ワイルドカード5巻第1章 第1節

   死がいこう町・・・その名はジョーカータウンⅠ
          ジョン・J・ミラー

ジョーカータウンの闇を音もたてずブレナンは進んでいく。
ブレナンが闇の一部なのか、闇がブレナンの一部なのか。
冷たさを増していく秋の大気がブレナンを思わせる。
ブレナンの前には青白い山がそびえている。
彼の夢に現れ、彼を責め立てる過去の記憶、捨てきれない思い出を埋めた山だ、ジョーカータウン同様ごみためにすぎない思い出、ごみためを愛するものがいるだろうか?
しかもその記憶はキエンに結びついている。それでもブレナンにとってはかけがえのないものであり、愛するものたちの記憶なのだ。
通りを横切り、都市の残骸を乗り越え半ブロックいったところにクリスタルパレスはある。そこで彼の第六感とでもいうべき狩人の感覚が、彼の後をつけ、彼を見つめる目のあることを告げている、そこで彼は折りたたまれた弓の入ったキャンバスバッグを、扱いやすいようかつぎ直した。
いかな怪物がジャンクの山を住処としているのであろうか?
一度ならずきぬずれを思わせるさえずりを耳にしはしたが、それらは決して風がつくりだすざわめきではなく、月の光の動きが創りだす幻でもない。
とはいえブレナンはパレスの裏側の側壁に吊り下がった朽ちかけた非常階段に跳ね降りたが、彼をとどめるものは何者も現れなかった。
やがて彼は音も立てず屋根に上り、クリサリスの掛けたセキュリティーシステムを掻い潜り、屋根の張り窓から三階に侵入した。
三階はクリサリスの領域で、降り立った通路は完全なる闇、記憶が正しければ、そこにはブリック・ア・ブラックが散りばめられたアンティークのスタンドが立っており、その通路はクリサリスの寝室へと続いているはずである。
クリサリスは眠っていなかった。華美なワインカラーのカウチソファに裸身で腰掛け、古びたカードでソリテールに興じている。
しばしブレナンは彼女に見入った。
彼女の骨格、それを覆う筋肉組織、内臓、それらを血管が縦横に覆っている様を、長いすの上に吊るされたティファニーのランプがつくりだす微かな灯りが、繊細に照らし出している。
彼女はカードを広げ、一枚抜き取り、その模様をブレナンに見せて微笑んだ、カードはスペードのエースだ。
彼女の微笑み、それは彼女同様謎めいている。
彼女の透明な皮膚の下には筋肉がのぞき見え、それを彩るように唇と頬が紅を浮かべている、その顔に浮かぶ微笑みは何千もの意味を持ち合わせ、本心を読み取るのは難しいが、ブレナンは歓迎の表情であると解釈することにした。
「あらずいぶんご無沙汰ね」揶揄するようにみつめてさらにこう付け加えた。
「髭をのばしはじめたのかと思った程よ」
ブレナンはドアを閉め、弓の入ったバッグを壁にもたせ掛けた。
「取引だ」ブレナンの喉から深く柔らかい声がもれでる。
「そうね」彼はその声に、微笑みながらもはやにじみでるとげを隠そうともしていない様子を感じとっていた。
「何の邪魔が入ったのかしら」
数週間前のその日、あのワイルドカード記念日にパレスで会う約束があったが、ブレナンはその約束を果たせなかった。
そのことを責めているのはもはや疑いようもない。
そこでキエンの日記を含む貴書の取引を行うはずだったのだ。
その日記は、キエンの過去を暴き、キエンを刑務所の塀の中に送り込むにたる証拠となるはずのものであり、そいつの入手に成功しはしたが、中身はすでに失われ、もはや無用の長物にすぎなかった。
「すまない、あの日記が必要だった」
「そうね」ブレナンの言葉に彼女は同じ言葉で返した。
けだるく動く筋肉の動きに怒りがのせられているようにすら感じられた。
「それで読んでみたのかしら?」
ブレナンはどう答えるべきかとまどいはしたが、即答で返した。
「答えはイエスだ」
「それでその内容を共有する意思はもたないというのね」
その言葉は申し入れ、というより要求以上のものと感じられ、真実を告げるころあいだとブレナンは判断し答えた。
「可能なかぎりは提供する」
「それならば許すしかないわね」あまり許す気の感じられないトーンで彼女は応じながら、
ゆるやかに希少なカードを集め、ソファの隣にある蜘蛛あしテーブルの上にそっと置き、ものうい様子でもたれかかった。
彼女の肢体の上に、透明で暖かく馴染みのある乳房が、規則ただしく鼓動とともに脈打ち上下しているのが見える。
「渡すものがある」ブレナンはとりなすように言った。
「情報ではないが、同等の価値がある物だ」
ブレナンはカウチの縁に腰掛け、デニムのポケットから、透明で小さな包みを取り出し、
クリサリスに差し出した。
クリサリスが包みを受け取ろうと手を伸ばしたときに、彼女の温もりとともにその太股がブレナンのそれと重なる。
「ブラック・ペニー」彼女は受け取ったガラス織布の薄葉紙封筒の中身を、明かりにすかして見せた。
「世界最初の切手にして、保存状態良好の希少品、ビクトリア女王の肖像が印刷された代物だ」
「ご名答」またもや彼女の表に謎めいた笑顔が浮かぶ。
「でどころは聞かないでおくわね」
ブレナンは答えず笑顔で返した。
彼女が全てを完璧に知ったうえで、あえてああいったことがブレナンにはわかっていたからだ。
あのワイルドカード記念日に、レイスがキエンの金庫から日記とともにくすねてきたものであり、その日記が台無しになったことの責任を感じているレイスに、ならば代わりにこいつをもらっていこうとブレナンが申し入れ、快諾を受けて受け取ったものだった。
「気にいってくれてなによりだ」クリサリスがその切手をカードの束の中に挟みこむさまをみとめながら、ブレナンは立ち上がり、4脚ベッドの脇に、おそらくクリサリスがブレナンのために用意したと思しいアイリッシュウイスキーデカンターを見つけ、思わず手にとり眉根を寄せてから、再び降ろした後カウチに腰を下ろした。今日は長い1日だった、流石に疲れがたまっていたのだろう。
すかさずクリサリスがブレナンの腰に手を回し身体を重ねてきた。
ブレナンの鼻腔を彼女の麝香じみたフェロモンと香水の香りがくすぐり、彼女の首筋に浮かぶ頚動脈内の血流が激しさを増した様が目に入る。
「飲酒に対する態度を改めたのかしら?」
軽いからかいの声がかかる。
デカンターは空だった」
手を放し、ブレナンのすねたような瞳をクリサリスは覗き込んで話を続ける。
「あなたが飲むのはアマレットのみだったわね」
そしてそれが問いかけではなく、確認であることをうなずいて示した。
ブレナンは真剣な瞳で見つめ返して言葉を返した。
「初めて会った時、俺は情報のみを求めた、個人的な関係など求めはしなかった。
そうして始まり、次第にそれは意味をなさなくなっていた。
俺の流儀では臥所を共にするのは一人でなくてはならない。
俺が愛を交わすにたるのはその流儀に敬意を払うもののみだ」
クリサリスは何度もブレナンの顔を見返した後、意を決して言葉を返した。
「私が何人と寝床を共にしようとあなたとは関係のないことだわ」
その口調から、彼女がこれまで装ってきたイギリス訛りが拭い去られていることに
きづいたブレナンはうなずいて返した。
「ならばこれまでだ」
そうして彼は立ち上がって背を向けた。
「待って」その背中に立ち上がった彼女が必死に追いすがる。
振り返るブレナン。
そしてしばし見つめあった後に、沈黙を破ったのはやはりクリサリスの方だった。
「少なくとも喉は渇いているのよね、だったら下へ行ってデカンターを満たしてくるわ、そうしたら話すことはあるんじゃないかしら」
そう言ってから、デカンター片手に立ち上がったクリサリスは、ギャロッピング・ホースを思わせる微かな煙をあしらった絹織りのキモノに身を包み、その表に浮かんでいるのは謎めいた微笑みではもはやない、シャイで朴訥な笑顔、それのみだ。
疲れたブレナンを望んで迎えてくれるただ一つの場所、その名はジョーカータウンか。
「いいだろう」ブレナンはソフトに応じた。
ベッドルームの壁面を飾る無数のアンティックミラーに映る自分の姿を見つめながら
ブレナンの想いは千々に乱れていた。
黙って立ち去るべきだ、心のどこかでそんな声がする。
彼女の魅力がどうこうという問題ではない、己に対するとまどいがあるのだ。
十年来女性の愛をうけいれてはこなかったはずだ、女性を受け入れ、必要とすらして
いる自分に対するとまどいだ。
ジョーカータウンに来てはじめて、自分がおきざりにしてきたなにかにきづかされたといえるだろう。
これまで自分は憎悪のみを糧として生きてきたのだ、かってキエンの謀略によって生命を失ったフランス系のベトナム人であった妻に対したように、クリサリスを愛することができるのだろうか?
目的を心に刻み、禅の修業を積んだところで答えのでることではあるまいに・・・
そんな物思いにふけりながら、ふと立ち上がり我にかえる。
おかしい、もうもどっていてもいいころあいのはずだ。
クリスタルパレスでクリサリスの身に何か起こるなどあるものだろうか?
そんな考えを打ち消しながら、過去何度もおのれを救ってきた勘に従い、弓を組み立てて、クリサリスを探してみることにした。
暗闇で引き返してきたクリサリスと出くわし、笑い話になればそれでいい、危険を身近に感じるこの瞬間の方が、ブレナンにとってはるかに馴染みのあるものであり、居心地のよいものなのだ。
3階の廊下にはクリサリスの影もなく、バーに通ずる階段にも姿は確認できなかったが、かすかなつぶやき声が耳に届き、階段の影に潜んで耳をすましつつ、弓に矢をつがえ、息をひそめて中の様子を注意深くうかがった。
丹念に磨かれた手すりに囲われたカウンターの中に、クリサリスはいた、デカンターは空のまま放置されており、夜間照明のため正確にはみてとれないが、2人の男によって後ろ手を結わえられているようだ。彼女の不快感を表したいびつな表情がこちらからもうかがえる。
そしてもう一人がクリサリスの前で、バー正面のテーブルに腰掛け、クローム張りのピストルをもてあそんでいるのが確認できる。
「いいかい」危険でか細い声が続く。
「吐きゃぁいいだろう、ネタもとに関しちゃ黙っているといっているんだぜ」
威圧的に椅子にもたれかかりながら脅しの言葉をつけくわえるのも忘れない。
「もうすぐ抗争が始まるんだ、何かあったところで、どこから撃たれたかわかりゃしないだろうがな」
「それで話すとでもお思いかしら?」
怒気を含んだクリサリスの声に、微かな怯えの感情がブレナンには感じられた。
椅子に腰掛けた男がさらに畳み掛ける。
「あんたはしゃべるさ、あんたはジョーカータウンのことは隅の隅までわかっている、シャドーフィスト会なんて新参の連中が縄張りを荒らすとどんなまずいことになるかあんたにはわかっているはずだからな」
「ではその情報があったとして・・」クリサリスは強気で押し切ることにしたようだ。
「それに見合った対価はいただけるのかしら?」
椅子の男がいらだたしげに首を振って返す。
「あんたわかっちゃいないだろう・・・抗争が始まったら儲けがどうこうなんて話じゃすまなくなる、死んでから話さなかったことを後悔しても遅いっていっているんだ」
椅子の男はテーブルを小刻みに叩きさらにいらだちを強調したのちやり方をかえることにしたようだ。
「サル」クリサリスの右に腰掛けた男にあごで何かをうながした。
「うわさの透明な肌にどんな傷が残るかためしたっていいんだぜ」
サルと呼ばれた男はすごんで念をおすつもりらしい。
「いいんだな」最後通牒の響きと耳障りな空を切る音が耳に入り、きらめく刃の輝きがブレナンの目に飛び込む。
クリサリスの顔の前でナニカを振って見せているようだ。
後ずさり、叫ぼうと口をあけたところで、左側に立った男が、手袋をはめた手で押さえにかかる。
あざけるサルの前にブレナンが立ち塞がり、かまえた矢を解き放った。その瞬間サルの身体は、バーの中を勢いよく弾き飛ばされた。
なにが起こったか推測することすら不可能であったろう・・・
クリサリスを除いては・・・
それでも椅子の男はすばやく銃をひったくったが、足元に崩れ落ちた。
ブレナンの寡黙な一矢が彼の喉を貫いたからだ。
恐慌に襲われ必死にホルスターに吊るした銃をとりだそうと、ジャケット内部をまさぐるクリサリスを抑えていた強面の男の右腕を矢が射抜き、銃を取り落とした男はクリサリスから弾かれるかたちとなった。 己の手に突き立ったアルミ軸の矢を見つめながら、 「Jesus oh Jesus(嘘だ、ありえねぇ)」そうつぶやきつつ銃に再び手をのばしたところで、闇の中から声がかかる。
「思い直すなら今のうちだ」ブレナンの声「右目を射抜かれては後悔もできはしないだろう」
生き残った男はバーを背にして立ち尽くす道を選んだ、それは賢明な判断であるといえるだろう。負傷した手ををかばいつつうめいている男を尻目に、バーをちろつきながら照らす夜間照明の下にブレナンは歩み出た。
男はブレナンの弓につがえられた鋭い矢の切っ先を凝視しつづけているようだ。
「何者だ?」抑えて気ぜわしげなブレナンの声にクリサリスがこたえる。
「マフィアよ」その声には緊張と深い恐怖の色がにじんでいる。
ブレナンはうなづきつつ、己の喉に向けられた矢じりから目を放せなくなっている男に言葉を投げかけた。
「俺の名前を言ってみろ」
男は粗野にうなづきつつ答えた。
「ヨーマンってやつが弓で殺しをするって<エーシィズ>誌にでてたのを読んだぜ、それが
あんたなんだろう」恐怖に後押しされるかのような言葉が男の喉から流れ出る。
「その通りだ」そう答えながら、喉に矢を受け血の海に突っ伏しているテーブルに腰掛けていた男に息の無いことをすばやく確認する、サルの方は心臓を完璧に貫いているため確認の必要はないだろう。
「おまえは運がいい」死人を思わせる冷たい声がさらに続く。「何故だかわかるか?」
弦から指を放し、矢を脇に押しやる動作を認めた安堵ゆえか、いきおいよくかぶりをふる男にブレナンは答えた。
メッセンジャーが必要だ。クリサリスには手を出すな、そのルールをボスに伝えるメッセンジャーだ。クリサリスに何かあったならば、俺の手の中にあるそいつの名が刻まれた矢が俺の手を離れることになるからだ。その意味がわかるな?」
「もちろん、もちろんだとも」
「それでいい」そう男に答えつつ、背ポケットから1枚のカードを取り出してみせつけ加えた。スペードのエースの文様が窺えるカードだ。
「これがお前の言葉のうらづけとなる」
男の貫かれた方の腕を肘でおさえ、まっすぐにひっぱり押さえ込む、そしてスペードのエースが矢頭に据えられたのを視界にとらえた男は、再びうめきはじめる。
「これは証だ」くいしばった歯の間から搾り出すようなブレナンの声が続く。「約定を果たすための印といってもいいだろう」
その言葉と同時に、男のもう片方の手に矢じりが突き立ち、思わぬ鋭い痛みにひざをつき叫びをあげる男の両手を、折り曲げた矢のアルミ製シャフトでカフスを止めるかのように両手をとめて転がした。
恐怖と痛みでブレナンの足元に崩おれてすすりなく男に声のみがふりかかる。
「次はない、もしあるとするならば」容赦のない声がさらに続く。
「それはお前が死ぬときだ・・・」
その言葉に押されるかのように、男はよろめきつつ、うめくような
とがめるよな文句を早口でまくしたててから走り去った。
フロントドアから男がまろびでたのを確認したブレナンはようやくクリサリスに向きあった。
そのブレナンに、恐怖と、それ以外の感情をたたえたクリサリスの瞳がまっすぐにブレナンを迎える。
「怪我はないか?」柔らかいブレナンの声。
「えぇ、だと思うけど・・・」応じるクリサリス。
「話は後でするにして・・」落ち着いた声が続く。
「死体は片づけねばなるまい」
「そうね」クリサリスは気を取り直し、すばやくうなづいて果断に応じた。「エルモを呼ぶわ、それでなんとかなるとして・・・」
言葉を切ってまっすぐにブレナンをみつめ、続けた。
「貸しができたわね」
見つめ返したブレナンが皮肉に返す。
「貸し借りだけが人生でもあるまい」
クリサリスはいささか仰天しつつも、うなづいて答えた。「そうね」次にはしっかりと答え直す。
「そういう人生だったかもしれないわね、それに必死だった・・・」そこで言葉のトーンを落とし、振り返って店内を見回し、サルの死体を一瞥した後に話題をかえ、言葉を続けた。
タキオンからワールドツアーに誘われているの、乗ろうと思っているわ、、マフィアやキエンのシャドーフィスト会なんて輩の抗争からも距離を置くことができるだろうし、政治家も同行するツアーだから彼らから情報も守れるだろうから・・・」ブレナンの目をようやく見つめて締め括る。「それになによりもここよりは安全でしょうしね」
しばしの間、お互いみつめあった後に、ブレナンがうなづいて幕を下ろした。「これまでだな」
ウイスキーくらいはいけるでしょ?」視線を逸らし、足元に転がる死体に視線を移してブレナンも同様に言葉をしぼりだした。
「酒はやらない、酒は記憶を呼び戻す・・・とりわけこんな夜なら尚更だ」クリサリスの方に向き直ってブレナンは言葉を続けた。
「数週間のあいだ、行方をくらますことにする・・・
出発には立ち会わないほうがいいだろうからな、しばしのお別れだ」そういい残し立ち去ったブレナンを見送るクリサリスの透明な頬を一筋の涙が滑り落ちる、しかしブレナンは振り向かない、そしてきづくことすらなかった。