その20

     ウォルター・ジョン・ウィリアムズ

           午後8時


たらふく飲んだのと、疲れ、それに暴食も相まって・・・
セイラは膝が笑ったような状態になっていて・・・
ガラス張りのエレベーターに乗り込んだときには
ジャックにもたれかかるようなかたちになっていた・・・
ジャック自身はというと目を閉じて眩暈のするような感覚に耐えながら・・・
トランクに入っている精神安定剤のことを思いだして、何とか笑顔らしき
ものを浮かべる余裕を取り戻していた・・・
そしてセイラは明らかにグッタリした様子で・・・
どうやらすっかり寝入ってしまって目を覚ましそうにない・・・
ベッドに寝かしつけてから、精神安定剤を取り出して・・・
ルームサービスで頼んでいたオレンジジュースに落としこみ・・・
朝飯と一緒に飲ませようと思いながら・・・
なんて鉄砲玉を引き受けてしまったのだろう,金曜の夜だというのに、
とようやくため息をつくことができた・・・
そして夜風にでも当たろうと中庭に張り出したバルコニーに
出ると・・・
下から<Pianomanピアノマン>の旋律が響いてきた・・・
そこでセイラは目を覚ましたようで、ドアを開けてそこに出て
きたが・・・
大きなショルダーバッグを肩にかけたままで足がふらついている・・・
ジャックは<入ってこないで>と書かれた札をドアのぶにかけて、
閉じてから鍵をかけてから・・・
後ろから手を回してセイラを抱き寄せた・・・
アルコールが入っているにしては、巻かれたぜんまいのように妙に
緊張しているようで・・・
その乱れがちな髪を首筋から指で梳くようにしてから・・・
首筋に口付けをしてみたが反応がない・・・
そこでセイラはため息をついてから振り向いて・・・
ジャックは正面から唇を合わせると・・・
セイラもキスし返してきて・・・
そしてジャックの首に腕を回して抱きついてきた・・・
そこで開いた口に、そっと舌をさし入れ舌同士をあわせながら・・・
「悪くない」幾分頬の緩むのを感じながらそう声をだしていた・・・
「助け合ったほうがうまくいく」そう言葉を継いでいた・・・
それは<To have and have not脱出>という映画でBacall
バコールがボガートに言った言葉だったが、セイラはにこりともせずに・・・

「シャワーを浴びてから戻ってくるわ、いいでしょ?」と言葉を返してきた・・・
そうしてふらふらする足取りで浴室に向かうのを眺めることになって・・・
妙な気分に沈みこむことになった・・・
これは二度目の結婚のときのように危ない火遊びになるのでないか・・・
そんな風に思えてきたのだ・・・
ジャケットを脱いで、喉にウィスキーを流し込むと・・・
水の流れる音が聞こえたがすぐやんで沈黙が流れ始めることになった・・・
おそらく髪をとかしてでもいるか化粧でも直しているのだろうか・・・
それとも座り込んで、亡き友のことを思い出しているかもしれないな・・・
そんなことを考えながら煙草に火を点けて・・・
初めて死と向かい合ったときのことを思い返していた・・・
あれはAvellinoアヴェッリーノからBeneventoベネヴェントの
間にある高速90号で彼の部隊がドイツ軍に出くわしたときだった・・・
くそったれが、まったく縁起でもない・・・
気が滅入ってきて悪態をついていたところで、浴室のドアが開いて・・・
セイラが何事もなかったような笑顔を浮かべて部屋に入ってきた・・・
そうして髪を整え、しっかり化粧がされていると、晩飯のときの
かかしのような様子とはまるで違って見えるというものだな・・・
そう考え、煙草をもみ消してセイラの差し向かいに歩いていき・・・
抱きしめようとしたときだった・・・
革のジャケットを着て背の盛り上がった若い男が壁をすりぬけるように
して現れて・・・
壮絶な笑みとともに、片手を振り上げて見せたのだ・・・
反射的に身体が動いていた・・・
セイラの前に立ちふさがって・・・
そっと後ろのソファーに腰をおろさせてから・・・
身体に黄金のフィールドを展開させた・・・
すると木に使うような電気ノコを思わせる振動音が響いてきて・・・
アドレナリンが身体に満ちるのを感じながら・・・
侵入者に目を向けると・・・
若いが青白い顔に驚いた様子が見て取れる・・・
手の甲で軽く小突いたつもりだったが・・・
少年は黄色い光とともに浴室の壁にまで吹き飛んでいった・・・
そしてまるでぬいぐるみであるかのように床に落ちた・・・
そこでセイラは暗殺者の姿を見たようで叫びをあげて・・・
ジャックは思わず驚いて身を竦ませながらも・・・
「大丈夫だよ、セイラ」そう声をかけたが、叫び続け・・・
立とうともがいているようだった・・・
そこでジャックは少年のところに向かい見下ろしていると・・・
突然目を見開いて、叫ぶような振動音とともに手をナイフのように
振り上げてきた・・・
黄金の火花が散ったように思えて目をやると、服が猫にひっかかれた
ように切り裂かれている・・・
眉一つ動かさずに、革ジャケットを摑んで押さえつけると・・・
どうやら少年は何がおこっているか信じられないといった様子で、
ジャックの腕を切りつけるようにしていたが・・・
シャツをリボンのように切り裂いただけだった・・・
おそらくまともな相手に出くわしたことはなかったのだろう・・・
「殺して」セイラの声だった・・・
「ジャック、そいつなのよ」
そうは言われたものの殺すつもりはない・・・
気絶させて、後でどこのどいつで誰のために動いたか聞きだしたいと
考えているのだ・・・
平手で頭を軽く撫で数時間眠らせようとためしたが・・・
それは空振りすることになった・・・
そしてジャケットを摑んでいたもう片方の手も突然手ごたえを
失った・・・
輪郭がぶれた歪んだ笑みとともに・・・
ゆっくりと漂うようにして、落ちて行ったように思えたがそうではなかった・・・
少年は床に沈んでいったのだ・・・
「ジャック!」セイラが泣き叫んでいる・・・
「ジャック、ああなんてことなの・・・」
背筋が寒くなるような感覚を感じながらも・・・
2度ほど拳を叩き込もうとしたが適わず・・・
少年は浮き上がって床の上にでて、歪んだ笑みを浮べ、
あろうことかジャックの身体をすり抜けセイラに向かっていったのだ・・・
振り向いて後を追いはしたが・・・
セイラは扉を背にして立ちすくんでいるではないか・・・
ショルダーバッグを守るよう抱えたセイラであったが・・・
ダンボールが切り裂かれるような鈍い音とともにバッグは切り裂かれていて・・・
ジャックは少年のジャケットの襟首を全力で掴んで引き戻そうとしたが・・・
少年は脚が床につく前に身体の位相を変えたため・・・
ジャックがつんのめるようになったところで・・・
少年の身体が一度浮き上がってから少し下がって止まっていたが・・・
見たところその顔を怒りで紅潮させたまま・・・
天井にめり込むようにして身体の下半分だけ天井からぶらさがるようにして
それから降りてきた・・・
「なんて・・なんてことなの」
セイラが鍵のかかったドアノブをかきむしるようにして呟いている・・・
あけようとしているらしいがうまくいかないのだろう・・・
そこでジャックはひとつの事実に気がついた・・・
少年が糸ノコのような腕で相手を切り裂こうとする際には身体を実体化し
なければならないということだ・・・
ならば仕留めにきたときがチャンスとなる・・・
それならナチスの亡命者でつまった車を掴んで振り回すよりは簡単という
ものだろう・・・
そこでセイラはようやく鍵を開けて、叫びながら外に出て行っていた・・・
革を着た少年は天井から下がってきて・・・頭が天井から出た・・・
そこでジャックはじっと少年が位相を変え、実体を現すときを待っていると・・・
少年は滑るようにそのまま壁に飛び込んでいって・・・
ジャックの後ろにあたる寝室に入っていった・・・
Hellくそ」そう悪態をつきながら・・・
後を追おうかと一瞬考えて追いかけたが途中で思い直し・・・
寝室の扉の前に立って・・・ドアごと殴ることにしたのだ・・・
そうして光を迸らせたままあいた穴に視線をやると・・・
少年が一度実体化して下に下りてから、廊下側の壁に飛び込もうと
しているのが視線に入ってきたが・・・
刺客が一瞬で位相を変えて頭から壁に飛び込んだのを見て・・・
Hellくそ」と再び悪態をついていた・・・
それから気を取り直して、ドアをでて廊下に向かうと・・・
さほど離れていないところに少年はいて・・・
セイラをまだ見つけていないようすだった・・・
おそらくどこかからバルコニーに出てそこから内庭にでもでたのだろう・・・
そこで<Don`t cry for me Argentinaアルゼンチンよ、私のために
嘆かないで>の忌々しい調べが下から響いてきた・・・
ジャックは少年の首筋に向けて力の限りの一撃を食らわそうとしたが・・・
ただ壁を殴ることになってしまった・・・
少年はそれを見て一瞬たじろぎはしたが・・・
ジャックを尻目に部屋に入って内庭に続くバルコニーに立ち・・・
振り返って、正気と思えない笑みを向けてから・・・
手を振動させ・・・見せ付けるようにバルコニーの一部を切りとって見せたのだ・・・
そこでジャックは少年に向かい・・・
その勢いのまま上体を振りかぶって・・・右手を少年の腹にめり込ませよう
としたのだ・・・
全体重をのせ力の限りに・・・
そこで少年は位相を変えたため・・・
ジャックはベランダの手すりから飛び出すことになってしまったのだ・・・
黄金の光とともに・・・



            ヴィクター・ミラン

扉を出て、吹き抜けの階段を下っていた・・・
閉ざされおしこまれたように感じながらも・・・
真っ二つに切り裂かれたのを目にした恐怖が強烈な明かりのように
こびりついてはなれないままで・・・
どこへ向かっているかさえわかりはしない・・・
こころのどこかにそうしてパニックになった自分を見つめるもう一人の
自分を感じながら・・・
行く場所などありはしない、それを認めたくないからこそ、絶望を
直視したくないからこそパニックに逃げ込んでいるのだ、と冷静に
考えている自分もいて・・・
もどるべきなのだ・・・
そんな言葉が喉まででかかってはいても・・・
一方で脚がばたばたして絡まりながらも動きを止めやしないではないか・・・
そんな風に乱暴に考える自分もいる・・・
手に触れる壁が、押し迫り閉じていくような感覚に囚われて・・・
叫んでいた・・・
心臓が破裂して口から飛び散っているかのように・・・
恐怖に落ちていくかのように・・・
「顔を上げろ」どこかで声がする・・・
柔らかいが自信に満ちた訛りのある声だ・・・
顔を上げると年老いた男が話しかけている・・・
たしかタキオンのところで居候していた男で、以前はミッキィ・
マ*スのTシャツを着ていたように思うが今はライムグリーンの
レジャースーツを着込んでいるようだ・・・
「顔を上げろ」男は再びそういってから言葉を継いだ・・・
「それが正しいことはわかるだろう」
男の顔を見ずに頷いていた・・・
足下を見ると靴もなくなっていて黙ったままでいると・・・
「来るんだ、安全な場所に連れて行こう」
そう言われ、その声に従うことにしたのだ・・・