラは思わず視線をそらしていた・・・
太古の記憶の中に失われた獣のまぼろしをみたかのように・・・
それでも声は・・・
回廊に響いている・・・
ハイアットをほぼ目前にしたセントラルアベニューから染み出すかのように・・・
そのとき・・・
ジャクソン支持のたすきをかけた代議士の一団・・・
年配で黒い肌をした身なりのいい男たちが・・・
幸福な笑い声を響かせて現れた・・・
まるで日の光が黒い姿で現れたかのように・・・
革(ジャケット)の少年は視線を上げ・・・
鳩が豆鉄砲をくらったかsのような表情をしてから・・・
初めて自分が血まみれであるのに気づいた様子で・・・
獲物の方に視線を据えて来た・・・
セイラは拳を握って・・・
そうしてセイラが力の限り叫び声をあげると・・・
少年は忌々しげな感情を瞳に宿して・・・
「ジェニー・タウラーはどうなった?(肋骨にナイフが
刺さっていたというぜ)*」
そう唸るように言い捨てて・・・
壁の中に消えていったのだ・・・



*「三文オペラ」マッキー・メッサーのバラードの一説
気づかれずにいつでもばらせる、という含みの脅し。