「一縷の望み」その6

火曜午後10時50分

ギムリが言っていた、セイラのアパートを誰が見張っているかわからないと・・・
あの侏儒は被害妄想気味であるとは思っていたが、それでも辺りに人の姿がなくなるのを待ってから、前の通りを横切った、夫のサィードは、ヌール・セクトのセキュリティを勤めていたが、この細心さならば彼も認めてくれるだろう・・・
「プロは、望んだとき以外、アマチュアの前に姿を現すことはない・・」といっていたことを思い出していた・・・
サィードの記憶が痛みを伴って蘇ってくる・・・
その蔑みに満ちた口調に、歪んだ身体、そして彼の身体が目の前で倒されたとき、彼の骨が枯れ木のごとく音を立てて砕け、その朽ちた身体を抱えて獣のごとき低い呻きをあげていたときに、恐れとともに、奇妙なことに安堵すら入り混じった感情を感じていたのであったのだから・・・
その記憶に身震いしながらも通りを横切って、正面入り口のドアの前に立つと、あっさりインターコムのボタンが押せた、そのスリガラスの嵌められたドアならば簡単に破って押し入ることができるだろう、そうアメリカでのセキュリティの緩さを感じていると、疲れと用心深さの入り混じった声が中から響いてきた・・・
「はい・・誰でしょうか?」
「ミーシャです、カーヒナと呼ばれていました、話をしたいのですが・・・」
わずかな沈黙が流れて、そのまま放置されるかと思われたが、スピーカーの向こうからボタンを押す音とともに言葉が流れ出来た・・・
「入って、二階に上がって、すぐ前の部屋よ」
ドアから流れるブザーの甲高い音を聞きながら、ミーシャはためらっていたが、どうしていいかわからないまま、ドアを押してみると開いた。
そこで空調の整ったホワイエ(エントランス)を抜けて階段を上ると、ガチャっという音とともに正面のドアがわずかに開き、そこに近づくと、外を窺う視線が感じ取れたが、その視線がふっと外されると共に、チェーンの外される音がして、ドアがさらに大きく開け放たれ、ようやく人一人入れるようになったところで、
「どうぞ」とセイラの声がかかった。
セイラの姿は記憶のものより細く見え、むしろやつれてすら見える。
その顔は血の気が引いたように青白く見え、その目の下には大きく膨らんだ隈があり、髪は少なくとも一両日中は洗われていないようで、生気のない肩をだらんと垂らしながら、ミーシャが入ると、よりかかるというより倒れこむようにしてドアを閉めた・・・
「カーヒナさん、見違えて見えるわね、チャドルもヴェールもなくて、従ったボディガードもいないけれど、その声と目だけは憶えていた通りだわ」
「でも変わってしまったのでしょうね・・」
ミーシャは可能な限り穏やかに応えた。
闇にまたたくようなその瞳からは痛みが感じられてならなかったから・・・
「生きるというのは残酷なことね」セイラはようやくドアから身体を離したが、瞳はそこに縫い付けられたままのように感じられる・・・
「セイラさん、砂漠を離れ・・目にしたあなたの記事から感じたのです、私を気遣い、理解してくれていましたね」
「ここのところ記事は書いてないのよ」
そう応え、部屋の中に入って、一つだけあったランプに火を入れたが、逆に室内の薄暗さが際立つことになった・・・
「ともかく座って頂戴、私は喉を潤したいから、あなたも何かいかがかしら・・・」
「それでは水を・・」
セイラは弱々しげに肩をすくめ、キッチンに行き、タンブラーを二つ持って戻ってきて、その一つをミーシャに手渡した。
セイラのものからはアルコール臭が漂っていて、
セイラがミーシャの前を横切って長いすに行き、そこに寄りかかったところで、ようやくミーシャは喉を潤した。
「あれはおそろしい体験でした、あなたの弟が・・」そこで一端言葉を切って、グラスごしにミーシャに視線を向け言葉を促した・・・
「正気とは思えなかったのです、あのままでは皆が生命を落とすと感じました、だから私は・・・」
一口喉を湿らせてから言葉を継いだ・・・
「喉を切り裂いたのです」そう言い終えた言葉と視線には、誰一人として持ち得ない痛みに充たされており、長いすの脇のテーブルに置かれたグラスからは、その沈黙に反し、氷の割れる音がありえないほど甲高く響いた・・・
「さぞや辛い決断だったのでしょうね・・」
アッラーの夢が示すところによれば・・」
アッラーの夢などではないのでしょ・・」
セイラが怒りをこめた声で言葉を遮った。
「ただのワイルドカード能力で、同じ症例が半ダースほど認められています、未来の断片、すなわち起こりうる可能性というものが予告のように垣間見えるだけで、神とは何ら関係するものではないのよ」
その声は甲高く、飲むたびに手の震えが大きくなっていくようであった・・・
「あの男がやったと思っていたことがあるのでしょう・・セイラ、それであの男を憎んでいたのではなかったのですか?」
激しい反論を予想していたが、セイラは意外にも淡々と語り始めた・・・
「間違いだったのね、彼が・・・姉を殺したと考えていたの、ミーシャ、根拠などないのよ、私が間違っていたのでしょう・・」
「それが真実であることを恐れているのでしょう、夢が告げています、ベルリンでも迷いが生じたのでしょう、私がダマスカスで告げた言葉が頭をよぎったのではありませんか、
あなたの愛する者のわたしへの振る舞いは、それすなわちあなたへの振舞いと重なることでしょう、といった言葉が・・・
それなのに、彼がそばに来た途端、その感情が薄れたということがあったのではありませんか?」
Damn Youなんてことを・・」セイラはそう叫ぶとともにタンブラーを払い、それは壁にぶつかって、ドスンと床に落ちた・・・「あなたには係わりのないことでしょう・・」
「証拠があります」セイラの怒りを宥めるべく穏やかに言葉をふると、多少は落ち着いた視線を向けてきた・・・
「ただの夢なのでしょ」吐き捨てるようなセイラの言葉に穏やかに応じた。
「モスクでハートマンが撃たれたときのジャケットです、これは夢の産物ではありませんよ、裏付ける分析がでているのです、あなたがたのいうところのワイルドカードウィルスの感染を、です」
セイラはその言葉を首を荒々しく振るしぐさとともに否定してのけた。
「その結果になるようしくんだのでしょ」
「もちろんハートマンが偽の鑑定を持ち出して対抗することも簡単でしょうけれど・・」
そう返しはしたが、セイラの瞳に湛えられた苦しみに怯みながらも、セイラはヴィジョンに出てきた切り札なのだ、そう己に言い聞かせて言葉を継いだ。
「もし彼が感染しているとするなら、あなたのお姉さんに起こったことも、私の異常な行動をも説明できるとは思いませんか、ベルリンでのことすらもすべて・・その答えをずっと求めていたのではなかったのですか?」
「だったら他の記者のところに持っていけばいいじゃない・・」
「私はここに来たのです」
セイラは首を激しく振って拒絶を示していたが、かまわず続けた。
「もちろんあなた自身でなくても構いませんが、
もうわかっているのでしょ、他の人間を巻き込むということがどういうことなのかを・・また何かが起きて、死体が増えるということを・・」
それでもいやいやをするように首を振り続けていたが、肩を落として、怒りはいくぶん落ち着いたかのように思える・・・
「信用・・できるものですか・・
お願いです、帰ってください」
「いいですか、セイラさん、我々は合わせ鏡のような存在なのです、互いに傷つき、身内の死に対する正義を求めている、そして真実を得るまでその叫びは止むことがないはずです、そうでしょ、愛憎の境目は曖昧なもの、その感情はときとして人を過ちに導くもの、私は弟への愛情がありながら、憎悪もまた持ち合わせ、あの凶行に及んでしまった・・・
あなたはハートマンへの愛情ゆえに、その仮面の下の暗い側面に気づきながらも、彼の真実を暴こうとはしない、それはあなたの愛情がまがいものであることを認めたくないから、あなたが彼に愛されているのではなく、利用されているということを、認めたくないからではありませんか・・」
応えはなかったが、しまいにはめ息をついて肯くしかなった・・・何も言えはしなかったのだろうから・・・
そして何よりも、言葉の一つ一つが彼女の心の傷をえぐったであろうことが痛いほどに理解できたのだから・・・
セイラの肩にそっと触れて下がらせ、ドアに向かいながらも、そのか細い肩から涙のような感情が
感じられてきた・・・
そこでノブに手をかけたところで、セイラがようやくくぐもった声をかけてきた・・・
「彼のジャケットだと誓っていえるのですね」
ノブに手をかけながら、回そうとせず、かすかな希望を感じながら答えを返した。
「誓って彼のものです」
タキオンを信用できますか?」
「あの異星人ですか?よく知りませんし、ギムリはあまりよい感情を抱いてはいませんでしたが、あなたが信用できるというならば、私も信用します」
「でしたら今週末、木曜午後6時30分にジョーカータウンクリニックの前で会いましょう、そこでタキオンにジャケットを診てもらうのです、それでいいですね・・」
その言葉に息が詰まるような安堵を感じながら、
笑顔を浮かべ、セイラを抱きしめ、ともに嗚咽したくなる感情を抑え、ただ頷いてから応えた。
「約束します、私はただ真実を求めているのですから・・」
「もしタキオンが感染を否定したとしたら・・」
「そのときは、すべてを受け入れて、自分自身の罪だと認めることができます」
そうしてノブを回しながらも言葉を継いでいた・・・
「けれどもし私が現れなければ、私の身に何かが起こったということです、それが何を意味するかはおわかりでしょう・・」
「それは都合が良すぎる、というものではありませんか?」必死で皮肉にみせようとする感情をこめながらセイラは続けた
「あなたは来なければいいのですから・・」
「そうなっても信じてもらえないのですね?」
応えはなかった、ミーシャはその沈黙を感じながら、
ドアを押し、外に歩み始めたのであった・・・

あなたの愛するものの振る舞いは・・・そんな言葉を再びよぎらせながら・・・