「零の刻」その12

            零(ゼロ)の刻


                      ルイス・シャイナー

朝の菩提樹の木陰は、幾分涼しいとはいうものの、空を見上げると、薄くミルクの濁ったような靄がかかっている・・・
スモッグと呼ばれる靄だ・・
他にも西洋の言葉だと彼らが考えて用いている言葉はある、混雑を表すラッシュアワーとか会社員を表すサラリ−マン、トイレなどだ・・・
彼らは見た目と異なった意味を物事に感じ取る精神を持っている・・・
ここトウキョウの中心にもそれはある、皇居の森には静謐なる流れという場所がある・・・
大気は澄み渡ってもいず、桜は咲いてもいないにも係わらず、多くのカメラマンが群がり、そこをフレームに納めている、そこにはニューヨークの人々の普段目にすることがない、日本の美というものがあるのだ・・・
庭園の外で買ったベントー(日本でいうところのランチボックス)に入った茹でた海老をたいらげつつも、何か落ち着かないものをフォーチュネイトは感じていた・・・
ロウシ・ドウゲンに会いたいと願ってはいるが、彼は遠方であり、それは適わないだろう・・・
そこに行くには飛行機かバス、電車に乗らなければなるまい・・・
ペレは身重であり、ミストラルといえどもそれだけの距離は飛べやしないだろう、何よりもハイラムを見捨ててホッカイドーに行くわけにはいくまい・・・
そう考えていると、数ヤード向こうで、岩の庭園に敷き詰められた砂を竹箒ですいている、年老いた男が目に入った・・・
その男を見ながら考えていた、静謐で身じろぎすらしないタナカ山で、ドーゲンくらい厳しい修行を続けていれば、千日かかろうと大体38000キロ、すなわち地球一集くらいは歩けるようになるのだろうか、と・・・
寺院の堅い木の床に腰を下ろし、石の庭園を絶え間なく鋤くさまを眺めていたが、ともあれ年老いた男に近寄って話かけてみることにした・・
「スミマセン」箒を指し示して言葉をついだ。
「私もよろしいでしょうか?」
年老いた男は、何の好奇も驚きも示さず、余裕のある態度で箒を手渡してくれた。
余所者に対してなのに、何て礼儀正しい方だろうか、そう思わずにはいられなかった・・・
砂をかき始め、なるたけ埃をたてないようにして、調和のとれていると思えるラインを箒に意思を集中しながらこころのままに引いてみる。
年老いた男は菩提樹の下にいって、腰を下ろしている・・・
そうして手を動かしていると、こころにドウゲンの姿が浮かんできた。
日本人は大概若く見えるものだが、その姿は思いの他若いものに思われた・・・
剃られた頭は光を湛え、頭蓋のかたちがはっきりとわかり、話すと口元にはえくぼが浮かぶ、
その手は強い意思を示し、人差し指で親指を指しつつムドラ(印)を切っている・・・
なぜわしを呼ぶ
ドウゲンの言葉が直接フォーチュネイトの頭蓋の中に響き渡った。
マスター
フォーチュネイトは心でそう叫んでいた。
汝のマスターではないぞ
ドウゲンの言葉はさらに続いた。
そなたはまだ生きることを望んでいよう
ここまでの力をお持ちとは存じませんでした
われの力ではない汝の力じゃ、そなたの精神が我を呼んだのだ
私にはもはや力などありません
力に満ちておるではないか、その力が中国の舞踊人形のごとく我の内で踊りくるっておるぞ
なぜそれが私に感じられないのでしょう
己自身が隠してしまっておるのだ、太った男が、ヤキトリを己から隠そうとするように・・・
そなたは現世で望まれておる、現世で力を奮うことが求められておるのに、それを用うることに恥の感情を感じておるのだ。
日本は、恥の文化が特に強いところではあるが、それを濯ぐには、決断というものが必要になるものだ・・・
現世で生きることを望むならば、己の力というものを受け入れねばならぬ・・・
魂の世界に旅立ってしまうことを望むならば、
現世に別れを告げねばなるまい、それを選ぶは汝自身ぞ

砂の中で膝をついて頭を垂れ、こころで呟いていた
ドウモアリガトウ、センセイそれは感謝を表す言葉でもあったが、それ以上会話を進めたくないという痛みをも表す言葉でもあった・・・
いかにもドウゲンの言葉は腑に落ちるものであったが、一方でそれを信じられないという思いも拭いがたくあったが、少なくとも痛みは薄らいだようには思える・・・
顔を上げ、年老いた庭師に視線を向けると、今では恐ろしげな表情を浮かべてしまっているではないか・・・
その顔を見つめながらも、腰の辺りから短い神経の矢のようなものがわずかに感じられてはいたが、それほど嫌な気分でもなくなっていたのだ・・
笑みを浮かべ、お辞儀をしてから口を開いた。
「ご心配には及びません」と日本語で言って、立ち上がり、箒を老人に返すと
「おかしなガイジンもいたものだ」
という言葉が返されてきた。
おかしなガイジン、たしかにそうだ・・・
そんな言葉さえ妙に腑に落ちたのであった・・・