その18

      ウォルトン・サイモンズ
          午後7時


辺り一面己のものである血にまみれで・・・
スペクターは 外れかけた顎を掴み・・・
何回か深く息を吸い込んでから顎を元の位置に戻すと・・・
溢れる涙に瞬きすることになったが・・・
痛みは耐え難いというものではない・・・
ゆっくりと立ち上がりコンクリートの壁に背をもたれかけ・・・

ゴールデンボーイは動かなかったな、呼吸をしていなかった
に違いない・・・
ブローンを殺すはおろか痛めつけることすらできないと考えて
いたものだったが・・・
幸いそれは間違いだったということか・・・
そんな感慨にふけっている場合でないのはわかっている・・・
とっととここから離れるべきだろう・・・
そんなに時間はかかっちゃいないが、それなりに音は響いて
いた・・・
私服警備員たちが駆けつけるのも時間の問題というものだろうから・・・
動く方の手で靴を脱ぎゆっくりと階段を下りた・・・
一段、二段と降りたところでもう数える必要のないことに気づいた・・・
残された血が検査されれば、エースの仕業としれることだろう・・・
エースの殺し屋というやつだ・・・
そう一人ごち・・・
親指と人差し指で頬に触れてみるとすでに繋がり始めていて・・・
ここは10階といったところか?
まったくなんて高い建物をつくるものやら・・・
そんなことを考えていると吹き抜けの上のドアが開いた・・・
スペクターは肩を掴むようにしてできるだけ壁にぴたりと身体を
つけて目立たないように努めた・・・
誰かいて手すりに手をかけ上だか下だかを見ているに違いないのだ・・・
ここで見つかっては元も子もなくなるというものだろう・・・
それに1031号室の鍵も持ったままなのだ・・・
こいつもなんとかせねばなるまい・・・
そんなことを考えつつも・・・
脇が妙に傷んでならない・・・
ゴールデンボーイにろっ骨を砕かれたに違いない・・・
それでもなんとか呼吸はできるようだ・・・
おそらく肺は動いているのだろう・・・
10階についたところで一旦落ち着いて・・・
コートを脱いだ・・・
顎の骨も頭蓋とつながって安定しているように思えるが・・・
それでもまだ当分話すことはできないだろう・・・
スペクターはコートの裾で顔や首についた血を拭き取ろうと、
指で念入りに拭っていると・・・
上の方から足音と声が響いてきた・・・
どのくらい上から響いているかもこちらに向かっているかも
判別がつかないわけだが・・・
スペクターがひどい状態であることに間違いはなく・・・
手を広げ、手のひらで顔を擦って、少しでも血の跡が目立た
ないようつとめた・・・
顎がまだサーカスの怪力男に引っ張られているようにつっぱるのを
感じながら・・・
スペクターは靴を履きなおして、目の前の扉を開け・・・
そこを通り抜けて廊下に出て・・・
音をできるだけ立てないよう気を配りながら扉を閉じた・・・
コートに手を回し、血があまり目立たなくなっているのを確認してから、
天井のない中庭にゆっくりと出た・・・
ロビーの方に目をやると廊下よりも人波が際立ってはいるが誰にも
気付かれたという感じがしないのを確認してから・・・
咳き込みつつ喉にからみついた乾いた血の塊を吐き出した・・・
一瞬視線を向けられたかと思った瞬間もあったが、その視線もすぐ
上に向けられて・・・
ゴールデンボーイだ」男は酔っ払っているようでふらふらした
手で上を指さしてそう声を立てている・・・
その声にスペクターは慌てて上を見ると・・・
視線の端にゴールデンボーイの形をしたグライダーが飛び込んできて・・・
ゆっくりと旋回して床の方に滑って行った・・・
笑うのも辛い状況ながら不思議と笑いたい気分になった・・・
ブローンにアストロノマーまで始末してのけたのだ・・・
こんなことのできるやつが他にいるだろうか・・・
ハートマンであろうとも近づくことさえできればどうだろうか?
上院議員がエースであろうとも何とかできるのではなかろうか?
そんなことを考えて廊下を進んで行くと1031号室扉の前に立っていた・・・
辺りを見回して誰かいるようなら立ち去ろうと思いはしたが・・・
ともあれ意を決して鍵穴に鍵を差し込んでドアを開け、青い光のチラついている
室内に入っていったのだ・・・