第五章その8

         ヴィクター・ミラン
           午後2時


安宿だけにカッテージチーズを塗りたくったような色の漆喰の塗られている
壁程度では音が遮られないとみえて、水の流れるような音が響いてきている
一方・・・
テレビからは鮮やかな蒼い肌をした可愛らしいジョーカーの女の子が、
Henry Winklerヘンリー・ウィンクラーの出した手がかりをもとに
何か応えようとしている様子が映し出されている・・・
助けてくれたあの男がKマートから買ってきた安っぽくごわごわした
部屋着を着て・・・
セイラはベッドの端に腰かけ、そこに映し出されているものに目を
凝らしながら・・・
様々な情報の奔流から、砕けたガラスの破片を手繰り寄せるように
していたのだ・・・
不意の転落で・・・グレッグ・ハートマンの妻が流産した・・・
上院議員はその悲しみに耐えながら政治生命をかけて党大会を闘い抜いている・・・
その姿は90年代へと向かおうとするアメリカの精神そのもののように
思えると・・・
そうコメントするものもいたが・・・
そんな言葉すらも、セイラには血が滲んだものとしか思えない・・・
人でなしだわ、モンスターよ、妻だけではなく、生まれてもいない子供まで
あの男は己の政策実現のための生贄にしたのだから・・・
そうしているとWHOの査察ツアーで見たエレン・ハートマンの表情が脳裏に
甦ってきた・・・
微かな微笑みを浮かべているその顔を、いかにも悲劇が似合いそうな顔だったが、
死を間近にして望んでいた子すら失った今はどんな顔をしているだろうか・・・
セイラは、人というのは男と女双方のことで、互いに敬意を抱ければそれでいい
という程度の考えで、あまり熱心なフェミニストともいえない性質ながら・・・
この悲劇は、セイラのこころの奥の、根源的な何かを抉ったように感じられて・・
怒りが沸々と湧き上がってくるのだ・・・
それは己自身のための怒りであろうか?
それともエレンのための怒りか?
いやハートマンの餌食となったすべての者たちのための怒りではあるまいか?
たしかに、それは、すべての女性のため、といっても差し支えないのではあるまいか・・・
そうだ、アンドレアのためだった・・・
そういえばもう昨日のことながら警察がサイレンの音も高らかに現場に到着したときには、
あの男に連れ出されてホテルから抜け出せていた・・・
それで今朝に至るまで大して耳目に上がらずにすんだわけだが・・・
耳目に上がるとどころか、あの男も実際どこの誰か知れたものじゃないわけだが、なぜか
どこの組織に連なるかといった素性というものを聞かないといった約束までさせられている・・・
無論報道に携わる身として好奇心がわかないわけではなかったが・・・
そうすることがさも当然というようにいいくるめられていたのだった・・・
おそらくソビエトあたりのスパイではあるまいか・・・
たしかに神経衰弱気味のニューヨークの文化人たちの薫陶を受けた西部の田舎娘としては
青天の霹靂ともいえる事態ながら・・・
ジョーカータウンの裏通りで荒事に係わってきたという自負も持ち合わせている身としては
さほどのことでもないとも思える・・・
利用できるものは利用するしかあるまい・・・
グレッグ・ハートマンに対抗するには手段など選んではいられない・・・
グレッグ・ハートマンは報いを受けるべきなのだ・・・
無論セイラ・モーゲンスターンとても死にたいわけではない・・・
みすみすことを急いでアンディの後を追うことになっては元も子もあるまい・・・
George Steeleジョージ・スティールと名乗るあの男から言われた通り・・・
姿を隠さないまでながら、あからさまでない程度の・・・
そういった目立たない妨害工作に徹した方が得策というものだろう・・・
とはいってもあいつから逃げおおせるものだろうか?
捻じくれた身体の革ジャケットの男、あのメロディを口ずさみながら壁を通り抜ける化け物に
狙われている以上、どちらにせよ隠れおおせるものではあるまい・・・
次にあいつに出くわしたらどうなるだろうか?
首を振って、髪の端で頬を不意に伝った光るものを振り払いながら・・・
テレビに目をやると、出番が終わったのか先ほどの蒼い女の子の姿はもはやなく・・・
あの娘が不幸でなければいいのだが、と・・・
そう願わずにはいられなかったのだ・・・