その3

       スティーブン・リー
        1988年7月22日
         午前8時


ビリィ・レイが開いたドアから首を突っ込むようにして
言葉をかけてきた・・・
「警備の人間から階段には誰もいない、という報告が
上がっていますが、お二人のご都合はいかがですか?」
「今出るところだよ・・・」グレッグが首のタイを直し
ながらそう言葉を返していると・・・
パペットマンが油断のならない猫のようにとびかかろう
と鎌首をもたげているのを感じていたところに…
エレンがようやく洗面所から姿を現して・・・
グレッグに何やら含みのありげな笑顔を向けてきた・・・
グレッグがそれに対しなだめすかすような笑顔を返して・・・
「大丈夫だよ」と言葉を添えて・・・
「今朝、君と話したときよりはだいぶよくなった、心配ないと
思うよ・・・」
そう応えてエレンの身体に手を回し、お腹を軽く叩いて
みせて・・・
「パパは大統領になるかもしれないね・・・」
そうおどけてみせると、エレンは何も言わず、そっと
グレッグを抱きしめてから・・・
「この子がお腹を蹴るのよ、きっと男の子ね」
そう言葉をかけてきた・・・
「男の子だって、それは間違いないのかね?」
そう言葉を返すと・・・
エレンは肘でつつくようにしてから、手を再びまわして
グレッグを抱きしめ直している・・・
グレッグはそれに肩を竦めて応じながらも・・・
死んだはずのジョーカーは男だったからな・・・


そう内心考えながらも思わず・・・
「ただのHunch(勘:盛り上がった背中の意味もある)だよ・・・」と
答えていてぞっとしていると・・・

エレンがくすくすと笑い声を立てながら言葉をかけてきた・・・
「あら、今度は静かになった・・・眠ったのかしらね」と・・・
そこでグレッグが一端目を閉じて気持ちを落ちつけながらなんとか
言葉を絞り出した・・・
「いいね?」と・・・
そしてひと息ついてから言葉を継いだ・・・
「行くよ、エーミィとジョンが待ちかねているだろうからね・・・」
そう言ってビリィに手振りで合図して歩き出した・・・
選挙本部は一階下にあって、そこで朝のミーティングが行われるのだ・・・
いつもは階段を使って降りているが・・・
エレベーターを使うべきだと内心思いながらも・・・
内なる声が階段で行く必要があると告げている・・・
それに喜んで応じ階段を下りることにしたのだ・・・
そうとも、終わりにしたいのだろ?


パペットマンの胎動が強まって、その声がしきりにそうするよう勧めて
くるのだ・・・
何も起こるものか、今手をうたなくても、別の手を考えればいいじゃないか?そうだろ?別のチャンスを待てばいいじゃないか?


色の塗られたコンクリートに対し、鉄そのものの色合いの急峻な階段は
広間の中で異様に映るものだ・・・
そこを視界に認めながら傍に常に控えているアレックス・ジェームズに
頷いてみせると・・・
ビリィ・レイがドアを開けてエレンが外に出て・・・
グレッグはその扉に手をかけながらビリィに先に行くよう促していた・・
こんなことは望んじゃいない、やめるんだ・・・グレッグのその声に・・・
選択の余地などないのだよ・・・パペトマンはそう返しせっついてくる・・・

そこでギムリの精神の痕跡を己の内に探してみは
したもののやはり何の痕跡もない・・・
そこでパペットマンの箍を緩めてしまっていたのだ・・・
階段を下りようとしていたエレンに向っていって・・・
その無防備に開かれた精神に押し入ってギムリの痕跡を
探しているではないか・・・
そうして見つけ出してしまったのだ・・・
もはや馴染みとなったその精神がそこにあることを・・
そこでエレンに軽い眩暈を起こさせ、バランスを崩す・・
ただそれだけでよかったのだ・・・
それだけのことをパペットマンは一瞬にしてしてのけたのだ・・・
軽いパニックを感じはしたものの気持ちが落ち着いたときにはもはや
手遅れだった・・・
それは数秒とも思われないほんのわずかな間に起こってしまって
いたのだ・・・
エレンはわずかによろめいてそして叫んでいたのだ・・・
グレッグが手すりを掴んだときにはもはやそれは起こってしまって
いて・・・
パペットマンはそのときにはビリィの精神にとびかかっていて・・・
ビリィのアドレナリンを操作してとっさの反応を遅らせていた・・・
グレッグが何をするまでもなくすべては起こってしまっていたのだ・・・
そうして一瞬遅れてビリィがエレンに手を伸ばしたが・・・
そのときにはその指は空を掴んでいて・・・
そしてエレンは落ちてしまっていたのだった・・・
永遠にも思えるその瞬間のあと・・・
グレッグはビリィをおしのけるようにしてエレンに手を伸ばしたものの・・・
その手はもはやむなしく届きはせずに・・・
エレンの身体は階段の下の壁にもたれるようにして横たわっていて・・・
グレッグが駆け寄ったときには・・・
その目は閉じられたまま表情は苦悶に歪んでいて・・・
頭のあたりからは血が流れているようだったが・・・
身体を起そうとして腰を上げているところに・・・
グレッグが抱え起こそうとすると・・・
レイがジェームズに救急車を呼ぶよう叫んだところで・・・
エレンがかすかな声を上げて、胃の辺りを掴んでいる・・・
その脚の間の血溜りを感じながら・・・
目を開いて・・・
「グレッグ」そして吐き出すように言葉を継いでいた・・・
「ああグレッグ、なんてことなの・・・私はなんてことを・・」
そして身を震わせながらすすり泣き初めて・・・
グレッグもそこで共に嘆きながら・・・
産まれたかもしれない子に対し悼みながらも・・・
己の一部はそれを祝ってさえいるのだ・・・
その両方の感情を感じながらも・・・
そのときにはもはや・・・
グレッグにはパペットマンを呪うしか・・・
できはしなかったのだ・・・



       ウォルトン・サイモンズ

           午前9時

朝食をとる人々は少なくなってきていたが・・・
まだそれでも様々な肌の色、様々な階層の人々が
散見できる・・・
それだけ職がある、ということなのだろうが・・・
スペクターにとっては我慢できない殺してやりたい
人間が多いということなのだからたまったものじゃ
ない・・・
これならマリオットの方がましというものだろう・・
昨晩襲われたことを思い出すだに背筋が寒くなって
気が落ち着かないが・・・
それでもニュースにはならなかったとみえてそれだけは
安堵できた・・・
第一トニーがジョーカー嫌いの連中に襲われて病院に
送られたところで本来何の係わりもないことなのだ・・
シェリーを病院に送ってすぐにその場を離れた・・・
警官でも現れて事情をきかれたらまずいと考えたから
だった・・・
幸か不幸かしれないがともあれシェリーも胡乱な目を
向けはしたが引き留めようとはしなかった・・・
それになぜだかしれないがスペクターのことを話さない
だろうという確信はあったのだ・・・
おそらくシェリーはトニーの傍にいられること以外、
何も望んでいないに違いない・・・
ベーコン入りのハッシュブラウンの残りを掻き込みは
したが・・・
まだ熱いコーヒーも飲み干さねばなるまいし・・・
まだ仕事を始めたばかりなのだから離れるべきではない
とはいえ・・・
それでもトニーに一言別れを告げて、とっととこの
街を離れるべきではないのか。そんな気分が高まって
いるのだ・・・
ともあれそこは割り切るしかあるまい・・・
そうして気持ちを落ちつかせ・・・
やらねばならない仕事に集中することだ・・・
そう己に言い聞かせるばかりであったのだ・・・