ワイルドカード4巻内なる鏡その2

                 内なる鏡  
                メリンダ・M・スノッドグラス

エテックス通りでタクシーを呼び停め、レフトバンクカフェと書かれたメモを突きつける、それはフランス語で書かれた走り書きでした。
振り向くと、まだネオンこそ灯ってはいませんが、「XXX、Le Filles(トリプルXな女)」とか「Le Sexy(とびきりセクシー)」と書かれた看板が目に痛い。
Martyrマルティール(殉教者)の山々の麓の丘に生じた染みのようにすら思えます。
そこはモンマルトの聖人が死んで、1534年にSociety of Jesusイエズス会が設立され、それにちなんだ名がつけられた場所だというのに・・・
警笛の騒音にありとあらゆる侮辱ともとれる現実が、耐え難いスピードを伴って押し寄せ、視察団の宿泊しているRitzリッツからPlace Vendomeヴァンドーム広場まで轟きわたっているじゃありませんか・・・
そんなことを考えながら所在なげに収まったシートにさらに腰を深く押し込みました、
何もかもが気に病まれてならなかったのです。
セイラはというと、静かで潤んだ瞳をし、シリア以来何かを抱え込んでいながら、それが何かを決して語ろうとはしない・・・
ペレグリンは子を宿した強さを誇示するかのように、何一つ恐れるもののないかのような毅然とした面持ちでいる・・・
ミストラルはかわらない若さと美しさを誇りながら、何か抜け目無くも思え、恥ずべき秘密をこの娘も押し隠しているのではないか、と思える・・
ファンタシーはというと、明るく茶目っ気たっぷりで、その表情からは熱情は伺えるものの、楽しげで隠すことはないように思える・・・
そしてあの男は、いつも通り自嘲を浮かべつつ、同情とも快楽からも距離をおいているようだ、そして拳を硬く握り締めている・・
おそらくあの男につきまとっているのは、少なくとも一人の生者より馴染みのある、この世ならざる女性の影、その亡霊につきまとわれ、きまりの悪い思いを抱いているに違いないのですから・・・
ラタン区域の中心にある、Boulveardブールバード、Saint-Michelサン・ミシェルにあるカフェ、それがあの人が選んだ場所でした。
そこはブルジョワ地区と蔑まれていた地域であり、今ダネールがそこにいるならば、彼女の内に燃え
盛っていた革命の炎はとうに消えてしまったのではないのか、それでも他の炎が消えうせていなけれ
ばいいのに、そう考えているうちに萎える気持ちとは別に様々な記憶が呼び覚まされてくる。
そう、たとえあの情熱を再び味わうことはできなくとも、まだそれを思い出すことはできるのですから・・・
1950年の8月、出あったときにはまだ19歳でしたね。
あなたは大学で政治哲学を専攻し、性愛と革命について学ぶ学生であり、資本家たちによる現代の魔女狩りによってうちひがれつつもわずかに残された知性を慰めようとしてくれたのかもしれません。
そういった苦境にすらも誇りを感じ、肉体を重ねることで、私の殉教に傾きがちな精神をこすりおとそうとするかのような神秘なる熱情を身にまとっていたものです。
たしかに私を利用しようとしていたのかもしれません、それでも私にとっても彼女の存在は理想的なものであり、わたしこそが彼女を、痛みと記憶を覆い隠す覆い、すなわち緩衝として利用しようとしたのではないのか、そう思えてなりません。
ワイン(酒)とCunt(女陰)に溺れ、革命を喚起させるRhetoric寝物語に耳を傾けて過ごすシャンゼリゼにあるLena Goldoniレーナ・ゴルドーニのペントハウスでの日々は、わたしにとって慰めを得るボトルのようなものであり、それは熱情というよりRhetoric自慰のようなものだったのかもしれませんでした・・・
喉にくるゴロワーズ煙草をふかすぎこちないしぐさ、真っ赤なネイルに真っ赤な口紅。
その小さな頭には流れるようでいてヘルメットのような形の良い漆黒の髪。
タイトすぎるセーターに包まれたその豊かな胸と短いスカートの内側のそれは、つねに私の太股の間にあるそれを慰めてくれたのですから・・・
God,How they screwed(いやいや、そうじゃない)、それはお互いの感情が求め合った、ということでしょう、そうだとしても、あの人がわたしを非難しも拒絶しもしはしなかったというのは紛れもない事実じゃないか、そしてあの一月にわたしが彼女の前から去らなければならなくなったときにも換わりはしませんでした・・・だからこそわずかな尊厳というものを持ち続けていることができたのでしょうから・・・
Montparnasseモンパルナス駅のプラットフォームに立っていたわたしに、ダネールがその手にお金とコニャックをねじ込んだときも、ただそれを受け入れました、コニャックは気を紛らわせてくれますし、お金は新たなボトルに変えることができるだろうと・・・
1953年に、ドイツ政府にかけあって、ようやくヴィザが至急され、フランスに立ち寄れたとき、電話口に呼び出すことのできたダニーに結局またわずかな紙片とコニャックを無心していました、もっともっとと・・・そして会って睦みあうことを求めていたのです。
受話器の向こうからは子供の泣き声が聞こえており、そうして電話口に出たあの人の返答はすげないものでした、Get Fucked、Tachyon(タキオン、このばかたれが)、それは怒りを含んだ笑いを湛えているようであり、耳障りなガチャンという騒音が重なって唐突に電話は切られてしまった。
そうして現実感を失った状態であり、Neuillyヌイイの公園でブライズの訃報の記事を読んだのはそのすぐ後だったのです・・

おそらく我々一行がパリについたのをダニーは知ったのでしょう、RitzリッツのBox部屋に、このメモが放り込んであった、レフトバンクでの再会の日、灰色だったパリの空がバラ色に染まり、エッフェル塔がダイヤモンドと形容される輝きを纏う、それは過去を洗い流すか覆い隠す光、そのもののように思えてしまったのです・・・
よくいったDomeドームは労働者層がよく利用するありふれたパリジャン・カフェで、わずかに歩けるばかりの狭い歩道に小さいテーブル、青と白に彩られた明るいアンブレラの間を、眉間に皺よせ清潔とは言いがたい白いスモック(仕事着)に身を包んだ無愛想なウェイターが行き来し、コーヒーとGrilladeのグリラード(鉄板焼き)の香りの中、施しを受けるべくパトロンを探して見渡したものでしたが・・・
いまパリはまだ宵の口ではありませんか、小奇麗な室内になどいてほしくない、そう思いつつ紫煙の中に視線を凝らすと、黒いコートに身を包んだ細身の姿が目にとまってしまいました、濃い目の化粧に絡みつくようなその視線の持ち主・・・それこそが・・・
Dear God(ああ何たることでしょう)・・・No(人違いであったらよかったのに)・・・
Bon Soirボンソワ(ひさしぶりね)、タキオン
「ダネール」気の遠くなるような思いを押し殺して、ようやく椅子を手繰り寄せ
腰をおろした。
すると謎めいた笑顔を浮かべ、コーヒーを口元に運んでいる。
その傍らには吸殻が山盛りとなった灰皿があり、煙草に再び火をつけて紫煙の向こうから揺らぐ視線をそそぐさまは、過ぎし日のあの悩ましい姿のパロディのよう・・・
「何も変わっていませんね」口を開きようやく発したその言葉に、悲しげに微笑みつつ答える声。「そのおせじには無理があるんじゃないかしら、変わったわよ、もう36年になるんだもの・・・」
36年もあれば、ブライズすら生きていれば75歳になる・・・
地球の人々の寿命が自分に比べて憐れなほどに短いものであることは、頭では理解できているつもりでいたのです、それでも思い知らされずにはいられませんでした・・故郷にはもう戻れない、ブライズがこの世を去ったというのにブローンは変わらない姿をさらし、デヴィッドは行方知らずとはいえ、記憶の中だからこそブライズは若さと美しさを保つことができているのでしょう・・・
トミー(トマス・タッドベリ)、エンジェルフェイスにハイラムは、不本意ではあっても順当に齢を重ねていました。
そうわたしの船がマーク(・メドウズ:キャプテン・トリップス)の親の世代に押収されたことからすべてがはじまったのですね、あれは40年もの昔であり、マークはそのころにはまだ産まれてすらいなかったというのに・・・
ほんのわずかな(この星の住民の基準でですが)時間において、若さは必然的に色あせてゆき、それゆえに死に直面することになる、腰を下ろした椅子の冷たい鋼鉄の感触に意識を紛らせながらようやく言葉を搾り出した。
「ダネール」と・・・
「キスして、あのころのようにさ」
目尻にきつい黄ばんだ皺がより、目の光も弱弱しく、灰色のばさばさな髪を無造作にBunバン(髪留め)で束ねていて、深く皺のよった口に塗りたくられた紅い口紅が、そこから滲んだ血のように思える、そこから漏れ出る臭気、強い煙草にコーヒー、安いワインの香りががたがたの歯の間から漏れ出るさまには胃がむかむかし、ひるみはしたが、しいて笑顔を浮かべてみせた、あの人にもわかってはいると思うのですが、傷つけたくはなかったのです。
浮かんだその笑みを打ち消すかのようにダネールが咳き込んで、わたしは思わず腰をあげ、その傍に歩み寄っていました、それを目にしたあの人は、それだけは優雅な仕草で肩をすくめてみせたのです。
Emphysema(肺癌)なの、わかっているのよ、Petit Docteur星から来たお医者さん、この年になっても喫煙の悪習は断ち切れなかったし、医者にかかりもしなかったからもう手遅れなの、だから早く楽になれるようにさ、さらに煙草を吸うわけ、莫迦よね」
「ダネール、あなたという人は・・・」
Bon Dieu(Good God),Tachyon(あらまぁタキオン)、なんてしけた顔かしら、キスもなければ気の利いた言葉もでてこない、あの頃もそんなに饒舌じゃなかったけどさ」
「あのときのわたしはコニャックのボトルの底に沈んで、そこから世界をみていたのでしょう」
「まったく見違えたものね、なんて立派ないでたちかしら」
金襴とレースを身にまとった世界に名高い細身の姿をダネールの前にさらしつつも、わたしが見ていていたのは、何千もの過去の断片、失われた年月の記憶のオンパレードとでもいうべきものでした。
たとえば鼻をつくすえた汗と吐瀉物に尿の匂いと絶望のうめきまでブレンドされたハンブルグの安宿での日々、死を目前として、優しい微笑を浮かべた悪魔が、契約と引き換えに墓まで案内してくれるのを夢見ながら、ボトルを手にしていた日々、そんなダネールと離れてからの日々の記憶がよぎりつつも、ようやく言葉を搾り出しました。
「ダネール、今何を?」
インターコンチネンタルホテルMaid給仕の仕事をしているの」
タキオンの答えを引き取るかのように続けた。
「そう、革命の熱情というものにも終わりはあるものよ、タキー、まぁ革命はおきなかったけれど」
「そのようですね」
「あらあまり幻滅してもいないようね」
「あなたのいうユートピアという思想には傾倒していませんから」
「でもわたしたちといたじゃない、結局放り出されたわけだけど」
「必要だった、つまり利用したのだといえるのかも・・」
「まるでBonjourボンジュール(おはよう)やCommant allez Vousコマンタレヴ(ご機嫌いかが)、というように、ひどいことをさらっというのね、そういうとこまったく変わってない、まぁいいわ、もぅ終わったことだものね」
わずかな棘をその言葉に感じながらも、何とか本題を切り出した。
「ダネール、なぜわたしに会おうと思ったのですか、何を期待していたと」
「あなたを困らせたかったのかもね」ゴロワーズの吸いさしが増えるたびに、灰色の死の影を現実の影そのものの如く纏い、それにのしかかるかのような言葉がさらに続いた。
「本当言うと、あなたを送迎する車に、はためく旗とリムジンの報道を見て、思い出した、それだけのことよ、時を経て、あなたの記憶も薄れておぼろげとなり、現実感もかなりなくなっていたというのにさ」
「その恩恵には与れたらどんなにいいでしょう、不幸にしてわたしの種族は忘却とは縁遠いたちなので」
「まぁなんて哀れな王子様かしら」そう答えてごほごほと咳き込んだダネールに、わたしは内ポケットから財布を取り出し、数枚の紙幣を差し出していました。
「何のつもり?」
「36年前に、お借りしたコニャック代、そしてお礼です」
目に大粒の涙を湛えながらも、ダネールはようやく言葉を搾り出した。
「それは哀れみ、それとも施しなの・・わたしはそんなことのためにあなたを・・」
「ではあのときのように、わたしを突き放し傷つけるのでしょうか・・」
その言葉にダネールは目をそらして答えた。
「憶えているけれど、今となってはいい思い出よ」
「わたしにとっては、辛い過去の一部にすぎません」
「あなたにとってはそうかもしれないけれど、わたしには愛が溢れ、幸せな時代だった、うぬぼれないでね、
あなたがいたから、というのじゃないんだから」
「わかっていますよ、あなたにとって革命こそが終生の恋人だったのでしょうから、それすらも突き放して
しまったのですね」
「誰がそんなこといったの?」
「熱情も消えることがあると、だからてっきり・・」
「老いが求めさせるものもあるものよ、それは若き日よりも強い熱情を伴うこともあるの・・
それじゃ聞くけれど」
何か苦いものを飲み下すように、音を立てて残ったコーヒーを飲み下してから尋ねてきました。
「あのときどうして手をかしてくれなかったの?」
「できなかったのです」
「そうでしょうとも、little Prince星の王子様、王権派でいらっしゃるのよね、貴族であるあなたには下々がどうであろうと
かまわなかったのでしょうね」
「そうじゃない、わたしは個人を尊重するのがよりよい道であって、それを守るべく導くべきだという教えを受けて育ってきたのですよ」
「それがParasite寄生だといってるの」
そのときかつてのあの人の影がよぎったように思いはしましたが、冷たい笑みとともにそれを押し殺して
答えました。
「机上の空論だと、そういうことになるのでしょうね」
放り出されたフラン紙幣の上で、指を組みながらさらに言葉を重ねた。
「あなたの同胞のため、力で手をくださなかったのは、貴族ゆえの感傷などではありませんでした、
もちろん精神的弱者である存在を殺めたところで、けしてものごとがよくなりはしなかったでしょうが、
それだけが力を使わなかった理由ではありませんでした」
そこでダネールは肩をすくめて尋ねてきました。
「じゃどうしてだったの」
「あのときわたしは能力(ちから)を失っていたのです」
「うそ、そんなこと言わなかったじゃない」
「くちに出すと魔法がとけるようでおそろしかったのです」
「そんな」
「真実です、ジャックのおかげですよ」
タキオンの表情に影が差したが意を決したように語り始めた。
「Huac(下院非米活動調査委員会)がブライズを喚問に召還して、あの人の知っているエースの名を聴きだそうとしました、なぜならブライズはわたしの精神(こころ)を共有していたから、そしてもう少しで話してしまうというところで、わたしはそれをとめるため、能力(ちから)であの人のこころを壊してしまいました、それだけではなくあのManiac異常な連中のところに置き去りにしてしまったのです」
その思い、痛みを押さえ込むかのように額に手をやって、能力(ちから)をふり絞るようにして言葉を続けた。
「罪の意識がわたしを蝕み、それをなだめるまでに数年を要しました、タートルが教えてくれたのです、救えなかった過去をどうすることもできなくとも、他のものを救うことによって、罪の意識を軽減できるかもしれないと・・・」
それは己に言い聞かせてきた言葉でもありましたが、ダネールにとってはその痛みより己の記憶による感情の方が強いようで、何の関心も示すことなく激しい言葉を投げかけてきました。
「レーナも軽蔑してたわよ、もっともっとと求めるばかりで何も与えようとしない人だって言って腹を立ててすらいた、誰もが、あなたが計画を台無しにしたのだと罵ってすらいたものよ、今となっては夢物語だけれど・・」
「たしかに誰もわたしをかばいはしませんしたね、アールですらね」
そう口に出しはしたものの、かつて目にした美しさの残滓とでもいうべき存在を前にしては声を荒げ続けることはできませんでした。
「いやそれは真実じゃありませんね、あなたはわたしを守ってくれていたのですから」
「どうかしらね・・でもそのわずかな行いが、同志達からの信頼を損なって、それを回復するのに数年を要したのは事実だわね」
そうぶっきらぼうに認めてはいましたが、視線をテーブルの上に落としながらも、その視線は何もみてはいないようでした。
そこで視線を腕時計に落として、けりをつけるべく言葉を発したはずでした・・・
「もう行かなくては、8時にヴェルサイユを視察することになっているのです、
わたしも変わらなければならなかったのですよ、いまは・・・」
そこで言葉を区切りつつも、何とか言葉を発ししめくくろうとしたのです。
「連絡してくれて嬉しかったですよ」と、その言葉は自分の耳にもよそよそしく
響くものであり、ダニーも表情を暗くし、唇が苦い感情を形作っているようでしたが、ようやく言葉が帰ってきました。
「それだけなの、会って40分もしないうちにAu Revoirオーボワ(さよなら)、と告げて飲み交わしもしないというの」
「もうしわけないのですが、わたしにも予定というものが・・」
「そうよね、ご立派なことだわ」そう答えるとテーブルの上に置き去りにされていた紙幣に視線をうつしてようやく言葉を搾り出した。
「これがNobless Obligeノーブレスオブリージュ(高貴なる義務)の実践というわけね、その見本として受け取っておく」
そう答えつつ、くたくたのバッグからすりきれた札入れを取り出し、そこにフラン紙幣を放り込みつつ、
そのまま
動きを止め、そこにある一枚の写真をじっと眺めていましたが、突然凄惨な笑みを歪んだ唇に浮かべて、声をあらげたのです。
「いいえそれじゃいけないわね、かわりにいいことを教えてあげるわ」
節くれだったいたましい指が、その写真を抜き出して、テーブルの上に放り出したのです。
それはじつに印象的な若い女性の写真でした。
小ぶりで沈みがちな顔を流れるようにして半ば覆うような紅い髪。
そうしていたずらっぽい表情で上に突き出した指を唇にあてるしぐさ、秘密を口止めするようでありながら、
なぜか見覚えがありすぎるその顔。
そうして「この娘は?」と尋ねはしましたが、息を呑むような静寂を感じながらも、答えは己の中で鳴り響いて
いたのです、明白すぎる確信とともに・・・そしてダネールがその沈黙をついに破ってしまったのです・・・
「私の娘よ」二人の視線が写真の上で絡まり、そこに覆いかぶさるようにダニーの笑みが広がっていきました、
そしてついに決定的な言葉を口にしたのです。
「あなたの娘でもあるのよ」
「わたしに娘が・・」驚きと喜びが入り混じった不思議なため息とともに言葉が漏れ出ていました、懊悩を伴い
放浪した日々、そこには絶望と敗北感しか感じられなかった日々、リオのスラムでは礫殺されたジョーカーの姿、
エチオピアでは虐殺があり、南アフリカには抑圧が、そういった貧困と疾病にまみれた放浪の日々の苦悩すらも
突然消えうせ、報われたようにすら思えたのです。
あの娘が産まれ、この星に生きているならば・・・
Impotence不能の原因である懊悩は取り除かれ、
己から失われた大部分の精力も取り戻されたようにすら思えたのです・・・
それなのに・・・
「嗚呼ダニー、私のダニー・・」握った手を引き寄せたずねた。
「娘が、私たちには娘がいたのですね、名は何と・・」
Giseleジゼルよ」
「会わなければ、どこにいるのですか?」
「もう手遅れ、死んだわ」
その言葉は大気を切り裂く氷の刃のように己が胸に突き立ち、こころの一部をえぐりとり、顔を覆った指の間から、絶望のうめきと激しい叫び、そして涙が零れ落ちました。
ダネールはそれだけ告げて走り去ってしまった、ダネールだけじゃない・・・
すべて走り去ってしまったのです。