ワイルドカード5巻第4章 おうさまのおうまも・・・Ⅱ

濃密で暗い水底から鬱々としたゴボゴボという音が響いてくる。
世界はねじくれ、回転し沈み込んでいるように思える。
弱りきって、目もかすみ、動くことすら適わない。
足の指先から凍りつくような感触が感じられ、その感触は次第次第に強まり上体へと這い上がっていくようだ。
水位が股下まで達していることに気づき突然の恐慌におそわれ、その恐慌が覚醒へとつながったとみえる。
なかば麻痺した指でシートベルトを引きちぎったが、すでに遅かった、抱擁するかのごとき冷たさの源は、すでに胸元まで達しており、姿勢も不安定で足元すらおぼつかない、そうこうしているうちに、水位は頭上まで達して息もできなくなり、すべては暗転し、墓のごとき沈黙が己を包み込もうとしている、脱出しなくては、このままではいけない・・・

むせこんでその咳で目が覚めた。のどの奥に、出かかった叫びがまだひっかかったような奇妙な感触があり、まどろんでいる彼の視界に、窓枠にぶらさがったわれたガラスの破片が飛び込んでくる。
たまらず目を閉じ、己れを落ち着かせようとするも、胸の鼓動は静まらず、シャツは汗に濡れ、ぴったりと肌に吸いついている。
ただの夢じゃないか、運がよかったんだ、シェルの内部で何かが爆発していたが、脱出できたじゃないか、もう終わったことだ、と繰り返し繰り返し己に言い聞かせる。生き延びて穏やかな日々をおくっているじゃないか。深く息をつき、10まで数えてみようとこころみ、7まで数えたところで身震いしつつ目を開いた。
ほぼからっぽの部屋にベッド替りのマットレスがしかれており、立ち上がったところで、シーツが身体に絡み付いてくる、破れた枕から飛び出た羽毛が、割れた窓から差し込む日の光の中で舞い落ち、けだるげに床に降り立つさまや、先週買ったばかりの目覚まし時計が部屋向こうの壁に跳ね返って、かすかな緑で彩られた蛛の巣状の文様の浮かぶディスプレイでランダムな数字が点滅した後、完全に沈黙し、飛び散った破片の一部が天井から滑り落ちた。
嘆息しつつ、シーツを振りほどいて立ち上がる。
ここのところずっとこうだ、くそいまいましい深層心理とやらが、毎晩夢で絶賛上映中ときているからたまらない。
それだけじゃない、壁はまっさら、あらかた家材の処分された部屋を隣人が見たらどう思うだろうか?そんな想いまでが込みあげてくる。
思わず知らず再三つぶやく、ナニもない、なにも・・・
バスルームで湿った下着をかごに放り込みつつ、洗面台の鏡に映ったわが身を見る、その姿は実際より10はふけて見える。
おそらくここ数ヶ月夜毎繰り返される悪夢のせいにちがいない。
這い登るようにシャワーの下に至り、カーテンを閉じる。
水のはった石鹸受けの中の、なかば溶けた石鹸のかけらに神経を集中する、これならば危険はあるまい、薔薇の香りのする石鹸はまっすぐに手元に飛び込んでくる。
ぬるぬるして実に不快な感触を感じつつ、再三下に戻そうと、冷たい蛇口の方に意識をむけたのちに、溜息をあげることになった。
勢い良く蛇口から迸ったいてつく水に打たれることになったからだ。
それからすばやく手で蛇口をひねって湯をあび直し、その暖かさに安堵しつつ肩をすくめた。
良くはなっているのだ。
石鹸を泡立て身体を洗いつつ物思いにふける。
20数年に及んでタートルとしての活動をしてきたが、シェル内部以外での念動能力は減退する一方で、ほぼ発揮できないと思い始めていたが、タキオンに言わせれば能力的限界があるのではなく、どうやら精神的障壁が能力にブレーキをかけているらしい。
あれから色々試してはみたが、精々石鹸のかけらを動かし、蛇口をひねれる程度どまり、ともあれシャワーを頭に受け、熱い液体が身体を伝わるにつけ、悪夢の残滓までをも洗い流してくれるような気がして苦笑する。
潜在意識なにほどのものぞ、何にせよ限界はあるのだ、そう考えると気が休まり、安らかに眠れるような気がしてきた。
次に目を覚ましたときには、この部屋もそれほどひどい状況にはなっていないに違いない。
いかな悪夢が待ち受けようとも、僕はタートルなんだ、弱って目も霞み、溺れ落ち込もうとも、僕は無敵の勇者タートルだ、機関車でお手玉をし、戦車だろうと精神力で押し潰してみせるさ。
近頃のタートルときたら、王様の馬も家来も・・・そんな文句が脳裏に蘇ってくる。
シャワーを止め、体温が奪われる感覚に身震いしつつ、バスタブを出てタオルで身体をぬぐいつつキッチンに赴き、自分のためにコーヒーとブラン(ぬか)シリアルの入った小鉢を用意する。
味わうたびに湿ったカードボードのような味だと思っていたが、新発売のエクストラヘルシー仕様のブランシリアルは、おそろしいことに木の切り株のような味でさらに辟易するが、かかりつけの医者が脂肪分を減らし、繊維をとらないと危ないといいはるから仕方がない。
コーヒーも減らすようにいわれているがそいつは無理な相談だ。
もはや中毒のレベルのためやめようがないからだ。
電子レンジの隣にある小型のテレビに向き直って、テーブルに腰掛けCNNを見始める。
マンハッタン地方検事局の腐敗追求が佳境に入ったことを報じている。
地方検事補の一人が、実はマフィアのドンであったという疑惑で起訴は免れないとのことであり、その問題の人物、ローズマリー・マルドゥーン、本名ローザ・マリア・ガンビオーネは闇社会にもぐりこんで行方をくらましており、消息不明とのことであった。
もう会うことはないかもしれない。そんな想いがこみあげてくる。
ジョーカータウンでギャングの抗争が始まったばかりのころに、彼女からエースのボランティアとして力を貸して欲しいと提案されながら、手を貸さなかったことにいまさらながら罪悪感を感じている。
助けを求めている人の手を、タートルが振り払ったことを意味するからだ。
まともなシェルか、そいつを建造するだけの金さえあれば、タートルの死の淵からの生還は容易となっただろう、しかしそんなものはなかったし、実際手を貸さなかった。
手を貸したエースたち、パルスやウォーター・リリィ、ミスター・マグネットたちの評判は地に落ちた。彼らは組織犯罪の一員として身柄を押さえるべきだとの声さえ上がっており、そんな彼らの様子を見て安堵の笑みをうかべる、そんな自分がいやだった。
タートルは死んだことにしておいたほうがいいのだ。
そうこうしている内に、海外ニュースとなり、エースツアーの最新情報が流れる、もはやペレグリンの妊娠などは古いニュースながら、シリアで巻き起こった流血の惨劇のような続報はなくてほっとした。
スタックドデッキ号が日本に降り立ったという情報はかすかな感慨をトムにもたらした。
子供のころに話で聞いていた著名な都市やエキゾチックで遥かなる異郷を旅することはずっと夢だったといっていいだろう。
しかしそんな費用はなく機会にめぐまれることもない。
週末にシカゴのコンラッドヒルトンホテルでの家電商談会に赴くことはあっても、そんなものは彼の幼少からの願いを充足させるものではなかった。
タートルも誘うべきだったのだ、もちろんシェルをどうやって運ぶかは問題であり、本名を明かさずにパスポートを取得することは不可能ながら、それぐらいの手配はしてしかるべきなのだ。
なぜそうしなかったかというと、タキオンは真相をしっていたとしたところで、他の連中はタートルは死んだと思っており、手間を省いたとそんなところだろう。
ここベイオーンで繊維過剰のぬかを口いっぱいにほおばるものもいれば、ミストラルにファットマン、ペレグリンなんかのように、日本の神社仏閣で美味い朝食をぱくついているものもいるのだ。
それでさらに気分が悪くなった。
別にぺリやミストラルに含むところなどありはしない。
それでも気にかけすらしてくれないのはひどすぎる。
あのいけすかないジャック・ブローンでさえ招待されたというのにだ。
まぁ他にも問題はあるか、エースやジョーカー向けにあつらえられた特別席であったところで、タートルが収まりきるかはわからないわけだし。
そんなことをもごもごいいながら、口いっぱいコーヒーを頬張り、テーブルから立ち上がってTVを切り、また物思いにふける。
タートルは封印し、死の国に送り返すと決めたのだ。残骸を掘り返し、そいつを操れば、来年は世界旅行にいけるかもしれないが、そんな考えが頭をよぎったが、そんな考えも封印するにこしたことはないだろうから・・・