「零(ゼロ)の刻 その5

            零(ゼロ)の刻


                      ルイス・シャイナー

ハイラムは駅に近い手頃な値段のビジネスホテル、シャンピアホテル赤坂(現在はザ・ビー赤坂と改名している)の一室にいた。
ビジネスホテルとはいうものの、Hallways(回廊:玄関)が狭く靴を外で脱ぐ以外は、アメリカの中級クラスといってもさしつかえのないホテルだ。
そこでドアをノックすると、中から漏れていた騒音が突然止まったように感じられた、それから「いるんだろ」と吐いて捨てるように声をかけてみた。
「フォーチュネイトだ、通す以外にないと思うがな」
そう声をかけた数秒後に扉は開かれた。
中は床一面に脱ぎ捨てられた服やらタオル、新聞やら雑誌などが散乱しており、つまみののったプレートや薄汚れたハイボールのグラスもそのままに、汗臭さと酒臭さが充満し、ちょっとしたスラムといった様相を呈している。
ハイラムはというと、案山子を思わせるよれよれの服をひっかけげっそりした様子に見える。
中に入ると、ハイラムは無言でベッドに倒れこんだので、ドアを閉めてから、椅子にひっかけられたシャツをどかし、そこに腰掛ける。
「そうか」そこでようやくハイラムが口を開いた。「網にかかったというわけか」
「みな心配している、やっかいなことになっているんじゃないか、ってな」
「問題などありはしない、心配してもらう価値のある問題など存在しはしないのです、メモを見なかったのですか」
「おれをみくびるな、ハイラム、Yakuzaヤクザとかちあったのだろ、軽くあしらえる相手ではあるまいに・・何があったというんだ」
ハイラムは目を見開いて驚きはしたが、訥々と話し始めた。
「話さなくても、調べはついているのでしょう」
そこで肩をすくめてみせた、もちろんはったりだが、効を奏したようだった。
「じつはそうです」
「できることはないのか」
「その必要はありません、お金の問題なのですから、それだけなのですよ」
「いくらくらいだ」
「数千くらいです」
「もちろんドルでだろうな」千円は5ドルちょいに換算される。
「何があった、ギャンブルのつけか?」
「いやそのなんだ、あまり自慢のできる話じゃないのです、話さなくてすめばと思ったのですが・・」
「ここにはおれしかいない、30年ゲイシャのポン引きをやってきた男に何の遠慮がいるというんだ」
ハイラムは深く息を吸い込んでからようやく答えた。「いえ決してあなただからというのではないのです」
「なら話してみろ」
「土曜の晩のことでした、私がRoppongi六本木を散策しておりますと・・」
「一人でか」
「ええそうです」ばつが悪そうにさらに言葉を重ねた。
「ここならその・・東洋の神秘とも呼ばれる女性をその・・相手できると
聞き及び・・いてもたってもいられなくなったのです」
ここ6ヶ月の間、自分もそうして暮らしてきたじゃないか
「わかる話だ」
「そこで<英語の話せるホステスあり>、という看板を目にしそこの道に入っていったのですが、
入りくねったHallways(回廊:路地)を進むうちに、道に迷ってしまいして、一端戻って、そこで目にした建物に入り、
何枚も扉を開けたどんづまりに入ってみました、そこには何の看板も出ておらず、すぐにコートを
脱がされ、どこかに持ちさられました、もちろん英語を話す人間などいやしません。
数人の女性が出てきてテーブルに引き込まれ、飲み物を勧められました。
そこではたしか三人の娘がいたと記憶しております。
実際一〜二杯しか飲んではいないのです、たかが一〜二杯ですぞ。
そこで彼女たちは、身振り手振りで、わたしに何かを伝えようとしてきました。
そのしぐさのなんとたおやかで・・艶やかであったことでしょう。
ところがそのわたしを見つめる昏い瞳は、私の上を飛び交い、挑戦的に目配せしあったとみるや、
saki(日本酒)の入っていたと思しき10本の空き瓶を指して、もちろん誰もそこではのんじゃいない
のにです、あたかも私が飲み干したかのように、三人で示し合わせ、その代金を請求してきたのです」
ハイラムは額に滴り続ける汗を、汚れたシルクのシャツの袖で拭いながらさらに言葉をついだ。
「わたしはあのとき・・何かに煽られていた、いや飲み込まれてしまっていたのでしょう、あの娘たち
がしゃなりしゃなりと腕に触れるしぐさは、まるで蝶が腕にとまったようであり、さらに酒を注文させ
られていました、常軌を逸していた」
そこで顔をみつめてようやく言葉をついだ「己を失っていたのでしょう、感情が膨れあがり、娘の一人
に手を伸ばしました、おそらく服を脱がそうとしたのでしょう、そこで娘が叫んで三人とも姿を消した
ところで用心棒と思しき男が扉の向こうから肩をいからせて現れ、ドアのところに身体を押し当てて、
何か請求書をつきつけた、そのときはまだ5万円程度だったんです、それでも実に理不尽なものは感じ
ながらも、手にした私のコートをひらひらと弄んでみせた姿が、Saki(日本酒)の瓶と女たちの
イメージとなり入れ替わり立ち代りぐるぐる回って、完全に現実感というものがなくなってしまったのです」
「どうにもたちの悪い連中にひっかかったものだな・・」ため息混じりに言葉をついだ。
「ましな商売女というのもいるのだぞ、まずはタクシードライバーにでも紹介してもらうんだったな、
それならば信用もおけただろうに」
「そこでようやくまずいことになったと気がついて・・」
「ほうほうのていで逃げ出してきたと・・」
「そこでなんとか追っ手を振り払ってホテルまで戻ってきたわけですが、タクシーをつかまえるまでの時間
が永遠にも思えたほどでした」
「なるほど・・それで場所は覚えているのか、もう一度行けるかということだが・・」
ハイラムはふりはらうようにかぶりを振って答えた。
「2日の間、探してはみたのですが・・」
「何か覚えていることは・・特徴はなかったのか」
「日本語はわかりませんから」
「何でもいいんだ」
そこで目を閉じて答えた
「たしか店の脇に、鴨の置物だか、えらく写実的な絵だかが掲げられていたような、おぼろげな記憶でしか
ありはしませんが」
「それだけなのだな」
「それだけです」
「そして会食のときにKobunコブンと出くわしたというわけだ」
Kobunコブンとは?」
YakuzaSoldierヤクザソルジャーのことだ」
そこで頬を赤らめつつもハイラムの言葉は続いた。
「一体どうやってセキュリティをかいくぐったやら、気がついたら、座っていたテーブルの傍に
立っていて、そこで足を広げつつ軽く屈んで、片方の手の平を上に向けるしぐさをした、それが彼らの
自己紹介の流儀らしい、そこで名乗っていたようだが、私自身慌てていて覚えていない、そこで請求書を
手渡され、そこには25万円と英語でしたためてあり、その金額は支払われなければ、一晩ごとに、
さらに2倍に膨れ上がっていくそうな」
ざっと計算してみた、おそらく現在では7000ドルくらいになっていることだろう。
「そしてもし木曜までに支払われないと・・」
「どうなるんだ」
「暗殺者の姿を目にすることもなく・・死に至るだろうと・・・」