「零の刻」その15

ハイラムの言葉に違わず、回廊の壁は石膏がむき出しとなった灰色で、突き当たりのドアにはターコイズのナウガハイドが貼られた上に、真鍮の釘が突き出たかたちになっている・・・
そこから一人のホステスが出てきて、フォーチュネイトの袖を引いたが、「すまんが君にようはない」と日本語で意思を伝えた
「オヤブンに会いたい、重要な用件だと伝えて欲しい」と・・・
娘はしばらくぽかんとした顔をしてフォーチュネイトを見つめていたが、ようやく気おされながらどもりつつ答えた
「ワ、ワ、ワカリマセン」と・・・
「いやわかっているはずだ、ボスのところに案内して欲しい、話さなければならないことがあるのだから・・」
ドアの傍らに立って待つことにした・・・
中は天井が低く、左側の壁には鏡状のタイルが貼られていて、小部屋がいくつか並んでいるようだ・・・
アメリカのソーダ水売り場を思わせるバーもあるようだ、そしてそこにいる男は主にコリアンであり、安っぽいポリエステルのスーツに広がったタイをつけていて、襟や袖口からは刺青を覗かせている・・・
彼らと視線があったが、彼らの方が視線を外した・・・
そうして11時になった、内の力が胎動するのを感じる、ナーバスになりすぎているのだ、
そんなに深刻になることはない、たとえ危険の真っ只中にあるとしても、自分はガイジンで、ハイラムの借りを返したら出て行く、ただそれだけなのだ、何も問題などありはしない、と己に言い聞かせた・・・
もう水曜の深夜になる、金曜には韓国、そしてソヴィエト連邦に向けハイラムにペレも乗せ747機が立つのだから、ハイラムの命運はそれまでに決せねばなるまい・・・
そこでふと考えてしまった・・・
彼らと一緒にニューヨークに戻ったらどうなるだろうか、と・・・
たとえそうしたところで、未来においてもペレとの道はもはや交わりはしない、そんなことはわかりきっているというのに・・・
トウキョーに愛着を感じてはいるが、それもまた一方的な感情に思えてならない・・・
必要なものは確かに得られる、だがそこには礼儀正しさという壁が常に聳えているように思える・・・
その美しさで魅惑し、性的快楽を得ることができようとも、彼は常にガイジンでしかない・・・
何よりもファミリーというものが重視される社会において、何者にも属さない存在、それが自分なのだ、と思い知らされてならない・・・
そんなことを考えていると、奥の小部屋から、一人の日本人とともに、ホステスが出てきた、
その男は長めのパンチパーマをかけていて、シルクのスーツを着こなしているが、左手の指が一本なくなっている・・・
ヤクザはその過ちを指を切ることによって償うのだ・・・
まだ若い子供じゃないか、と思いはしたが、それ以上は考えない方がいいのだろう・・・
そうして壁際のテーブルの一つに案内された、
そこにはオヤブンが掛けており、40歳くらいだろうか、両側にジョーサン(若い娘)を二人はべらせているが、対面には重火器を携えた守衛もうかがえる・・・
「席を外してくれないか」そうホステスに頼むと、女はいそいそと出て行った、そこで立ち上がって身構えた守衛にも言葉を重ねた
「あんたたちもだ」そうして二人の若い娘にも目配せをしていると、オヤブンが落ち着いた笑みとともに彼らに退出を促した・・・
それに対しお辞儀で応じると、オヤブンも深いお辞儀を返してから言葉を発した。
「カナガキといいます、まぁお掛けなさい」
そこで対面に腰を下ろした。
「ハイラム・ワーチェスターというガイジンの代理として借りを返しにきました」そこで小切手を取り出し言葉を継いだ。
「おいくらでしょうか、二百万くらいとうかがっていますが」
「そういえば」カナガキが不意に言葉を発した。
「そういえばあなた方のお仲間に赤い髪の御仁はいらっしゃらないかな、あれは面白い方ですなぁ」
タキオンか?何をしでかしたというんだ?あいつの分も支払いが必要だというのか?」
小切手を示しながら尋ねたが
「何もなさいませんでした、ジョーサンが何人か彼に快楽を与えようとしたのですが、彼の男性自身はぴくりともなさらなかったようで・・」
タキオンがだと?不能だというのか、自然と笑いがこみ上げてくる、
だとしたらあのホテルでの打ちひしがれた態度にも説明がつくというものだろうから・・・
「奴の話はいい・・ビジネスの話をしようじゃないか」
「それではビジネスといきましょう、たしかに二百万円ですが」そこで時計をみやり笑みを浮かべて言葉を放った「あと数分で4百万円となります、気の毒なガイジンながら、ワーチェスターさんをつれてくるべきでしたな」
フォーチュネイトは首を振ってその言葉をさえぎって答えた。
「ワーチェスターさんの身柄は必要ないでしょう」
「あるのですよ、ここだったら安全でしたのに」その眼を捕らえて尋ねた。
「金ならある、これで話を着いたと思うのだが」
だがカナガキの意思は強く、さらに凄みを聞かせた声を、喉から絞り出すように重ねてきた。
「あなたの面子はたてたいのですが・・」
そこで小切手を切り、カナガキに手渡した。
「待ってくれ、これで終わりのはずだ」
「そうですね・・清算自体は終わったわけですが」
「そういえばゼロマンという名の暗殺者を雇っていると聞いたが」
「Mori Riishiモリ・リイシと言う名の男です」日本式に苗字を先にして、その本名を口にした・・・
「そのゼロマンはワーチェスターさんから手を引いてくれるのだろうな」
カンナギは答えなかった。
「どうなんだ?」重ねるよう尋ねた。
「なぜ答えない?」
「手遅れですよ、モリはもう放たれてしまった、今晩でもワーチェスターさんの生命の灯は消えることでしょう・・」
「Christ(なんてことだ)」おもわず呻きをもらしていた・・
「モリがトウキョウに現われたというのも噂のみで、その評判のみを我々は耳にしていました」
ワーチェスターのいる場所を知っているのはペレのみだ・・・
「どこを狙っているというんだ?」
カナガキは両手を広げて肩をすくめてみせた
「さてどこでしょう?」
フォーチュネイトが立ち上がると、その不穏な空気を察したのか守衛が戻ってきて、テーブルを取り囲んだ・・・
もはやこいつらにかまっているどころではない・・・
力で楔形のシールドを作り出し、彼らを押しのけてドアをで、外に掛け出した・・・
ロッポンギの街はまだ混雑しており、シンジュクの駅には最終電車を待つヨッパライの姿も見受けられる・・・
ギンザならば、タクシーも拾えただろうか・・
ともあれもう10分で日付も変わる、時間がないのだ・・・
そこでアストラル体を肉体から解き放ち、インペリアルホテルを目指した・・・
ネオンと輝くミラーガラスが霞むように遠のき、そこでスピードを落とすと、ペレのいるホテルの部屋の上空に漂っていた・・・
そこで金と赤の輝くイメージを投影して姿を視認できるようにし、ペレグリンとこころで呼びかけた。
ベッドの中のペレが眼をさました、その姿にフォーチュネイトは遠く離れた身体が感じるはずの痛みというものをかすかに感じたように思えた・・・ペレは一人ではなかったのだ・・・
ハイラムの居場所を知りたい
「フォーチュネイトなの?」ペレが囁いて、私を眼にした「Oh God(嗚呼、なんてことなの)」
急ぐんだ、ホテルの名を言ってくれ「待って、今確認するから」
フォーチュネイトのアストラル体は肉欲を感じることも飢えを感じることもない・・・そのはずなのだが微かにうずくものが感じられてならない・・・
「ギンザダイイチホテル801号室、シンバシ駅の近くにあるHの形をした建物だといっていたわ・・」
それならば場所はわかる、急いでそこに来てくれ、助けが必要かもしれないから・・
ペレの答えを聞く前に、肉体に戻って、そいつを浮遊させた・・・
ニューヨークにいたころよりも、己の異様さというものは自覚できていたが、ともあれ時間がないのだ、好奇の視線を向ける人々に構っている暇はない、高度は充分にとれている、それは確認できた、あとはダイイチホテルに急行するのみなのだ・・・