「ワイルドカード」4巻第2章

              綾なす憎悪

                   パート1

              スティーブン・リー

                 1986年、12月1日 シリア
 

バル・アラウィーの山々から、冷たく乾燥した風が、砂利がちなバディヤ・アッシャーム砂漠のラヴァ・ロックを超えて吹きつけてくる。
風は村々に密集したテントをカンヴァスにして様々な文様を描き出す。
強い風がマ−ケットを吹き抜ける様は、寒さに対して、人々が己のローブのサッシュを引っ張って、身体にきつく巻きつけ暖をとる様子を思い起こさせる。
蜂の巣のように密集した泥煉瓦作りのビルの窓の一つの中に、エナメル製ティーポットの底を焙る炎を、一陣の風が迷い込み揺らめかせ、イスラム民族衣装である黒衣、チャドルを身体に巻きつけ、頭に青い髪留めを付けている以外は何も装飾品らしいものを身につけていない小柄な女性が、そのポットを取り上げ、二つの小さなカップにお茶を注いでいる様子が窺える。
部屋には、漆黒の髪、かすかに輝く肌で、錦色のアズュールローブの下にエメラルドを帯びた中背の男がおり、彼女からカップを受け取った。
彼から放射される暖かさを彼女は感じ、甘いお茶を口に含みつつ声をかけた。
「また寒くなるそうよ、ナジブ、あなたにはその方がいいんでしょうけどね」
彼女の言葉を肩をすくめる動作で受け流し、唇を引き結んで、彼の暗く尚且つ激しく射抜くような視線が彼女を捉えた。
アッラーの采配というものだ」再び開かれたナジブの唇から、いつもの傲慢さに彩られた投げるような言葉が漏れ出る。
「不平を聞かせたいのか、女じゃあるまいし、夏のさなかであったって、お天道様に文句をたれたってなんにもなるまいに」
それを聞いたベールの下のミーシャの瞳が細められた。
「私は千里眼カーヒナなのですよ」反論を半ば期待した言葉でミーシャが返した。
「天地神明にかけて、冷たい外見の下の温かさをこの私は知っている。弟ナジブが、アッラーの光の化身、ヌール・アル・アッラーであることなど望んでいないことをこの姉は知っています。」

ナジブは不意に平手で姉の頭を打ち据えることで答え、ミーシャの手を離れたカップは床に落ちて砕け、彼女はその中身で手と手首を火傷した。
ナジブの冷たい光を放つ表で、目だけが暗く彼女がその手を鈍く痛む頬に添えるのを見据えている。
もはや何もいうべきではないと悟ったミーシャは、黙って砕けたカップの破片を拾い集め、ローブのはじでしみをふき取り始めた。
「今朝サィードに会った」ナジブはミーシャを見下しながら追い討ちをかけるように続けた。「妻がだらしないとこぼしていたよ」
「サィードなんて豚亭主知るもんですか」顔もあげずにはきすてるように答える。
「しつけが必要だとも謝っていたぞ」
「できもしないくせに」ミーシャの反論に嫌悪をにじませてナジブが更に反論する。
「サィードは俺が一軍を任せ、カフィール(不信心者)の蛮族共をその軍略で海の向こうにまで一掃した、アッラーにより、神の如き無敵の身体に勝利者の魂を授けられた男にも係わらず、俺に忠節を誓っている。その忠節を認めて姉を嫁がせた男だぞ、コーラン曰く、『女が男に勝る美徳あり、それは忠節なり』とある。アッラーの恩恵たる美徳に背くのか?」
「母の胎内で共に生を受けた私達に、アッラーは光と声をあなたに与え、私に眼力を分け与えました。
だからあなたは彼の声たる預言者となり、私は未来を予見する千里眼を得、あなたの目となったのです。その片割れたる私が言うのです、あなたのその肥大化したプライドはいずれあなたを滅ぼしますよ」
「ならばアッラーの声をそなたに伝えよう、汝謙譲を学ぶべし、だ。パルダに囲わぬサィードのやりように喜ぶがよい、サィードがそなたに手をあげぬのはそなたがカーヒナだからにすぎない、父がそなたにダマスカスで学ぶことを許したのは間違いだったようだな、不信心たるものどもの考えに染まってしまっておるようだ。サィードを安堵させることだ、それが余の安堵につながる、ミーシャよ、それこそがアッラーの叡智というものだろう」

「時に思うのよ、ナジブ・・・」言いかけたミーシャの動きが拳を握り締めたかたちでかたまり、視線が不意に遠くなり、破片が手に刺さったかのように突然叫び声をあげ、わずかな間血が踊るかのごとく輝き、ふらついてうめいた後に、彼女の視線は再び焦点を結んで落ち着いた。

「何だ」ナジブはミーシャにかけより尋ねた。「何が見えた?」
ミーシャは火傷した手を腰に当てて支え、瞳に痛みをたたえて語りはじめた。
「すべてはナジブ、あなたにかかわること、私が亭主を見下そうと傷つこうとかかわりのなきこと、あなたの姉、ミーシャはアッラーから授けられた役割を失うことになる、それが私カーヒナからヌール・アッラーたるあなたに伝えられるすべてです」
「女よ・・・」ナジブは警告するかのように語り返す、その声は強さと深みを増し、その音色はミーシャの脳髄を揺さぶり、従って話の続きを語らせるにたる力を備えている。
ミーシャは外気に触れ凍えるかのごとく身震いして、思考を停止させて従わせようとするその声をはらいのけた。
「その力を私に使わないことね、ナジブ」
強い調子で、兄に対抗して言い切るようにミーシャは返した。
「私が慫慂とした女だと見なすならば大間違いです。その調子で何度もアッラーの舌をみだりに用い、従わせようとするならば、いつか我が手でアッラーの目があなたから摘まれ、失われる日がくることでしょうね」

「ならばカーヒナ、妹よ」答えたナジブの声はもはや力を失って聞こえた。

「見たものをそのまま語ってくれないか、ジハードのヴィジョンは見えなかったか、そこで
俺はカリフの錫杖をつかんでいなかったか?」
ミーシャは、過ぎ去った白昼夢を呼び覚ますかのように目を閉じ答えた。
「いいえ、これは新しいヴィジョンです」ミーシャは語り始めた。
「遠き地にて、太陽を背にした隼が見えます。隼のヴィジョンは近づきその腕たる鉤爪に百人ほどの人々が抱かれてひしめている様子が見えます。
山の麓には弓を携えた巨人がたち、その弓から矢を解き放ち隼を射、傷ついた隼の瞳は怒りに燃え、その叫びに呼応するかのように、巨人は新たな矢をつがえましたが、その矢はとりこぼされ巨人の腹部に突き立ちました、そして巨人は崩れ落ちたのです」
ミーシャは閉じた目を見開きしめくくった。
「それが全てです」
ナジブは鼻を鳴らし、自らの目の前で、輝く手を振って抗議の声を上げた。
「それが何を意味するというんだ?」
「意味はわかりません、アッラーが示すのは予知夢のみで、解釈はその限りではありませんから、とはいえおそらく巨人は・・・・サィードでしょうね」
「ただの夢であって、アッラーの啓示でないこともあるだろうが・・・」
ナジブは大仰なそぶりでミーシャを制して、つかつかと歩き距離を置いた、
そのそぶりに怒りを感じ取ったミーシャを尻目にナジブは続けた。
「ならば忠臣にかしずかれた俺はさしずめ隼だな」
「サイードを従えたあなたもまた巨人といえるでしょう、アッラーは反逆を示唆しているのかもしれません」
ナジブは顔を背け、砂漠の強い日差しを遮ろうとするかのように窓を閉ざした。
外では村のモスクからの詠唱の声が流れ始めている。
「ア シャデュ アラ アッラー イラ ラー(アッラーは偉大なり、アッラー以外の神はあらまじ)」
「あなたは勝利と、ジハードを夢み、新たなマホメッドを望んでいるようですが」
ミーシャははき捨てるように断言した。
「そんな解釈の余地は皆無です」
アッラーの御名にかけて」しかしそれがアッラーの意志ででもあるかのように、頑なに顔をそむけたままでナジブが切り返した。
「罪深き者どもの元に訪れしアッラーは、肌を朽ちさせ恐るべき災厄をもたらすが、サィードの如き忠実なるもののもとを訪ないし折は、好意と恵みをもたらすという。
各々がその選びし道に応じて恵みを受けるのだ、サィードが選びしは我に対する忠節の道。
ならば我はその忠節に答えてなすべきことをなすのみ、我が手にサィード、彼のものの軍隊は我がかいな。
カーヒナ(予見者)にしてキハス(終末を告げしもの)たるそなたの率いし者、祈りの時を告げし時の御使いムアッジンであろうとも隠れし悪なら闘うのみ。努々導きを誤るでないぞ」
再びアラーの光が戻ったかのごとく長広舌が部屋に満ち、彼の影が光にかすんだかのごとく思われ、続く弁舌も揺るぎなくしめくくられた。
「我がなすはアッラーの意志、ならばそなたも従うにしくはなし」と。